いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
リ・エスティーゼ王国の王城『ロ・レンテ城』。
その中枢に位置する広大な謁見の間は、王国の威信を示すための絢爛豪華な装飾に彩られているが、現在この空間を満たしているのは、重く沈んだ疲労と緊張の空気だった。
玉座に腰を下ろす国王ランポッサⅢ世の顔には、深く刻まれた皺と隠しきれない疲労の色が濃く表れている。
つい数週間前、王都は『ヤルダバオト』と名乗る悪魔の軍勢によって火の海と化し、甚大な被害を受けた。民の命、家屋、そして兵力。失われたものはあまりにも多く、復興への道のりは途方もなく遠い。王国は今、国力という点において明確に弱り果てていた。
その玉座の傍らには王国戦士長ガゼフ・ストロノーフが控え、さらに王族として第一王子バルブロ、第二王子ザナック、第三王女ラナーが並び、貴族派の重鎮であるレエブン侯をはじめとする有力貴族たちが両脇を固めている。
彼らの視線の先、重厚な扉がゆっくりと開かれ、豪奢な装飾が施された絨毯の上を、三人の使者が歩みを進めてきた。
ローブル聖王国からの『復興支援使節団』である。
先頭を歩くのは、真紅のチャイナドレスに身を包んだ絶世の美女。
聖王国において絶対的なカリスマを誇ると噂される『聖女』、クレマンティーヌ。
深くスリットの入った扇情的な衣服――神話級の力を秘めた世界級アイテム『傾城傾国』――を纏いながらも、その歩みには一片の隙もなく、洗練された冷徹な威厳が漂っていた。かつて裏社会を恐怖で支配した暗殺者の歩法と、国家の代表としての堂々たる振る舞いが奇跡的な融合を果たしている。
彼女の斜め後ろを歩くのは、聖王国の国章が刻まれた防具を身につけた少女、ネイア・バラハ。
特製の魔弓を背負った彼女の目は、生まれつきの凶悪な三白眼であり、ただ歩いているだけで周囲を威圧するような強烈な眼光を放っていた。
そして、もう一人。
クレマンティーヌの背後を、手持ち無沙汰な様子で歩く赤髪の青年。
特別な鎧を着ているわけでも、豪奢な礼服を纏っているわけでもない。極めて身軽でラフな出で立ちの彼は、王城の威圧感など微塵も感じていないかのように、ただ周囲の彫刻や柱を「へー」とでも言いたげな目で眺めながら歩いていた。
「よくぞ参られた、聖王国の使者殿」
老齢ながらも威厳を保ったランポッサⅢ世の声が、謁見の間に響き渡る。
その声を受けた瞬間、クレマンティーヌは流れるような所作で片膝をつき、深く頭を垂れた。続くように、ネイアも寸分の狂いもない見事な臣下の礼をとる。
だが――。
青年だけが、立ったままだった。
彼は片膝をつくどころか、頭を下げることすらせず、ただ玉座の王や並び立つ王族たちを、興味深そうに観察している。無礼を働こうという悪意や、相手を威圧しようという敵意は一切感じられない。「王に対して頭を下げる」という概念そのものが、彼の中に存在していないかのようだった。
謁見の間に、僅かなざわめきが走る。
貴族たちの何人かが不快げに眉をひそめ、ガゼフが微かに目を細めた。
(……何だ、あの男は)
並び立つ王族の中で、第二王子ザナック・ヴァルレオン・イガナ・ライル・ヴァイセルフは、その凡庸な見た目の奥にある極めて優秀な政治的思考をフル回転させていた。
ただの従者か?
いや、一国の使節団の代表である聖女の真後ろに控えているのだ。ただの荷物持ちなどではない。護衛、あるいは聖王国の高位貴族か? だが、それにしては衣服が軽装すぎる。
ザナックは一瞬、彼を「礼儀も知らぬ愚か者」と切り捨てそうになった。しかし、すぐにその思考に待ったをかける。
(聖女が、あの男の無礼を咎めていない……?)
頭を下げたままのクレマンティーヌは、背後に立つ青年に対して注意する素振りすら見せていない。ネイアという少女も同様だ。
それが意味するものは何か。
「彼が頭を下げないこと」は、聖王国の使節団にとって『許容されている』、あるいは『当然のこと』なのだ。
ならば、あちらには明確な理由がある。ここで王国の側から「頭が高い」と難癖をつければ、いらぬ外交的摩擦を生むだけだ。今は我々が助けられる側なのだから。
ザナックは優秀な政治家として、男への評価を一時保留した。
一方で、ザナックの妹である第三王女ラナーは、完璧な淑女の微笑みを貼り付けたまま、内心で首を傾げていた。
(……あの者は、頭を下げないのね)
ラナーは天才である。彼女は人間を観察する際、必ず「その者が何を望んでいるか」を見る。
権力が欲しいのか、金が欲しいのか、地位か、愛か、承認欲求か。相手の欲望の形さえ分かれば、人間など容易にコントロールできる。
しかし、あの赤髪の青年の内側には、ラナーが理解できるような『欲』が全く見えなかった。
王の権威に怯えているわけではない。かといって、反逆心や敵意があるわけでもない。外交手腕を誇示しようとする野心もない。
ただ、聖女の後ろに立っているだけ。
(……何を考えているのかしら。分からないわ)
ラナーにとって、「欲望が読めない人間」は計算機に異物を放り込まれたような不快感をもたらす。少し観察して底を暴いてやろうか――そう彼女の天才的な頭脳が働きかけた直後。
(あ、今日のクライム、鎧が綺麗に磨かれていてとっても素敵……♡)
ラナーの視界の端に、護衛として直立不動で立つクライムの姿が映った。
瞬間、彼女の脳内を占めていたマヤへの分析は、「得体が知れなくてつまらないもの」として一瞬でゴミ箱へ放り込まれ、完全にピンク色の乙女モードへと切り替わった。
それぞれの思惑が交錯する中、謁見の場の静寂を破ったのは、第一王子バルブロだった。
「聖女殿。面を上げられよ」
バルブロが、ランポッサⅢ世を差し置くように一歩前へ出た。
彼の視線は、クレマンティーヌの顔、そして真紅のチャイナドレスから覗く豊満な胸元や、スリットから覗く白い脚に釘付けになっていた。
武を重んじるバルブロは、悪魔の襲撃時に動けなかった自分への不満と焦りがあった。ここで聖王国の使者を上手く取り込めば、次期国王としての自分の格を見せつけられる。おまけに、相手は聞きしに勝る絶世の美女だ。
「こうして間近で拝見すると、噂に違わぬ、いやそれ以上の美しさだ。これほどの方にわざわざ足を運んでいただけるとは、我が王国への何よりの慈悲と言えよう。もしよければ、我が王国に滞在中は私が直々に――」
ザナックは、胃の腑がギュッと絞り上げられるような痛みを覚えた。
(兄上……っ!)
