いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
東部防衛線の一角、長城の要所となる砦は、むせ返るような鉄と臓物の臭いに支配されていた。
「アァアアアアッ! たす、けて……団長ォォッ!」
絶望に満ちた叫び声が、無残にも途中で断ち切られる。
ゴキリ、メチャクチャッ。
人間の硬い大腿骨が噛み砕かれ、新鮮な肉が引き裂かれるひどく生々しい咀嚼音が、静まり返った砦の広場に響き渡っていた。
新たな陣形と戦術を取り入れ、強固な盾となっていたはずの聖騎士団の防衛線。しかし、その一部が完全に決壊していた。原因は、通常の亜人とは次元の違う圧倒的な個体能力を持つ二体の「氏族長」クラスの変異個体と、その後ろに付き従う数十匹にも及ぶバフォルクや獣人の群れによる急襲だった。
一体は、巨大な狼のような姿をした獣人の氏族長、バザウッド。
もう一体は、小柄な山羊のような姿でありながら、全身から尋常ではない覇気を放つバフォルクの“豪王”、バザー。
「……ハァ、ハァ……ッ」
生き残った十数名の聖騎士たちが、大盾を構えたままジリジリと後退する。彼らの足元には、つい先刻まで肩を並べて笑い合っていた同胞たちの無残な遺体が転がっていた。
バザウッドは、絶命した若い聖騎士の胴体を巨大な顎で咥え上げ、まるで熟れた果実でも貪るかのように、貪欲にその肉を喰らっていた。ボタボタと滴る赤黒い血が、乾いた土を汚していく。
「あ、悪魔め……貴様ら、人間をなんだと……!」
騎士の一人が恐怖と怒りに声を震わせるが、バザウッドは肉を飲み込み、長い舌で口の周りの血を舐めとりながら、極めて流暢な人間の言葉で嗤った。
「サァー……許してほしいねぇ。我々も、好きでこんな最前線に首を突っ込んできたわけじゃない。ここ数ヶ月、丘陵にとんでもなくヤバい死神が暴れ回っていてね。同胞は狩り尽くされ、我々はずっとまともに食えていないんだ」
バザウッドの瞳には、狂暴性よりも、極限の飢餓と生存本能、そして残酷なほどの理性が宿っていた。その後方では、飢えきった数十匹の亜人たちが、次なる肉を求めて涎を垂らし、目を血走らせている。
「だから前線に出てきた。腹が減っていたからお前たちを食べた。生きるためだ、何が悪い?」
そのヘラヘラとした、命をただの「餌」としか見ていない嘲笑に、騎士たちの心が折れかけたその時だった。
「――貴様ァアアアアッ!!」
砦の入り口から、裂帛の気合いと共に凄まじい怒号が轟いた。
急報を受けて王都から駆けつけたレメディオス・カストディオである。彼女の背後には、マヤ、クレマンティーヌ、そして弓を握りしめたネイアの姿があった。
「団長……ッ! レメディオス団長!!」
生き残っていた騎士たちが、涙ながらに救世主の名を叫ぶ。
だが、現場の凄惨な光景を目にしたレメディオスは、怒りで全身の血を沸騰させ、聖剣を抜いてそのまま数十の群れの中へと突進しようとした。
「落ち着け、団長さん」
背後から伸びてきたマヤの太い腕が、レメディオスの肩をガッチリと掴んで制止した。
その力は岩のようにビクともせず、前へのめり込もうとしたレメディオスの身体を強制的にその場に縫い留めた。
「離せ、マヤ殿! 奴らは……私の部下をッ!」
「よく見ろ。あいつらはもう死んでる」
マヤの声は、普段の気怠げなトーンのままだったが、その奥には氷のように冷たく、静かな怒りが沈んでいた。
「俺たちの『掃除』のツケが、お前らの部下に行っちまったな。……悪い。だが、だからこそ、これ以上弄ばれる前に楽にしてやろうぜ。いいよな、レメディオス?」
その静かで重い言葉に、レメディオスは血の滲むほど唇を噛み締め、ギリッと聖剣の柄を握り直して踏み止まった。
新たな獲物の登場に、バザウッドの隣で肉を咀嚼していたバフォルクの王、バザーが前に出た。
彼の身体は、禍々しい魔力を放つ『亀の甲羅』のような鎧に包まれている。着用者のサイズに合わせて自動で変形する強力なマジックアイテムだ。
そして何より悍ましいのは、彼の腰に巻かれた装飾品だった。カラカラ、カタカタと不気味な音を立てるそれは――人間の子供たちの頭蓋骨を繋ぎ合わせた、悪趣味極まりない腰飾りだった。
「ヒャハハ! なんだァ? 援軍かと思えば、女子供ばかりじゃねぇか!」
バザーは自慢の『亀の甲羅』を叩きながら、下劣な笑い声を上げた。
