いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
東部戦線における亜人連合の完全なる殲滅。
その歴史的偉業を成し遂げた聖騎士団が王都へと帰還する報せは、瞬く間にローブル聖王国全土を駆け巡った。
数週間前まで、国土は深い絶望と恐怖の底に沈んでいた。いつ長城が破られ、血に飢えた亜人たちに蹂躙されるか分からないという死の影が、常に民衆の頭上に重くのしかかっていたのだ。
だが、その暗雲はただ一陣の真紅の旋風によって完全に吹き払われた。
王都の正門へと続く大通りは、立錐の余地もないほどの人だかりで埋め尽くされていた。
西の空には、一日の終わりを告げる巨大な夕日が沈みかけており、王都の白亜の城壁と石畳を、黄金色と茜色が混ざり合ったような神々しい光で染め上げている。
「来たぞ……! 聖騎士団の凱旋だッ!」
「見ろ! 先頭を行くあの方が、我らを救ってくださった聖女様だ!!」
地鳴りのような歓声が沸き起こり、沿道の窓という窓から、色とりどりの花びらが祝福の雨のように降り注ぐ。
民衆の熱狂の中心で、白馬に跨り、堂々と行進の先頭を進む者たち。
右に、王都の夕日よりも鮮烈な真紅のチャイナドレスを纏ったクレマンティーヌ。
左に、気怠げな様子で手綱を握る、赤髪の青年・マヤ。
その後ろに、聖騎士団長レメディオス・カストディオが胸を張って続き、さらにその後方には、真新しい『亀の甲羅』を身につけ、見違えるほど精悍な顔つきになった弓兵・ネイア・バラハが付き従っている。
民衆の視線は、何よりもまず、クレマンティーヌの姿に釘付けになった。
(……なんて、なんてお美しいんだ)
(あのドレス……まるで、女神が織り上げた光の衣のようだ……)
彼女が身に纏っているのは、正真正銘の世界級(ワールド)アイテム『傾城傾国』である。
そのアイテム本来の絶大な精神支配の力は眠っているものの、神の遺物とも呼ぶべき規格外のアイテムが放つ超常的な波動は、夕日の光を反射して、この世のものとは思えないほどの神々しい輝きを放っていた。
真紅のシルクが風に揺れるたび、金糸の刺繍が炎のように煌めき、彼女の透き通るような白い肌と、妖艶な三白眼の美しさを極限まで際立たせている。
その姿は、血生臭い戦場から帰ってきた戦士というより、天界から舞い降りた本物の女神そのものだった。花吹雪を撒いていた少女たちが、あまりの美しさに思わず手を止め、ほうっと感嘆の溜息を漏らす。
「聖女様! 万歳ッ!」
「我らが光! 聖王国万歳!!」
割れんばかりの歓声と、感謝の涙。
降り注ぐ花びらの中で、クレマンティーヌは内心、微かに困惑していた。
(……なんだってんだよ。どいつもこいつも、泣きながら私の名前を叫んで)
かつて、スレイン法国の暗部『漆黒聖典』として生きていた頃の彼女であれば、こうした民衆の歓声など、無責任な偽善者の群れだと冷ややかに見下していただろう。血と泥に塗れ、国家の陰謀のために命を奪うことだけが自分の存在意義だった。光の当たる場所など、自分には永遠に縁のない世界だと自嘲していた。
だが、今はどうだ。
馬の背に揺られながら横目で隣を見やれば、そこには、自分のすべてを受け入れ、暗闇から引きずり出してくれた男が、変わらぬ気怠げな様子で並んで歩いている。
「ほら、お前が救った連中だ。手でも振ってやれよ」
「……バカ。柄じゃないんだよ」
マヤのからかうような言葉に、クレマンティーヌは口を尖らせてそっぽを向いた。
