いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
王城の最上階。広くせり出した豪奢なバルコニーから見下ろす王都は、夜の帳が下りたというのに、まるで真昼のような明るさと熱気に包まれていた。
至る所で篝火が焚かれ、広場からは軽快なリュートの音色と、絶え間ない乾杯の歌声が響き渡っている。東部の完全平定という百年に一度の偉業に、民衆の歓喜はとどまるところを知らなかった。
「……見事なものです」
バルコニーの手すりに寄りかかり、眼下の光の海を見つめながら、神官長ケラルト・カストディオは静かにワイングラスを揺らした。
「この熱狂、そして聖騎士団が持ち帰った圧倒的な戦果。これでもう、南部の貴族たちも姉様に反旗を翻す大義名分を完全に失いました。彼らとて馬鹿ではありません。自分たちから尻尾を振り、どうか聖女様にあやからせてほしいと、すり寄ってくるしか道は残されていないでしょう」
「ケラルト……」
聖王女カルカ・ベサーレスは、妹分であるケラルトの言葉に、ふっと目を潤ませた。
長年、カルカの頭を悩ませていた南北の貴族による政治的分断。それが、一滴の血を流すこともなく、ただ純粋な「圧倒的な希望」によって完全に瓦解したのだ。
カルカは、民が心から笑い合う王都の夜景を見つめながら、そっと目頭を押さえた。
「嬉しいのです。我が国が一つになれたことが。誰も理不尽に泣かなくていい夜が、こんなにも美しいものだなんて……」
「ええ。すべては、あの御二方のおかげです」
ケラルトの脳裏に、昼間の凱旋パレードで見た、呆れるほどに美しく、そして人間臭い夫婦の姿がよぎる。
冷徹な計算も、ドロドロとした陰謀も、あの規格外の二人には一切通用しなかった。ただ真っ直ぐに国を救い、笑い飛ばしてしまったのだ。
「さあ、姉様。今夜は貴女も、聖王女という重い冠を外して楽しみましょう。主賓たちをお待たせしています」
ケラルトに促され、カルカは涙を拭うと、嬉しそうに頷いて私室の扉を開いた。
***
王女の私室には、堅苦しい円卓も、畏まった給仕の姿もなかった。
ふかふかの絨毯の上に上質なクッションが無造作に転がり、低いテーブルには王宮の料理長が腕を振るった肉料理や果物、そして極上のワインが所狭しと並べられている。
参加しているのは、カルカ、ケラルト、レメディオス、ネイア。そしてマヤとクレマンティーヌのみ。
「いやー、しかし昼間のマヤ殿のあの顔! 傑作だったな! 『あ? え? あ、ありがとう……?』だってさ! いつもの余裕はどこへ行ったんだ!」
「うっさい! 酔っ払いが、忘れてたこと蒸し返してんじゃねぇ!」
すっかり出来上がったレメディオスが、腹を抱えて大笑いしながらマヤの肩をバンバンと叩く。
マヤは顔を赤くして手元の杯を煽るが、そこにすかさずクレマンティーヌが身を乗り出した。
「ちょっとレメディオス! うちの旦那をあんまりいじめるな! こいつはそういう真っ直ぐなのが苦手なだけなんだから!」
「なんだクレマンティーヌ様! 旦那がからかわれて悔しいのか!」
「く、悔しくなんかないわ! 事実を言っただけだ!」
まるで学生の寮生活のような、身分の垣根など微塵も存在しない騒がしいやり取り。
カルカはクスクスと笑いながらワインを傾け、ネイアは果実水を両手で持ちながら、憧れの二人と団長のやり取りを神様でも見るようなキラキラとした目で見つめている。
政治や打算が一切ない、ただの友人たちとしての無防備な時間。
「でも、不思議な御縁ですよね」
カルカがふと、優しく微笑みながら尋ねた。
「これほどのお力を持つマヤ殿とクレマンティーヌ様が、どのようにして出会い、結ばれたのか。……よろしければ、お聞きしても?」
その問いに、クレマンティーヌは一瞬ビクッと肩を揺らし、バツが悪そうに視線を泳がせた。出会った時の自分は、それこそ血に飢えた狂犬のような暗殺者だったからだ。
