いつのまにか、聖女?どうしてこうなった?   作:マイナーチョコ

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第21話:攻勢・亜人討伐作戦 

東部防衛線の彼方、地平線を黒く染め上げるほどの軍勢が、地鳴りのような足音を響かせて進軍してきていた。

その数、およそ数千。後方に控える残党の総数を合わせれば、十万にも達するであろう亜人連合の最後の大軍勢である。

 

迎え撃つ聖王国軍の陣営は、異様なまでの静寂に包まれていた。

砦の城壁の上に並ぶ聖騎士や徴募兵たちは、大盾を構え、槍を握りしめながら、極度の緊張に顔を強張らせている。無理もない。これまでの防衛戦で練度を上げたとはいえ、眼前に広がるのは自分たちの数倍にも及ぶ亜人の大群だ。少しでも連携が崩れれば、一瞬にして波に呑み込まれ、肉片すら残らないだろうという恐怖が、冷たい汗となって彼らの頬を伝っていた。

 

そんな張り詰めた糸が今にも切れそうな本陣の天幕の中で、マヤは気怠げな欠伸を噛み殺しながら、隣に立つクレマンティーヌの耳元へと顔を寄せた。

 

「なぁ、クレマンティーヌ」

「ん? なんだい」

「みんなガチガチじゃねぇか。これならいっそ、俺が力任せに前衛ごと全部更地にしようか? みんな見てろよって感じで、一撃で終わらせてやるぞ。俺ツエーってやつだ」

 

冗談なのか本気なのか分からない、あまりにもスケールが狂った提案。

次の瞬間。

 

ズゴォォォォンッ!!

 

「いってぇな! なんで怒るんだよ!」

 

天幕の中に、鈍く重い打撃音が響き渡った。

頭を押さえてしゃがみ込むマヤを見下ろし、クレマンティーヌは湯気が出そうなほど顔を真っ赤にして、思い切り振り抜いた右拳をワナワナと震わせていた。

 

「バカかお前は!! お前が本気でそんなことやったら、亜人どころかこの辺の地形ごと吹っ飛んで、守るはずの長城も消え去るだろうが!! 私の立つ瀬がなくなるだろうが! 聖女って言われてんのに、お前が全部消し飛ばしたらどうすんだバカ!」

 

怒声と共に、さらに追撃の蹴りがマヤの脛に炸裂する。

「い、痛ぇ! 悪かった、悪かったって! 冗談だろ!」

「冗談で済むか! お前の火力は冗談にならないんだよ!」

 

決戦の火蓋が切られる寸前の、あまりにも場違いな大立ち回り。

突然、聖女であるはずのクレマンティーヌがマヤを遠慮なくタコ殴りにし始めた光景に、周囲の聖騎士たちは目を丸くしてざわめき始めた。

 

「せ、聖女様!? いかがなされましたか!?」

 

慌てて駆け寄ってきた騎士の一人に、クレマンティーヌはハッと我に返り、咳払いを一つして、何事もなかったかのように呆れ顔を作った。

 

「ん? ああ、いや……ちょっとこいつが、またアホなことを言ってたからな。いつもの痴話喧嘩だよ。気にするな」

 

そう言って、頭をさすりながら「へへっ」と笑うマヤを指差す。

その、あまりにも日常的で、緊張感の欠片もない二人のやり取り。絶対的な死の恐怖が迫るこの土壇場にあって、彼らはいつものように痴話喧嘩をしている。

その事実が、兵士たちの心に不思議な波紋を広げた。

 

(……聖女様たちは、これほどの大一番を前にしても、いつも通りだ)

(あの方たちにとっては、あの大軍勢すら日常の些事に過ぎないのか……!)

 

強張っていた兵士たちの肩から、スッと余計な力が抜けていく。恐怖が消えたわけではない。だが、それを上回るほどの「絶対的な安心感」が、陣営全体に温かい光のように広がっていったのだ。

 

その光景を特等席で見ていた聖騎士団長、レメディオス・カストディオは、雷に打たれたような衝撃を受けていた。

彼女は静かに歩み寄り、クレマンティーヌとマヤの前に深く、深々と片膝をついた。

 

「聖女様……。わざとあのように振る舞い、兵たちの過度な緊張を和らげてくださるとは」

「……え?」

「大一番を前に、萎縮は最大の敵。それを理屈ではなく、身をもって解きほぐしてくださるその深い御心……。我ら聖騎士団、この御恩に死を賭して報いる覚悟です!!」

 

レメディオスの言葉に呼応するように、後方に控えていたネイア・バラハも、弓を抱えたまま深くペコリとお辞儀をした。周囲の騎士たちからも、尊敬と熱狂の入り混じった眼差しが注がれている。

 

(え、いや……別にそういうつもりじゃ……)

 