彼の濁った眼球が、レメディオスを舐め回し、ネイアを一瞥し、そして――マヤの隣に立つ、真紅のチャイナドレスを纏ったクレマンティーヌの姿でピタリと止まった。
「おやおや……そこの綺麗な服の『おんな』、随分と美味そうだなァ?」
バザーは子供の頭蓋骨をカラカラと揺らしながら、醜悪な舌舐めずりをした。
「俺様たちへの捧げものか? 良いぜェ、なら、たっぷりと可愛がってから、骨の髄まで食ってやるぞォ?」
――ピキリ。
その瞬間、砦の空気が、物理的な質量を持って「重く」なった。
風が止み、音という音が世界から消え失せたかのような錯覚。バザウッドとバザーでさえ、本能的な死の予感に全身の毛を逆立て、一歩後ずさった。後ろに控えていた数十匹の亜人たちに至っては、謎の重圧に膝を震わせている。
震源地は、マヤだった。
彼の深紅の瞳が、底なしの暗黒へと沈み込んでいる。
(――ッ、マヤ!?……!)
隣に立つクレマンティーヌだけが、彼の内側で暴れ狂い始めた「どす黒い何か」を直接肌で感じ取っていた。
それが何なのか、今の彼女には分からない。ただ、かつて感じたことのないほど悍ましく、絶対的な破壊の渦がマヤの裡で渦巻いていることだけは理解できた。もし彼がここでその力を解放してしまえば、砦も聖騎士たちも無事では済まない。
だが。
「……ふぅー」
マヤは、深く、長く息を吐き出した。
ただそれだけで、周囲を押し潰そうとしていた異常な重圧が嘘のように霧散した。
「……悪いな、団長さん。俺の都合もできちまったわ」
マヤは前髪を掻き上げ、普段の気怠げなトーンに戻ってネイアを振り返った。
「ネイア、頼めるか?」
「は、はいッ!」
「あのバフォルク(バザー)、なかなかいい鎧を着てやがる。お前にぴったりだ。……あいつの目玉か、あの悪趣味な頭蓋骨の上、頭を狙え。殺せなくてもいい、当てるだけでいい。お前の目で、射抜いてみせろ」
自分が動けば、この場を滅茶苦茶にしてしまう。マヤは自らを抑え込み、聖騎士団の新たな要であるネイアに信頼のパスを出した。
そのマヤの「我慢」を、誰よりも痛烈に感じ取った者が一人いた。
クレマンティーヌだ。
彼が今、自分たちのためにどれほどの感情を飲み込み、身を引いてくれたか。
生きるために食うことは理解できる。だが、他者の命を奪うことをヘラヘラと笑い、装飾品にし、あまつさえ自分の大切な男の逆鱗に触れた、この獣たち。
「……アンタら」
チャイナドレスの裾が揺れる。
クレマンティーヌが、静かに一歩、前へ出た。
彼女の桜色の唇から紡がれる声は、酷く冷たく、そして絶対的な死を約束する響きを帯びていた。
「食べるためか。……そうだな、なら仕方ない」
彼女の瞳から、普段の余裕や呆れ顔が完全に消え去る。
「でもな、なんだそのへらへらした言い方はよ。……虫酸が走るんだよ!!」
その怒号は、物理的な衝撃波となってバザーとバザウッドの顔面を打ち据えた。
「ヒッ……!?」
先ほどまでの慢心が嘘のように、バザーが腰を抜かしそうになる。格下だと思っていた人間の女から放たれた、次元の違うプレッシャー。
「シィッ!」
バザーの意識がクレマンティーヌの覇気に呑まれ、完全に怯んだそのコンマ一秒の隙を、ネイア・バラハの三白眼は見逃さなかった。
弦が弾ける鋭い音。
放たれた矢は、寸分の狂いもなく、バザーの眉間――右目の直上を正確に捉えて突き刺さった。
「ギャアアアアッ!?」
頭部への激痛にバザーが仰け反り、彼が修得していた武技を発動するための体勢と集中が完全に崩壊した。
その刹那。
『能力超向上』
『疾風走破』
『流水加速』
クレマンティーヌの姿が消失した。
残像すら残さない踏み込み。バザーが痛みに顔を歪め、防御姿勢を取ろうとした時には、すでに真紅の戦乙女は彼の懐、数ミリの距離にまで肉薄していた。
「なっ――」
バザーの口から漏れた最期の言葉は、それだけだった。
両手に握られた直剣とナイフが交差する。
『亀の甲羅』に守られていない、首の骨の関節の隙間。そこを寸分の狂いもなく、二つの刃が断ち切った。
ゴトリ、と。
子供の頭蓋骨を揺らして嗤っていたバフォルクの王の首が、呆気なく宙を舞い、地面に転がった。
「バザー!? 貴様ァッ!!」
盟友を瞬殺され、激昂した獣人の将・バザウッドが、巨大な爪を振り上げてクレマンティーヌに襲いかかる。
だが、その爪が彼女に届くことはなかった。
ドゴォォォォンッ!!