外交の場で、しかも「自分たちを支援しに来てくれた国の代表」に対して、あろうことか個人的な下心を丸出しにしている。
王国は今、聖王国に頭を下げてでも支援を受けねばならない立場なのだ。ここで第一王子が不興を買えばどうなるか、なぜこの愚兄には理解できないのか。
ザナックはすぐさま制止に入ろうとしたが、それよりも早く、面を上げたクレマンティーヌが口を開いた。
「過分なお褒めの言葉、恐悦至極に存じます、第一王子殿下」
その声は、驚くほど澄んでおり、冷ややかだった。
「ですが、私は本日、個人的な交流のためではなく、聖王国女王陛下の名代として、王都の復興支援に関する協議のために参りました。まずは、持参いたしました支援物資の目録をご確認いただきたく存じます」
一刀両断であった。
バルブロの個人的な欲求など、外交という盤上には存在しないと言わんばかりの、完璧で事務的な切り返し。傾城傾国という世界級アイテムを纏い、己の美貌を交渉のカードとして理解しながらも、彼女自身は決して安っぽい挑発には乗らない。
バルブロは顔を赤くし、プライドを傷つけられたように声を荒らげかけた。
「な、なんだと? 私はそなたを気遣って――」
「いかなり王子殿下であろうとも」
バルブロの言葉を遮ったのは、クレマンティーヌの背後に控えていたネイアだった。
彼女は臣下の礼をとった体勢のまま、顔だけを上げ、その凶悪な三白眼でバルブロを真っ直ぐに射抜いていた。
「我が聖王国の女王陛下の御心を受けて参られた聖女様に対し、その任を軽んじるようなお言葉は、控えていただきたく存じます」
言葉こそ丁寧だが、その声には一切の温度がなかった。バルブロがこれ以上無礼を働くなら、この場で武器を抜くことすら辞さないという狂信的な怒りが、彼女の目には宿っていた。
バルブロが怯んだように一歩後ずさる。
これ以上は致命的な外交問題になる。ザナックはついに一歩前へ出た。
「兄上」
決して怒鳴らず、しかし明確な拒絶を込めた低い声。
「まずは、使者殿の言葉を聞こうではありませんか。我々は支援を申し出ていただいた立場。私欲を挟むべき場ではありません」
バルブロは舌打ちを一つ落とし、不満げに元の位置へと戻った。
ザナックは内心で深く安堵の息を吐きながら、改めてクレマンティーヌという女性を見直していた。
(……なるほど。単なる美貌を飾りにした聖女ではない。自分が何者としてこの場にいるのかを、完璧に理解している)
そして、ザナックの視線は、再びその後ろに立つ赤髪の青年へと向かった。
マヤは、何も言っていなかった。
バルブロが自国の代表であるクレマンティーヌに無礼な態度をとっても、怒る素振りも見せなかった。
ネイアが怒りを露わにして王子を威圧しても、咎めも賛同もしなかった。
クレマンティーヌが完璧にその場を収めても、ただ、変わらぬ自然体でそこに立っていた。
(……何だ、あの男は)
ザナックの背筋に、冷たい汗が流れた。
もし彼が護衛であるなら、主が侮辱された瞬間に何らかの反応を示すはずだ。感情を殺すにしても、微かな筋肉の緊張や視線の鋭さが出る。ガゼフ・ストロノーフでさえ、王が侮辱されれば僅かに殺気を漏らす。
だが、あの男にはそれが一切ない。まるで「その必要がない」とでも言うように。
(……必要がないから、か?)
ザナックの脳内で、一つの恐ろしい仮説が組み上がっていく。
この男にとっては、一国の王子が喚こうが、自国の使節団がどう対応しようが、今この場で自分が口を挟む価値すら存在しないのだ。
すべてを手のひらの上で転がし、この場の空気がどう動くかさえ完全に計算し尽くしているからこそ、彼は沈黙という絶対的な強者の態度を崩さないのではないか。
ザナックは知らない。
この赤髪の男が、政治的計算など微塵もしておらず、ただ「早く終わらねーかな。てか青の薔薇の人たちどこにいるんだろ」という、ただの好奇心だけでこの場に立っている事実を。
沈黙するマヤの底知れない姿に、ザナックは優秀な政治家であるがゆえの深い警戒心を、静かに、そして致命的に募らせていくのだった。