いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
王都ホバンスへの道のりは遠い。
アベリオン丘陵の境界線に沿って点在する村々を経由しながら進む大所帯の行軍は、優に一ヶ月近い時間を要する。
迎えに走った往路では馬を潰す勢いで昼夜を問わず駆け抜けたレメディオスだったが、復路においては驚くほど慎重に進軍の歩調を緩めていた。国を挙げて迎え入れるべき気高き英雄たちに、長旅の過労を強いるわけにはいかないという、彼女なりの最大限の配慮であった。
「本日はここまでとする! 前方の村で休息を取るぞ!」
レメディオスの号令により、一行は丸太の防壁に囲まれた中規模の開拓村へと足を踏み入れた。
そこは奇しくも数週間前、マヤとクレマンティーヌがバフォルクの小部隊から救った村の一つだった。
白銀の鎧を纏った聖騎士団の豪奢な隊列に、最初は遠巻きに様子を窺っていた村人たちだったが、列の中央を馬に揺られて進む二人の姿を認めた瞬間、その空気が一変した。
「ああっ……! あの赤いドレスは!」
「命の恩人様だ! 我らが英雄様が、また来てくださったぞ!」
誰かが上げた歓声を皮切りに、畑仕事や手仕事を放り出して、村中から人々が広場へと押し寄せてくる。
さらに村人たちの熱狂を加速させたのは、彼女を丁重にエスコートするように囲む聖騎士たちの存在だった。辺境の民にとって、王都の精鋭である聖騎士団が直々に護衛についている光景など、建国以来の異常事態である。
「見ろ、聖騎士様たちが付き従っておられるぞ!」
「もしや、聖王女様が直々に認めた『聖女様』として迎えられたのではないか!?」
「おお、聖女様……! 新たな聖女様の誕生だ!」
事実と過剰な敬意が混ざり合い、民衆の熱狂が頂点に達しようとしたその時。
先頭を進んでいたレメディオスが大きく頷き、誇らしげにドンと胸を張った。
「うむ、その通りだ!」
よく通る聖騎士団長の声が、広場に響き渡る。
「彼女の振るう悪を断つ剣と、見返りを求めず弱きを助ける気高き心は、まさに我が聖王国の正義そのもの! カルカ様も必ずや、我が国の新たな希望として歓遇されるであろう!」
レメディオスの力強い大肯定に、背後に続く一般の聖騎士たちも「我らも鼻が高い」「ええ、本当に素晴らしいお方だ」と次々に賛同の声を上げ、クレマンティーヌへ温かい眼差しを向ける。
その後方で荷馬車を引いていたネイアは、目を丸くしていた。
(あの団長が、カルカ様やケラルト様以外の人を、あそこまで手放しで称賛するなんて……。やっぱり、この人は本物の『聖女様』なんだ……!)
疑いようのない正義の象徴としてクレマンティーヌを見つめるネイアの三白眼には、深い尊敬の念が宿っていた。
だが、当の本人であるクレマンティーヌは、突然自分に向けられた無数の称賛と、聖騎士団長からの過剰なまでの肯定の濁流を浴び、完全に圧倒されていた。
かつて彼女が向けられていたのは、恐怖と憎悪、あるいは死にゆく者の絶望だけだ。このような純粋な善意に祭り上げられた経験など、彼女の生涯において一度もなかった。
「ち、違う……! 私はそんな高尚な者じゃ……っ」
顔を真っ赤にして否定しようと後ずさるクレマンティーヌ。だが、その背中を大きくて温かい手がポンと優しく支えた。
「マヤ……っ」
「お前のやったことの結果だぞ、クレマンティーヌ。よかったな」
見上げると、マヤはこれ以上ないほど真っ直ぐな瞳で彼女を見つめていた。そこにはいつものからかうような色は微塵もない。愛する女が正当な評価を受けていることを、ただ静かに肯定する男の顔があった。
「いいから、手を振ってみろよ。あいつら、お前に救われて本気で感謝してんだ。応えてやれ」
「そ、そんなことできるかバカ! 恥ずかしいだろうが……っ」
「ほら」
マヤに優しく背中を押され、クレマンティーヌは戸惑いながらも、恐る恐る村人たちの方へと向き直った。
顔は耳まで朱に染まり、視線は落ち着きなく泳いでいる。それでも彼女は、胸の前で小さく、本当に少しだけ、手をふりふりと振ってみせた。
『うわぁぁあっ!! 振ってくださったぞ!!』
『聖女様万歳!!』
『なんて可愛らしいお方なんだ……!』
『素晴らしい、私たちの誇りだ!』
そのささやかなファンサービスに、村人たちから地鳴りのような大歓声が巻き起こった。