だが、マヤは事もなげに笑い、串焼きの肉をかじりながら口を開いた。
「んー? ああ、こいつ最初、森の中で会った時、めっちゃ尖っててさ」
「ちょ、マヤ! 余計なこと言うな!」
「いいじゃねぇか。でさ、こいついきなり『私は漆黒聖典だぞ!』とか偉そうに喚くわけよ。俺、そういう名前の分厚い本か何かがあるのかと思ってさ、『せいてんちゃん』って呼んでたわ。今思い出してもアホらしいな、あっはは!」
その言葉が落ちた瞬間。
「ぶふぅッ!?」
静かにワインを飲んでいたケラルトが、盛大に中身を吹き出した。
「ケラルト!? 大丈夫ですか、はしたないですよ」
「神官長様、おしぼりを……!」
慌てるカルカとネイアを片手で制しながら、ケラルトはむせ返り、必死に呼吸を整えた。
カルカとレメディオスは、マヤの言葉を額面通りに受け取っていた。
「漆黒聖典……? スレイン法国の教典か何かですか?」
「ははぁ、なるほど。つまり聖女様は、もとは法国の神に仕える身だったが、その教義に縛られるのが嫌でマヤ殿と駆け落ちを? なんだ、ロマンチックじゃないか!」
呑気に笑う姉や王女とは裏腹に、ケラルトの内心は嵐のように吹き荒れていた。
(しっ、漆黒聖典!? スレイン法国が極秘裏に抱える、英雄領域を遥かに凌駕する『神人』の暗殺部隊……!? 都市伝説ではなかったの!? しかも、聖女様がその元席次!?)
他国の諜報も担うケラルトだからこそ知っている、国家の根幹を揺るがすほどの極大の爆弾。
あのスレイン法国の最高戦力が、我が国の聖女として平然と酒を飲んでいる。一歩間違えれば国際問題などという次元ではない。
ケラルトの背筋に、氷のような冷や汗が流れる。
だが。
「うるさいマヤ! せいてんちゃんって呼ぶな! あの時は私もどうかしてたんだよ!」
「痛ぇ! 叩くなよ、事実だろーが!」
真っ赤になってポカポカとマヤの胸を叩くクレマンティーヌと、されるがままに笑っているマヤ。
その姿を見た瞬間、ケラルトの中で張り詰めていた緊張の糸が、プツンと音を立てて切れた。
(……ああ、もう、バカバカしい。法国の最高戦力だろうが何だろうが、この規格外の男の前では、ただの恋する乙女ではないか)
ケラルトは、ハンカチで口元を拭い、深く息を吐き出した。
そして、持ち前の冷徹な知略をフル回転させ、たった一つの「完璧な正解」を導き出した。
「まあ、人間主義とか掲げて人間殺してるとか、意味分かんないよな」
マヤが、ふと真面目な声色で言った。
その赤い瞳が、カルカ、レメディオス、そしてケラルトを真っ直ぐに見据える。
「だからもう、あんな組織も名前もどうでもいい。俺たちの愛の勝利だ。……お前らが、得体の知れない俺たちを、ただのマヤとクレマンティーヌとして受け入れてくれたからだ。ありがとうな」
それは、昼間の凱旋で見せたのと同じ、一切の虚飾がない純粋な感謝だった。
ケラルトは、微かに震える指で再びワイングラスを持ち上げ、極めて穏やかな、聖女に向けるような美しい微笑みを浮かべた。
「……ええ、まったくですわ。遠い異国の、変な名前の本のことなどどうでもよろしい。貴女は我が国を救い、希望をもたらしてくださった、私たちの大切な『聖女様』です。それは、何があろうと絶対に揺るがない事実です」
あえて「暗部」という言葉も、事の重大さも一切口にせず、ケラルトは完全に「知らない」ことを貫き通した。それが、彼女なりの最大の敬意であり、二人の秘密を永遠に守り抜くという強固な決意の表れだった。
「さあ、杯を! 我らが誇る英雄たちと、極上の平和に!」
ケラルトの音頭に合わせ、全員が満面の笑みでグラスを打ち鳴らす。
「「「乾杯!!」」」
チン、という澄んだ音が、夜の王宮に響き渡った。
過去のしがらみも、隠し事も、その音と共に完全に夜風へと溶けていく。身分の違いを超え、真の意味で心と心が繋がり合った、どこまでも温かくて、極上の夜が更けていった。
