いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
「名前を教えてくれたからさ、少し緩めるぞ? 暴力なしね。力の差、わかったよね?」
冷たい月明かりの下、耳元で低く囁かれたその声には、有無を言わさぬ絶対的な響きがあった。
クレマンティーヌは、自分を万力のように締め上げている男――マヤの腕の中で、小さく、だが深く息を吐き出す。
魔法も武技も一切通じない。身じろぎすら許されない完全な拘束。スレイン法国が誇る暗部の最高戦力である彼女の誇りを、ただの体術一つで木端微塵に粉砕した圧倒的な力の差。逆らうことなど不可能だと、彼女のエリートとしての本能が完全に白旗を揚げていた。
「はぁ〜……わかったよ」
毒気を抜かれた声で同意すると、岩盤のように硬かったマヤの腕からスッと力が抜けた。
解放された。そう思った瞬間だった。
拘束が解かれると同時に、マヤの腕はそのまま彼女の細い背中に回り、今度はごく自然に、そして酷く優しく彼女を抱きしめ直したのだ。
「なっ……!?」
「やっといい笑顔が見れた。本当にありがとう。少しこうさせてくれ」
真っ直ぐで、切実な響きを持った声。
マヤの広い胸にすっぽりと収まる形になり、クレマンティーヌは息を呑んで固まった。先ほどの逃げ場のない拘束とは違う。その気になれば突き飛ばせるはずの、ただの温かい抱擁だ。
だが、突き飛ばせなかった。
(あ……なんで、私まで……)
呆れたようにため息をつきながら、彼女の腕は、無意識のうちにマヤの広い背中へ回されていた。
内心で激しく葛藤し、己の行動に警鐘を鳴らす。
彼女の生存本能は「強者にはなびく」ようにできている。目の前の男は、決して逆らってはいけない次元の違う怪物だ。だから大人しく従っているのだ。そう自分に言い訳をしながらも、彼女の奥底にある柔らかな部分が、この不器用な優しさと本物の体温に強烈な安心感を覚えてしまっていた。
強者とは、弱者を蹂躙し、支配し、決して弱みを見せない存在のはずだ。
それがクレマンティーヌの生きてきた世界の絶対的な法則だった。
しかし、目の前の男はどうだ。自分の攻撃をすべて無に帰すほどの絶望的な強者でありながら、まるで迷子のように寄りかかってきている。
こんな怪物は知らない。彼女の知識の引き出しをどれだけひっくり返しても、この男を定義できる言葉が見つからなかった。
冷たい夜の森の風が吹き抜け、木々がざわめく。
しばらくの静寂の後、クレマンティーヌは我に返ったようにマヤの胸を軽く押し返した。
「……いつまで抱きついてる気だ。それに、いい加減服を着ろ。私の目がチカチカする」
素に戻った口調で文句を言いながら、彼女は自身が羽織っていた予備の漆黒のマントを脱ぎ、無造作にマヤの顔面へと投げつけた。
「だから、ないんだよ……。気づいたらなくなってたんだ」
「いいからそれを羽織れ。こんな夜の森で半裸の男と一緒にいるなんて、私の頭がおかしくなりそうだ」
顔を背ける彼女の姿に、マヤは口元に微かな笑みを浮かべる。
「悪いな。ありがたく借りるよ」
男にはやや寸足らずなマントを羽織ると、マヤは周囲を見渡した。
「流石に冷えるな。火を起こそう」
マヤは近くに落ちていた手頃な枯れ枝を集めると、手慣れた様子で火種を作り、あっという間に小さな焚き火を作り上げた。魔法を使う気配も、武技の構えもない。ただ、サバイバル技術として極めて洗練された無駄のない動きだった。
パチパチと、オレンジ色の炎が静かな森に爆ぜる。
焚き火を挟んで腰を下ろすと、炎の揺らめきが二人の顔を照らし出した。
「お前……結局何者なんだ?」
膝を抱えるようにして座りながら、彼女は探るような視線をマヤに向ける。
あれほどの力を持っていながら、どこか抜けていて、それでいて底が知れない。暗部の人間としてあらゆる可能性を模索するが、目の前の男の正体に繋がる糸口は何一つ掴めなかった。
「通りすがりに森で迷っただけだよ」
「……そんな嘘みたいな本当っぽい顔で言うな。私を誰だかわかってて、あんな真似をしたんじゃないのか?」
「いや? 全く知らない」
焚き火の火を細い木の枝でつつきながら、マヤは飄々と答えた。その横顔には、本当に何の裏もないような気怠さだけが漂っている。
「知らないだと……? じゃあ、お前はどこの所属だ。法国か? それとも評議国か。私を拘束して、何を企んでいる」
「企みなんてないって。本当に知らないんだよ。ここがどこなのかも、近くにどんな町があるのかも」
「は……?」
クレマンティーヌは思わず素っ頓狂な声を漏らした。