予想を遥かに超える反響に、クレマンティーヌはついに限界を迎え、両手で真っ赤な顔を覆ってしゃがみ込んでしまう。その人間らしくて愛らしい反応が、さらに周囲の民衆の心を鷲掴みにしていった。
その光景を見下ろしながら、マヤの口元に自然と笑みがこぼれる。
「お前、すげーいい笑顔になってるし。やっぱり、笑顔って最高じゃないか」
「っ……!」
顔を覆った指の隙間から、クレマンティーヌが上目遣いで彼を睨む。だがその声は、甘く震えていた。
「マヤのおかげだよ……。お前が一緒にいてくれたからさ。……って、言わせんなよバカ!」
照れ隠しの悪態すら愛おしい。
そのやり取りを見ていた村人たちや聖騎士たちからも、どっと温かな笑い声が湧き上がる。白銀の隊列と粗末な村の広場が、一つの大きな喜びに包み込まれていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
村の歓待を受け、宴も落ち着いた頃。
村外れに張られた聖騎士たちの野営テントから少し離れた焚き火のそばで、二人は並んで夜空を見上げていた。
パチパチと薪が爆ぜる音だけが、冷たい秋の空気に心地よく響いている。
「なぁ~、クレマンティーヌ」
不意に、マヤが静かな声で口を開いた。
いつもより少しだけ低く、真剣な響きを持った声。クレマンティーヌが不思議そうに隣を見上げると、マヤは彼女の肩を抱き寄せ、その深紅の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。
「俺の、正妻になってくんね?」
時が止まったかのように、夜の風の音すら遠のいた。
「は……?」
クレマンティーヌはパチクリと瞬きをし、数秒遅れてその言葉の意味を脳が理解した瞬間、全身の血が沸騰したようにカッと熱くなった。
(せっ、正妻……っ!? はぁっ!?)
彼女の頭の中で、様々な感情が爆発する。
正妻ってなんだ。それはつまり、他にも妻を作るつもりなのか。というか、なんでこんな野営の焚き火の前で急にそんなことを言うのか。こいつは本当に、ムードというものを全く理解していないのではないか。
口を開きかけ、文句の羅列をぶつけようとしたクレマンティーヌだったが、続くマヤの言葉にその思考は完全に停止した。
「お前と一緒にいないと、俺、もう駄目だわ」
何の飾り気もない、ただの純粋な事実。
世界を揺るがすほどの規格外の力を持つ男が、自分がいなければ生きていけないと、子供のように無防備に告白している。
「……はぁ。本当に、お前ってやつは……」
クレマンティーヌは深くため息をつき、毒気を抜かれたように小さく笑った。
かつて修羅の道を歩み、すべてを諦めていた自分が、こんなにも誰かに必要とされ、そして自分自身も誰かをこんなにも強く求めている。
「……いいよ。なってあげる」
彼女は背伸びをし、マヤの唇に小さく、確かな音を立ててキスを落とした。
ちゅ、と。離れた唇から、甘く艶やかな吐息が漏れる。
「私も……マヤがいないと、もう駄目みたいだしね」
マヤの屈強な両腕が、クレマンティーヌのしなやかな身体を強く、だが壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「ありがとう。……そして、誓うよ」
マヤの声が、夜の闇に力強く響く。
それは誰に聞かせるためでもない、彼自身の魂への絶対の誓約だった。
「お前を、絶対に守る。お前は今は強いけど……もし何かあったら、俺が絶対に、お前を守り抜くから!」
その熱い抱擁の中、クレマンティーヌは顔を上げ、至近距離でマヤの瞳を見つめ返した。
深紅の瞳の奥。そこには、普段の気怠げな余裕や軽口を叩く色は一切なかった。ただ一点の曇りもなく澄み切り、鋼よりも硬く研ぎ澄まされた、凄絶なまでの決意の光が宿っていた。
どんな脅威が立ち塞がろうとも、この命に代えて目の前の女を守り抜く。
言葉以上の重みを持ったその強烈な『目』が、クレマンティーヌの五感に真っ直ぐに突き刺さる。
彼女はゆっくりと瞳を閉じ、彼の大柄な背中に腕を回した。
彼女の耳には、マヤの力強い鼓動だけが聞こえている。過去の血塗られたしがらみも、これから先の聖王国での面倒事も、今はどうでもよかった。
ただ、この世界で一番強くて、一番優しい男の腕の中という絶対的な安全圏で、気高き戦乙女は静かに微笑んでいた。