***
祝宴が終わり、深夜の静寂に包まれた賓客用の寝室。
分厚いカーテンが下ろされた部屋の中は、微かに月の光が差し込むだけで、ひどく穏やかだった。
「ん……」
ふかふかの広いベッドの中。
クレマンティーヌは、素肌のままマヤの広い胸板に顔を埋め、その力強く規則正しい心音を心地よさそうに聞いていた。シーツの下で、二人の素肌が熱を持って重なり合い、互いの体温を確かめ合っている。
激しく求め合った後の、甘く気怠い余韻の時間が流れていた。
マヤは天井を見つめたまま、無意識のようにクレマンティーヌの赤い髪を指に絡めては梳いている。
「……なぁ」
「ん?」
「お前、あんなに飲むとは思わなかったぞ。レメディオスと一緒に、樽の半分くらい空けてただろ」
呆れたようなマヤの声に、クレマンティーヌはクスリと笑って顔を上げた。
「だって、気分が良かったんだもん。あの堅物のケラルトが、最後はべろべろに酔っ払って『姉様ぁ〜』ってカルカに絡んでたの、最高だっただろ?」
「違いねぇ。まさかあんなオチがつくとはな」
クスクスと笑い合う二人。
ふと、クレマンティーヌがシーツから上半身を少し乗り出し、マヤの顔を覗き込んだ。月明かりに照らされた彼女の三白眼が、悪戯っぽく細められる。
「でもさぁ……。昼間、レメディオスたちに真っ直ぐ褒められた時。マヤ、本当に顔真っ赤にして狼狽えてたよな」
「……ッ、それ、もう蒸し返すなって言っただろ」
「いいや、蒸し返すね。お前、色んな修羅場くぐってきたとか言って、すんごい余裕ぶってたのにさ。本当は、めちゃくちゃ初心なんだな?」
ニヤニヤとからかう彼女の言葉に、マヤは気まずそうに視線を逸らし、ボリボリと頬を掻いた。
「なんだその……あーいう、裏のない純粋な感情でこられるの、俺、全然慣れてないんだよ。俺に向けられる感情なんて、昔から恐怖か、打算か、敵意ばっかりだったからさ……。あんな風に、ど直球で『ありがとう』とか言われると、どうしていいか分かんなくなるっつーか……」
消え入りそうな声で、素直に本音を吐露するマヤ。
いつもの完璧な強者としての余裕が剥がれ落ちた、年相応の青年の不器用な顔。
クレマンティーヌは、愛おしさが爆発しそうになるのを必死に堪えながら、マヤの赤い瞳をじっと見つめた。
ただ、無言で。瞬きもせず、至近距離から、彼の魂の奥底まで覗き込むように。
「……な、なんだよ」
「…………」
「おい、クレマン。そんなじっと見んなって」
暗闇の中、静かな息遣いだけが交差する。
かつては他者の命を奪うことしか知らなかった二人の瞳が、今は互いへの深すぎる愛だけを映して絡み合っている。
十秒。二十秒。
耐えきれなくなったのは、やはりマヤの方だった。
「……あーもう、わかった! 降参だ、俺が悪かった!」
マヤがバツが悪そうにスッと視線を逸らし、シーツを被って顔を半分隠す。
その瞬間、クレマンティーヌの顔に、底抜けに明るくて、この世界で一番幸せな女の笑顔が咲き誇った。
「やっぱりだ。お前、私には絶対勝てないな」
「うるせぇ。……お前が可愛すぎるのが悪いんだろ」
「へへっ」
クレマンティーヌは自らシーツの中に潜り込み、マヤの首に両腕をしっかりと絡ませた。
そして、彼が顔を背けている隙を突いて、その唇に「ちゅっ」と短く、けれどひどく甘い音を立てて口付けた。
「愛してるよ、まぁ〜や?」
勝者の余裕と、ありったけの愛情を込めた囁き。
マヤは観念したように深い溜息を吐くと、今度は逃げることなく彼女の細い腰を力強く抱き寄せ、その身体を自分の中に溶かすように強く抱きしめ返した。
「……俺もだ。愛してる、クレマン」
二つの影が再び重なり合い、甘い吐息が夜の静寂に溶けていく。
極上の祝宴の夜。誰にも脅かされることのない、確かな温もりだけを抱きしめながら、二人は穏やかな朝の光が差し込むまで、何度でも互いの存在を確かめ合い続けた。