完全に予想外の勘違いに、クレマンティーヌは頬を引き攣らせた。

だが、横にいるマヤが「ほら、お前の手柄だぞ。さすがお見事、聖女様」とニヤニヤ笑いながら小突いてきたため、彼女は引くに引けなくなり、バサリと真紅のチャイナドレスの裾を翻した。

 

「ふ、ふん。その意気だよ、レメディオス。お前たちはただ、私の背中を見て、自分の役割を果たせばいい」

 

威風堂々と、聖女としての完璧な虚勢を張る。

騎士団から「おおおおおッ!!」と地鳴りのような歓声が上がり、軍全体の士気が最高潮へと達した。

 

いよいよ出陣というその時、マヤが不意にクレマンティーヌの腰を抱き寄せた。

周囲からは見えない死角で、彼の手が彼女の背中を力強く、そして限りなく優しく包み込む。

 

「マ、マヤ……? みんな見てる……」

「いいか、クレマンティーヌ」

 

マヤの声は、先ほどまでのふざけた調子から一転し、低く、甘く、そして絶対的な信頼に満ちたものに変わっていた。

 

「今日は、あのナイフはしまっとけ。もういいだろ。……お前の本当の武器を使え」

「――ッ」

「過去の業だろうが何だろうが、お前が背負ってきたもんは、すべて俺が受け止めるからよ。お前はただ、俺の愛する『お前』のままで、あいつらを蹂躙してこい」

 

その言葉に、クレマンティーヌの胸の奥底で、かつてないほどの熱い感情が弾けた。

かつて、人の命を奪うためだけに使っていた凶器。火と酸はマヤに預け、雷と氷は自分の中に封じていた、過去の自分そのもの。それを、彼は「すべて受け止める」と肯定してくれた。暗殺者としてではなく、彼を守り、この世界を笑って生きるための力として使っていいのだと。

 

クレマンティーヌの目尻に、うっすらと涙が浮かぶ。

だが、彼女はそれを決してこぼすことなく、最高に美しく、そして底抜けに明るい笑顔をマヤに向けた。

 

「……バカ。あんたにそんな顔されたら、張り切るしかないじゃないか」

 

クレマンティーヌは背伸びをし、マヤの頬にチュッと軽く口付けた。

 

「マヤ、愛してる! 帰ったら、最高のサービスしてあげるからね!」

 

言い残すや否や、彼女は真紅の旋風となって戦場の最前線へと躍り出た。

彼女の両太ももに隠されていたホルスターから、二本の歪な短剣(スティレット)が引き抜かれる。

右手に黄色の稲妻を纏う雷の刃。

左手に絶対零度の冷気を放つ氷の刃。

 

英雄領域の戦乙女が、本来の力を完全に解き放った瞬間であった。

 

「全軍、突撃ィィィィッ!!」

 

レメディオスの号令と共に、地を揺るがすような足音を立てて聖騎士団が前進を開始する。

迎え撃つ亜人連合の陣形の中央では、バフォルクの獣王・ハルシャと、マジックキャスターである魔爪・ナスレが、人間たちの無謀な突撃を嘲笑いながら待ち構えていた。

 

「フン、人間どもめ。数に任せて押し潰してくれるわ。魔法部隊、一斉掃射の準備を……」

「待て、ナスレ。前衛の先頭を走ってくる、あの女は……ッ!?」

 

ハルシャの言葉に、ナスレは目を凝らした。

土煙を切り裂き、人間たちの先頭を圧倒的な速度で疾走してくる、真紅の衣装を纏った女。その両手には、青白い冷気と黄金の稲妻がバチバチと迸っている。

 

過去七ヶ月間。

辺境の村を襲う亜人の部隊を、ことごとく肉片に変えてきたという正体不明の死神。

先日、最強と謳われた豪王バザーの首を瞬きする間に刎ねたという、血も凍るような噂。

 

「あ、あ、あれは……ッ! 『赤い死神』!! なぜあんな化け物が真正面から……ッ!?」

 

ナスレの豊かな魔法の知識と理性が、瞬時に「絶対に勝てない」という絶望的な計算結果を弾き出した。

武闘派であるハルシャでさえ、彼女が放つ『傾城傾国』の規格外の波動と、漆黒聖典としての剥き出しの殺気に当てられ、全身の毛を総毛立たせて後ずさった。

 

「ひぃッ……!? に、逃げろ!! 陣形など捨てろ、アレと戦えば一族が滅ぶぞ!!」

 

亜人の首領が悲鳴を上げて踵を返した、まさにその刹那。

 

『流水加速』

『疾風走破』

 

クレマンティーヌの姿が、完全にブレて消失した。

「なっ――」

ハルシャが振り向いた時には、すでに死神は彼の鼻先に立っていた。

 

「遅いなぁ。逃げるなら、もっと早く走らないとねぇ?」

 