だが、その顔にかつてのような冷たい虚無や、世界を憎むような翳りは微塵もない。沿道で「ありがとう、ありがとう」と泣き崩れる老母や、目を輝かせて手を振る子供たちの姿を見るうち、彼女の胸の奥に、言葉にできないほど温かく、むず痒い感情が広がっていくのを感じていた。
ぎこちなく、少しだけ右手を上げて民衆に振り返すと、それだけで群衆はさらに爆発的な熱狂に包まれた。
「なんかよ、ここに来た時よりさらにすげーな、この騒ぎ?」
「当たり前だろ? 国境の憂いが全部消え去ったんだ。これでもまだ足りないくらいだよ。お前、本当そういうとこさっきからそうだけど、少しズレてるぞ?」
「でもよ? 俺はお前への愛は本物だぞ? 今夜も楽しみにしてるからな」
「だから! そういうとこなんだよ!! 場所を考えろバカ!」
クレマンティーヌが顔を真っ赤にしてマヤの肩を叩く。
そんな馬上の痴話喧嘩すらも、今の民衆には「聖女様と、それを支える心優しき旦那様のお戯れ」として好意的に受け止められていた。
その後方で、二人のやり取りを微笑ましく見守っていたレメディオスが、馬を進めて彼らの背後に並んだ。
かつては融通の利かない頑物だった彼女の顔には、今や一片の迷いもない。彼女はマヤとクレマンティーヌの背中に向けて、澄み切った声で、純度百パーセントの敬意を込めて口を開いた。
「さすがは聖女様。このような大舞台、数万の民の歓声の前でも、少しも飾ることなく堂々となさっておられる。実に剛毅ですな。かの戦場での圧倒的な武勇、我が聖騎士団の永遠の語り草となるでしょう」
「ふ、ふん。まあね」
クレマンティーヌが満更でもなさそうに胸を張る。
レメディオスの言葉は、さらに隣のマヤへと向けられた。
「そして、マヤ殿。貴方にも心からの感謝を。圧倒的な力を見せつけるのではなく、裏から我らを教え導き、常に聖女殿の傍で彼女を支え続けるそのお姿……真の武人の鑑、見事の一言に尽きます。我が聖王国は、貴方方お二人に救われたのです」
一切の裏表のない、真っ直ぐすぎるほどの称賛。
それは、これまで政治的な打算や恐怖心を向けられることの多かったマヤにとって、最も不慣れで、最も対処に困る種類の言葉だった。
「……え?」
マヤの肩が、ビクッと硬直した。
普段の気怠げな余裕はどこへやら、彼の赤い瞳がパチパチと瞬きを繰り返し、信じられないものを見るかのようにレメディオスを見つめ返した。
「あ? ……え、お。あ、ありがとう……?」
言葉に詰まり、どこか挙動不審に目を泳がせる。
その、まるで褒められ慣れていない子供のような素の反応に、隣のクレマンティーヌが思わず目を丸くした。
「え!? お前なにそれ!! はじめて見たんですけど!!」
驚愕のあまり、クレマンティーヌの声が裏返った。
無理もない。彼女が出会ってからというもの、この男はいつも飄々としていて、どんな絶体絶命の危機でも笑みを絶やさず、大人の余裕で彼女を掌の上で転がしてきたのだ。
だが、そんな彼が、「純粋な敬意」と「心からの称賛」を前にして、照れ隠しすらできずに見事に狼狽えている。
(ああ……こいつ、こんな風に真っ直ぐ感謝されたこと、なかったんだ)
クレマンティーヌは一瞬で悟った。
恐ろしいほどの力を持っているが故に、かつての故郷で忌み嫌われ、恐れられていたという過去。彼に向けられる感情は、常に「畏怖」か「敵意」、あるいは「依存」だったのだろう。
ただ自分の国を救ってくれた英雄に対する、打算のない清らかな感謝。それが、彼という鬼の心にどう触れるのかを、彼女は理屈ではなく魂で理解した。