自分ほどの戦士を子供扱いする実力者が、派閥の争いでもなく、暗殺の任務でもなく、ただ「道に迷った」などと抜かしている。
「ふざけるな。お前ほどの腕を持つ人間が、どこの組織にも属さずにふらふらしているわけがないだろう」
「ふらふらしてるんだよなぁ、それが」
「……」
マヤがあまりにも淡々と返すものだから、彼女は毒気を抜かれたように押し黙ってしまった。
この男には、殺気もなければ、相手を屈服させようという支配欲もない。ただ、焚き火の暖かさを素直に享受しているだけの、妙に生活感のある男だった。
「なあ」
ふいに、マヤが視線をこちらに向けた。
その視線の先は、彼女の顔ではなく、膝を抱える彼女の手元――先ほどまで八つ当たりで木々や岩を殴りつけ、皮が破れて血が滲んでいる小さな拳に注がれていた。
「手、擦りむいてるな。後で水で洗って、布でも巻こう」
「……いらない。こんなの平気だよ」
クレマンティーヌは咄嗟に拳を隠そうと腕を引いた。
だが、マヤは強引に奪い取ることなどせず、焚き火を見つめたまま言葉を続けた。
「そのままにしとくと痛いだろ。綺麗な手が傷ついたら嫌だからさ」
そのストレートな気遣いに、彼女はふいっと顔を逸らした。
炎に照らされた彼女の横顔に、深い闇のような自嘲の笑みが浮かぶ。
「……綺麗、ねぇ。私の手は、汚れてるさ。もうずっと前から、真っ黒だ」
それは、ただ物理的な血の汚れを指した言葉ではなかった。
これまで自分が奪ってきた命。見下し、嘲笑い、踏みにじってきた者たちの声。そうした血生臭い任務の記憶が、自分にはべっとりとこびりついている。
自分は決して、そんな優しい言葉をかけられるような人間ではないのだと、突き放すような響きが含まれていた。
「私がいままで、どれだけの人間をどうやって壊してきたか、教えてやろうかぁ……? みんな、み〜んな、素敵な声を上げて泣き叫んで……」
彼女は、自分を遠ざけようとするかのように、間延びした不気味な声色を作り、狂気に満ちた殺人鬼のフリをする。
残酷な言葉を並べ立てれば、この得体の知れない男も自分を軽蔑し、あるいは怯え、そして離れていくはずだ。そうやって彼女はずっと、他者を遠ざけ、自分の心を守ってきた。
しかし、マヤは動じなかった。
焚き火の炎を見つめたまま、ただ「ふーん」と短く相槌を打った。
「そうか〜。そういう趣味があるのか」
「……は?」
軽蔑も、恐れも、怒りすらない。
まるで、「明日の天気は雨らしい」とでも言われたような、どうしようもなく平坦な反応。
「お前……私が言ってる意味、わかってないのか? 私は人を殺すのが楽しくて仕方がない、化け物なんだぞぉ?」
「そうか。でも、今はそんな顔してないぞ」
「な……」
マヤは炎から視線を外し、彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。
「無理してそんな変な声出さなくても、俺は逃げないから普通に喋ればいいのに」
「っ……! 違う! 私は本当に……!」
「お前が今まで何をしてきたか、俺は知らないよ。ただ、俺から見れば、血なんてついてない普通の綺麗な手だ」
マヤはゆっくりと、彼女の隠した手を指差した。
「でも、お前が自分で汚いって言うなら、お前にとってはそうなんだろうな」
「……!」
「自分で自分の手が気に食わないって、しんどそうだな」
その言葉に、クレマンティーヌの喉の奥で、カッと息が詰まった。
(な、んだよ……こいつ……)
彼女がこれまで必死に積み上げ、自分自身にすら刷り込んできた「私は残酷な化け物だ」という虚勢の鎧が、意味をなさなくなっていく。
狂った笑い声を作ろうとしても、顔の筋肉が強張って動かない。残酷な言葉を並べようとしても、頭の中が真っ白になって何も浮かんでこなかった。
マヤは彼女の沈黙を気にする風でもなく、ただ手を伸ばし、彼女の血の滲む小さな拳をそっと両手で包み込んだ。
魔法で傷を消し去るわけではない。ただ、彼女自身が「汚い」と自嘲したその手を、嫌がるそぶりなど微塵も見せず、己の少し高めの体温で温めるように。
「まー、いつかそれも話してくれよ。ゆっくりでいいからさ。……俺も、悲しいことがあって、誰かの隣にいたかったんだ」
血のついた彼女の手の甲を軽く撫で、マヤは炎へ視線を戻した。
パチ、と薪が跳ねる音が響く。
クレマンティーヌは、不器用に包み込まれた自分の手を、ただただ信じられないものを見るような目で見つめていた。
彼女は言葉を返すことすら忘れ、森の静寂の中、マヤの温かいマントの袖口を無意識にきつく握りしめていた。