甘ったるい、耳元で囁くような声。

直後、氷のスティレットがハルシャの分厚い胸板を紙のように貫通した。

「ガ、ァ……ッ」

傷口から絶対零度の冷気が爆発的に広がり、獣王の巨大な身体は、血を流す暇もなく一瞬にして内臓まで完全に凍結した。

 

「ハ、ハルシャ!? この化け物め、くらえッ! 『雷撃(ライトニング)』!!」

 

ナスレが狂乱状態になりながら、第三位階の雷魔法をクレマンティーヌへと放つ。

だが、彼女は避けることすらしない。

右手のスティレットを一閃させ、魔法の雷そのものを「物理的に」切り裂いて霧散させた。

 

「あはははは! 魔法の扱いが雑なんだよ、お前!!」

 

クレマンティーヌが跳躍し、空中で捻りを加えた蹴りをナスレの顔面に叩き込む。

吹き飛んだナスレが地面に激突するよりも早く、彼女は雷のスティレットを投擲した。稲妻を纏った刃は、ナスレの心臓を正確に貫き、数万ボルトの電流をその体内に叩き込んだ。

断末魔を上げる暇すらなく、二体目のボスが黒焦げの炭と化して絶命した。

 

「ボスが……ハルシャ様とナスレ様が瞬殺されたぞォォッ!?」

「逃げろォォォッ!!」

 

指揮官を失い、最大のトラウマを目の当たりにした数千の亜人たちは、完全に恐慌状態に陥り、武器を放り出して我先にと逃げ惑い始めた。

だが、そこはすでに完璧に計算された死地だった。

 

「一匹たりとも逃がすな! 聖女様に続け!!」

 

レメディオス率いる白兵戦部隊が、崩壊した亜人の陣形へと怒涛の如く雪崩れ込む。

かつてのように闇雲に剣を振るうのではない。大盾で敵の退路を塞ぎ、確実な連携で三体がかりで一体を沈めていく。

 

「そこです……ッ!」

 

後方の高台からは、ネイア・バラハの放つ矢が、逃げようとする亜人の足を、あるいは急所を、雨あられのように正確に射抜いていく。彼女の弓は、戦場全体を俯瞰する死神の指先のように、的確に敵の戦力を削ぎ落としていった。

 

前衛が壁を作り、後衛が射抜く。

そしてその中央で、真紅の戦乙女が舞い踊る。

クレマンティーヌが通り抜けた跡には、凍りついた骸と、雷に焼かれた灰だけが残っていく。もはや戦闘ではない。これは完全なる、一方的な蹂躙劇であった。

 

日が高い位置にあるうちから始まった戦闘は、夕闇が空を染め始める頃には、完全な静寂へと変わっていた。

 

赤黒い血と泥に塗れた平原。

その中央に積み上げられた、ハルシャやナスレをはじめとする数え切れないほどの亜人の死体の山。

その頂に、一本の氷のスティレットを突き立て、真紅のドレスを風に揺らす女が立っていた。

 

西の空に沈みゆく夕日が、彼女の姿を黄金色に縁取る。

顔には返り血すら浴びていない。息一つ乱さず、ただ静かに地平線の彼方を見据えるその横顔は、恐ろしいほどの美しさと、人を惹きつけてやまない神々しさに満ちていた。

 

「聖女様……」

「おお……我らが、聖女様……!」

 

生き残った聖騎士たちが、傷ついた体を引きずりながら、一人、また一人とその場に膝をつく。

剣を地面に突き立て、祈りを捧げるように頭を垂れる。

かつては暗殺者として闇に生き、血と絶望の匂いしか知らなかった女が、今、何千人もの人間から「希望の光」として心からの崇拝を受けている。

 

クレマンティーヌは、膝をつく兵士たちを見下ろしながら、小さく息を吐いた。

悪い気はしなかった。

むしろ、自分の背中を守るために懸命に戦い抜いた彼らの姿に、かつての自分には絶対に理解できなかった「誇り」のようなものを感じていた。

 

ふと視線を上げると、死体の山の麓で、マヤが腕を組んでこちらを見上げているのに気づいた。

彼は周囲の熱狂などどこ吹く風で、ただいつものように気怠げに、だが底抜けに優しい赤い瞳で彼女に微笑みかけていた。

『よくやったな、俺の赤鬼』

声には出さずとも、その瞳がそう語りかけているのが分かった。

 

クレマンティーヌは、誰にも見えないようにフッと柔らかく笑うと、夕日を背に受けて、戦場の頂で高らかに直剣を天へと掲げた。

 

「勝鬨を上げろ! この地は今、完全に我らのものとなった!!」

 

「「「おおおおおおおおおおッッ!!!」」」

 

東部平定。

長きにわたり聖王国を苦しめ続けた亜人の脅威が、この日、完全に消え去った。

血塗られた悲劇の連鎖は断ち切られ、真紅の戦乙女の伝説が、夕日に照らされたこの荒野に永遠に刻み込まれたのだった。

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