いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
白亜の石造りが美しいローブル聖王国の王城。その一角に用意された最高級の客室で、クレマンティーヌは豪奢な刺繍が施されたソファに深く沈み込んでいた。
「……あー、胃が痛い……」
深いスリットの入った真紅のチャイナドレスの裾を少しだけ乱し、彼女は大きくため息をつく。
数万の民衆が王都のメインストリートを埋め尽くし、色鮮やかな花びらが滝のように降り注いだ凱旋パレード。沿道から向けられるのは、裏表のない称賛と熱狂、そして無防備なまでの善意だった。
常に暗がりで血の匂いとともに生きてきた彼女にとって、あれほどの眩い光の奔流を真正面から浴び続けるのは、骨の髄まで疲労が染み渡るような経験だった。
だが、彼女をここまで疲労困憊させた理由はそれだけではない。
見慣れない豪奢な天井を見上げていると、これまでの呆れるほどに濃密で、不可解で、そして温かな日々の記憶が断片的に脳裏をよぎっていく。
冷たい月明かりに照らされた森の焚き火。
上半身裸のまま現れた得体の知れない男が、自分を片手で捻り潰せるほどの凄絶な力を隠しもせず、『服買ってくんね?』と間の抜けた声で頼んできた時の、あの毒気を抜かれたような感覚。
買い出しの夜。
自分は平気な顔をして『腹が痛くなるから木の実でいい』と見え透いた嘘をつき、彼女の膝の上に重い食料の袋をすべて押し付けてきたこと。
人目を避けた道中。
ほんの軽い気持ちで挑発した直後、背中に乗せられたまま三次元の視界が弾け飛んだこと。太い枝から枝へと暴風のように跳躍され、あまりの風圧と速度に本気で命の危機を感じ、泣きそうになりながら『降りろ!』と叫んだ記憶。
そして、辺境の村々での日々。
人食いの亜人の群れから救い出した小さな子供たちが、満面の笑みで駆け寄ってきて、嬉しそうに不格好な花冠を彼女の頭に乗せてくれたこと。その時の、胸の奥がくすぐったくなるような、今まで知らなかった温かな痛みのこと。
記憶が繋がるたび、彼女の口元に自然と微かな笑みが浮かぶ。
だが、現在の王城の客室という状況に意識が戻ると、彼女はガバッとソファから身を起こし、やり場のない声を上げた。
「……今では、聖王国で聖女って。ありえないだろ!? この私がだぞ!?」
頭を抱えて唸るクレマンティーヌ。
すると、隣に腰掛けていたマヤが、柔らかく笑いながら彼女の肩を抱き寄せた。
「大丈夫だ。お前のこれまでの頑張りが、ちゃんと認められたってことなんだからよ」
戸惑う彼女の言葉を塞ぐように、マヤは自然な仕草で彼女の顎を引き寄せ、そっと深く唇を重ねた。
男の大きく温かな手が背中を撫で、流れ込んでくる圧倒的な安心感に、クレマンティーヌの肩の力がふっと抜けていく。
唇を離したマヤは、至近距離で深紅の瞳を細めた。
「この後の面倒な話は、俺が前に出る。お前はただ『聖女っぽく』おとなしく座ってりゃいいんだよ」
「……お前、なんだそれ……聖女っぽくってさ。もう……」
彼女は耳の先まで真っ赤に染めながら悪態をつき、それでも逃げることなく、彼の広い胸に身を預けた。
「わかったよ。おとなしくしてますよ……」
◇ ◇ ◇
重厚な扉の向こう、王城の奥に設けられた密室の円卓会議室。
上座には聖王女カルカ。その傍らに神官長ケラルト。そして、誇らしげに胸を張る聖騎士団長レメディオス。壁際では、鋭い三白眼を緊張で見開いた従者見習いのネイアが、直立不動で護衛に就いている。
円卓を挟んで座るマヤとクレマンティーヌに対し、ケラルトが扇子をゆっくりと閉じ、洗練された微笑みを浮かべて口を開いた。
「マヤ殿、クレマンティーヌ様。本日は長旅の疲れの中、足を運んでいただき感謝いたします。早速ですが……カルカ様とも協議し、我が聖王国はクレマンティーヌ様を正式な『聖女』として遇することに決定いたしました」
ケラルトの声は滑らかで、極めて丁寧だった。
「王都の一等地に邸宅を用意し、今後の活動に必要な資金、そしてそれに付随する特権をすべて国から提供させていただきます。辺境の民を救った貴女方の気高き行いに、我々は最大限の敬意をもって報いたいのです」
カルカが慈愛に満ちた表情で頷き、レメディオスも深く頷く。
しかし、ケラルトの言葉には続きがあった。
「――ただ、これほどのお力を国として支援する以上、一つだけお願いがございます。我が国が危機に瀕した際、あるいは聖騎士団の軍事作戦において、そのお力をお貸しいただきたい。聖女様には、国家の象徴として、そして有事の『剣』として、私たちの要請に協力していただく。それだけが、特権をお渡しする条件となります」