(お前が私を暗闇から救ってくれたように、今度は私が……お前を、この光の中に立たせてやる)
クレマンティーヌの唇の端が、ニヤリと吊り上がった。
彼女は手綱を引いて馬を止めると、夕日に照らされる大通りの中心で、数万の民衆に向かって高らかに声を張り上げた。
「みんな、聞けェーッ!!」
透き通るような、しかし戦場を支配するほどの大音声が、王都の空気を一瞬にして震わせた。
熱狂していた民衆が、聖女の言葉を聞き逃すまいと、一斉に静まり返る。
「私は聖女であると同時に……この、マヤの正妻だ!!」
隣で「はぇ?」と間抜けな声を出したマヤなどお構いなしに、クレマンティーヌは自らの胸をドンドンと叩き、これ以上ないほど誇らしげに宣言した。
「マヤがいなければ、我々がここへ来ることも、皆が平和な朝を迎えることもなかっただろう! この平定は、すべてこの男が導いたものだ! 私は、マヤの隣に立てることを心から誇りに思っている!! だからみんな、私を受け入れてくれたように、マヤにも最大の賛辞を頼む!!」
彼女の宣言は、民衆の心に劇的な引火をもたらした。
美しき聖女が、心から愛し、誇りとする旦那様。自分たちを救ったもう一人の真の英雄。
「うおおおおッ!! マヤ様! 聖女様!!」
「ありがとうございますッ! ありがとうございます!!」
先ほどまでの数倍にも膨れ上がった、爆発的な大歓声。
王都の空気が震え、花吹雪が乱舞し、数え切れないほどの笑顔がマヤ一人に向けられた。恐怖でも敵意でもない。ただ純粋な、心からの親愛と感謝の念が、黄金色の夕日と共に彼を包み込んだ。
「私からも、改めて最大の感謝を、マヤ殿!」
「マヤ様! 貴方からいただいた弓の教え、一生の宝といたします!!」
背後から、レメディオスとネイアまでもが破顔して頭を下げる。
逃げ場のないほどの「笑顔」と「感謝」の奔流。鬼一族にとって、自分に向けられる負の感情が修羅へ堕ちる毒であるならば、この底抜けの笑顔と感謝は、魂を根本から癒やし、満たす究極の祝福であった。
「……おう……」
顔を真っ赤にして、頭をボリボリと掻きむしるマヤ。
普段の気怠げな仮面は完全にひび割れ、どうしようもなく不器用な青年の素顔が剥き出しになっていた。
「ほれ、お前も手ぇ振ってやれよ? な?」
クレマンティーヌが、かつてこの国ホバンスへの迎え入れで自分にしたように、ニヤニヤと笑いながら小突いてくる。
「く……っ」
マヤは観念したように息を吐き、照れ隠しで顔を半分背けながらも、民衆に向けて軽く右手をフリフリと振った。
その瞬間だった。
「うおおおおッ! あの旦那様、ギャップすげぇ!!」
「キャーッ! マヤ様かっこいい!! かわいい!! 結婚してェェェッ!!」
沿道の若い娘たちから、聖女への歓声すら上回るほどの、熱烈すぎる黄色い悲鳴が巻き起こった。
凄まじい実力者でありながら、妻の前でタジタジになり、不器用に照れる赤髪の美丈夫。その破壊力は、王都の女性陣の心を一瞬で鷲掴みにしたのである。
「あ!? はぁ!?」
今度は、クレマンティーヌの顔色が変わった。
彼女は馬の上でガバッと立ち上がると、沿道の娘たちに向かって、猛獣のように牙を剥き出しにして叫んだ。
「ああああッ!! それはダメだぞ!! こいつの一番は私だ!! 私だけのマヤだからな!! 近寄ったらブッ殺すぞお前ら!!」
聖女らしからぬ、嫉妬剥き出しの暴言。
だが、そのあまりにも人間臭く、恋する乙女そのものの叫びに、民衆も、レメディオスたちも、緊張の糸が完全に切れて大爆笑の渦に巻き込まれた。