砦の城壁が揺れるほどの轟音。
バザウッドの巨体が、まるで巨大な破城槌に正面から衝突したかのように、くの字に折れ曲がって後方へと吹き飛んだ。
全身の骨という骨が粉砕され、内臓が破裂したバザウッドが壁際に叩きつけられる。
彼を吹き飛ばしたのは、ただ静かに一歩踏み込み、無造作に右拳を振り抜いたマヤだった。武技も魔法もない、ただの「純粋な暴力」の塊。
マヤは血の海に沈むバザウッドを一瞥することもなく、ただ静かに拳を下ろした。
トップ二体を瞬く間に屠られたことで、後方に控えていた数十匹の亜人たちは完全に恐慌状態に陥った。
「今だ! 敵の頭は潰れたぞ! 我らも続く!!」
沈黙を破ったのは、レメディオスの覇気ある号令だった。
彼女は聖剣を掲げ、生き残っていた騎士たちと共に、混乱し逃げ惑う亜人の群れへと突撃を開始した。
「おおおおおッ!!」
反撃の闘志を取り戻した聖騎士たちが盾を構えて陣形を押し上げる。
「逃がしません……ッ!」
後方からは、ネイアが次々と矢を番え、的確に逃げようとする亜人の足を、あるいは急所を射抜いていく。前衛が壁となり、後衛が敵を穿つ。マヤが教え込んだ「死なないための戦術」が、この凄惨な戦場で見事に機能し始めていた。
それから数十分も経たないうちに、砦を急襲した変異亜人の群れは完全に掃討された。
血塗られた砦の中で、生き残った聖騎士たちは剣を下ろし、荒い息を吐きながらも勝利を確信した。
レメディオスはゆっくりと歩み寄り、部下たちの無残な遺体の前で膝をつき、目を閉じた。マヤもまた、口数少なく黙祷を捧げた。
やがて、マヤは首を失ったバザーの死体から、無傷で残された『亀の甲羅』を剥ぎ取った。
「ネイア」
「は、はい……!」
「よく当てたな。立派なカウンターだったぜ。……ほら、これ着てみろ」
マヤが放り投げた無骨な鎧を、ネイアが慌てて受け取る。
彼女がその鎧を身につけた瞬間、サイズアジャスト機能が発動し、小柄な彼女の体格にぴったりとフィットした。
遠距離を射抜く並外れた視力と、接近されても耐えうる絶対的な防御力。悲劇の血溜まりの中で、聖王国を救うための新たな「要」が誕生した瞬間だった。
「聖女様……」
ふいに、一人の血に塗れた古参騎士が、クレマンティーヌの前に進み出て、深く片膝をついた。それは、聖王国において最上級の敬意を示す礼だった。
「我らのために、あのようなお怒りを。そして、我らを救っていただき……本当に、ありがとうございました……!」
声は震え、その目には涙が浮かんでいた。
彼に続くように、周囲の聖騎士たちも次々とクレマンティーヌに向かって跪く。レメディオスすらも、部下たちと同じように膝をつき、頭を垂れていた。
彼らは、クレマンティーヌの激怒を「聖女としての慈悲と、民を害されたことへの正義の怒り」として受け取っていた。
「あ……いや、私は別に、そんな……」
突然の熱烈な賞賛と感謝の嵐に、さっきまでの殺気が嘘のように、クレマンティーヌは居心地が悪そうに視線を泳がせた。
助けを求めるようにマヤをチラリと見る。
マヤは血のついた拳を拭いながら、ニヤニヤと笑って彼女を見返している。
(ほら、お前が救ったんだ。胸張ってろよ)
そんな無言のメッセージが伝わってきて、クレマンティーヌはボンッと顔を赤くし、自身のチャイナドレスの裾をギュッと握りしめた。