部屋の空気が、微かに重くなった。
クレマンティーヌの膝の上で、ドレスの裾を握る手に僅かに力が入る。
美しい言葉で飾られた見えない鎖。誰かの命令で戦場に立つという響きが、彼女の体を少しだけ硬くさせた。
「いやぁ、素晴らしい国だ」
マヤが、深く、どこまでも甘く洗練された声で空間の緊張を切り裂いた。
「邸宅に、活動資金。辺境から勝手に入り込んだ流れ者にそこまでしてくれるなんて。カルカ様も、ケラルト殿も、本当に心が美しい」
極上の微笑みを浮かべ、マヤは円卓に身を乗り出した。声には一切の棘がない。
マヤはティーカップを優雅にソーサーに置くと、ふと目を細めた。
「……ただ」
甘い声のトーンはそのままに、静かな声が円卓に落ちる。
「こいつは、俺の隣で笑ってるだけの普通の女でね。軍隊みたいに『命令』されると、途端に怯えちまうんだわ」
「……それは」
「もし、その称号に『鎖』がついてるってんなら……残念だが、その話は遠慮しとく。なに、謁見の時に王女様から、この国にいていいって許可はしっかりもらってるしな。邸宅も金もいらねぇ。俺たちは別に、今まで通り辺境の村々を回って、好きにやらせてもらうから構わねぇよ?」
ケラルトの手の中で、ゆっくりと揺れていた扇子がピタリと止まった。
突きつけられたのは、威圧でも怒りでもなく、完全な無執着。極上の微笑みと共に差し出されたその手札の前に、彼女の優秀な頭脳は次の一手を失っていた。
そのわずかな静寂を縫うように、マヤは再びフッと柔らかく空気を緩める。
「でも、こいつはお人好しだ。目の前で泣いてる奴がいれば、誰の命令がなくても勝手に剣を抜いて戦いに行く。……『自由気ままに行動するが、必ず民を救う聖女』。その方が、民衆からのウケもいいし、南北に分断された広大な国を護る意味でも、結果的にそっちの利益になるんじゃないか?」
ケラルトの目が、微かに見開かれた。
無粋な鎖さえ外せば、聖王国が最も喉から手が出るほど欲しい防衛力が、彼女たちの自由意思という形で機能し続ける。無理に縛りつけて手放すより、遥かに有益な選択だった。
「……ええ。マヤ殿の仰る通り、かもしれませんね。私としたことが、無粋な条件をつけてしまいました」
ケラルトは扇子で口元を隠し、深く息を吐いて引き下がった。
マヤは、誰に言うでもなく、ゆったりとした口調で語りかけ始めた。
「俺はさ、笑顔が好きだ。クレマンティーヌの笑顔が好きだ。俺に生きる力をくれる」
静かな円卓に、彼の低く温かな声が響き渡る。
「なぁ〜、笑顔ってのはよ。そういう尊いもんだ。打算なく出た時の最高の笑顔、これは忘れちゃならねぇ」
マヤは隣に座るクレマンティーヌの頭をポンと撫でると、カルカ、ケラルト、レメディオス、そして壁際のネイアへと、順番に見渡すように視線を向けた。
「それによ。民もそうだろ? 泣いてる民より、笑顔の民。そして部下もそうだ。厳しく接して泣かし、疲弊させる。笑顔を失わせるな。民も笑顔、部下も、騎士団も笑顔。それって、国を思ってはじめて出るもんだろ? だから、俺は笑顔が好きだ」
カルカの瞳が潤み、レメディオスが大きく頷く。ネイアの三白眼には熱い光が灯っていた。打算で動いていたケラルトでさえ、その純粋で強烈な信念の言葉に静かに耳を傾けている。
「理想だなんだって思うだろう、絶望するときもあるだろう。でも、笑顔を忘れちゃならねぇ。奮い立たせるためにもな」
マヤの言葉が、静かに、だが確かな熱を持って部屋を満たす。
「その笑顔を奪うようなやつは、絶対に容赦しない。な! クレマンティーヌ聖女様!」
突然振られたクレマンティーヌは、ビクッと肩を揺らした。
「……お前、最後私に振るのかよ!」
照れ隠しの直球のツッコミ。
その物言いに、カルカやレメディオス、ネイアの顔から、自然とクスッとした笑いがこぼれ落ちた。ケラルトの口元にも柔らかな弧が描かれている。
マヤは満足げに笑った。
「な? しかめっつらで会談するより、笑顔でってな? いいもんだろ?」
◇ ◇ ◇
会談を終え、夕暮れの陽差しが差し込む王城の回廊。
マヤの隣を歩きながら、クレマンティーヌは呆れたように口を開いた。
「……お前、ただの馬鹿だと思ってたけど。意外と口が回るんだな」
「俺には、お前が笑ってられる場所が必要だからな」
マヤは真っ直ぐな瞳で彼女を見つめ、声に出して笑った。
その屈託のない横顔を見つめ、クレマンティーヌは小さく「……ばか」と呟いた。
そして、彼女は自分からスッと身を寄せ、その太く逞しい腕にギュッと自然に抱きついた。
夕焼けに染まる大理石の床に二人の長い影が落ちる。
穏やかな静寂の中、歩幅を合わせた二つの足音だけが、どこまでも規則正しく回廊の奥へと響いていった。