「あははははッ! 聖女様が嫉妬なさってるぞ!」
「マヤ様、愛されてますなぁ!!」
笑い声が、王都の空に響き渡る。
誰もが腹を抱えて笑い、平和の喜びを分かち合っている。
恐怖も、陰謀も、血生臭い駆け引きも、そこには一切存在しない。
ただ純粋に、彼らが守り抜いた「笑顔」だけが、大通りの端から端までを埋め尽くしていた。
その、温かく、眩しすぎる光景の中心で。
マヤは、ふと馬の歩みを緩め、王都を包む無数の笑顔を静かに見渡した。
――かつて、力を持て余し、誰にも本音を見せずに生きてきた孤独な日々。
誰もが自分を怪物と呼び、遠巻きに畏怖の目を向けていたあの世界。
幾つもの時空を越え、修羅に堕ちる恐怖と隣り合わせで戦い続けてきた。
だが今、自分の隣には、自分のすべてを肯定し、大衆の前で「私だけのものだ」と胸を張ってくれる、世界で一番愛おしい赤鬼がいる。
そして目の前には、自分を一切恐れることなく、心からの笑顔を向けてくれる人々がいる。
(……ああ。俺は、ここに来て良かった)
胸の奥にずっとこびりついていた、氷のように冷たくて重いしこりが、夕日の光に溶けて完全に消え去っていくのを感じた。
「……ふっ」
マヤは顔を上げ、周囲の民衆を、背後にいるレメディオスとネイアを、そして、隣で顔を真っ赤にしてプンスカ怒っているクレマンティーヌを見つめた。
そして、照れ臭さをかなぐり捨てて、心の底から破顔した。
それは、普段の気怠げな薄笑いでも、相手を小馬鹿にしたようなニヤリ顔でもない。
彼の背負ってきたすべての過去と業が浄化され、一人の青年として、この世界で最も幸福な人間として見せる――太陽よりも眩しい、本物の『最高の笑顔』だった。
「――っ」
その笑顔を見た瞬間。
クレマンティーヌの怒鳴り声が、ピタリと止まった。
レメディオスも、ネイアも、そして沿道で笑っていた民衆たちでさえも、一瞬だけ言葉を失い、息を呑んだ。
造形としての美しさだけではない。圧倒的な強者が、その力のすべてを他者への愛と慈しみに変換した時にだけ見せる、魂を揺さぶるような圧倒的な魅力がそこにあった。
夕風が吹き抜け、真紅のドレスと花吹雪が空に舞う。
静まり返った大通りの中心で、マヤは真っ直ぐに胸を張り、よく響く声で言った。
「……みんな、ありがとう」
その言葉には、一片の嘘もなかった。
「お前らが笑ってくれてるおかげで、俺は俺のままでいられる。……この国のみんなも、俺は大好きだ」
再び、沿道から地鳴りのような大歓声と拍手が沸き起こる。
マヤはその歓声を心地よく受け止めながら、隣で呆然と自分を見つめているクレマンティーヌに視線を移し、ニカッと悪戯っぽく笑いかけた。
「……ま、クレマンが一番だけどな!」
その不意打ちの言葉に、クレマンティーヌの顔がボンッと音を立てて茹でダコのように真っ赤に染まった。
彼女は両手で顔を覆い、しばらくの間「ううぅ……」と意味にならない声を出して悶えていたが、やがて指の隙間から、彼以上に幸せそうな、とろけるような笑顔を見せた。
「……当たり前だ。私もだぞ」
彼女はマヤに向かって手を伸ばし、その大きな手をギュッと握りしめた。
「私も、愛してる」
黄金の夕日が、手を取り合う二人の姿を長く、美しく石畳に描き出す。
聖王国を覆っていた長い夜は、完全に明け去った。
誰もが笑い合い、明日への希望に胸を膨らませる極上の平和。
その完全なる幸福の空気は、夜に控える首脳陣との「酒盛り」へと、穏やかに、そして熱を帯びたまま繋がっていくのだった。