いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
パチパチという焚き火の音と、静かな森の風が木々を揺らす音だけが響いていた。
冷たい月明かりの下、クレマンティーヌは呆然としたまま、マヤに包み込まれた自分の手を見つめていた。
彼女がこれまで必死に積み上げてきた「私は残酷な化け物だ」という虚勢の鎧。それを魔法でも武力でもなく、ただの言葉と体温であっけなく溶かしてしまった目の前の男。
恐ろしい怪物のはずなのに、彼の横顔には不思議と穏やかな哀愁があり、彼女はただその温もりに縋るように沈黙していた。
しんみりとした、どこか救いのある静寂。
それが永遠に続くかと思われた次の瞬間だった。
「あのさ、クレマン」
「……な、なんだよ」
恐る恐る視線を上げる彼女に対し、マヤは極めて真剣な顔で、しかしどこか間延びした声で告げた。
「見ての通り、俺服ないんだわ。金もないし、この辺の道も知らない。悪いけど、どこかで服、買ってくんね?」
森の静寂が、ピタリと止まったような気がした。
クレマンティーヌは目を瞬かせ、マヤの顔と、彼が羽織っている自分の予備のマント、そしてその下から覗く鍛え抜かれた無防備な上半身を交互に見つめた。
「……は?」
「だから、服。このままじゃ流石に寒くてさ」
「ちょ、ちょっと待て! なんで私がお前の世話を焼かなきゃいけないんだよ!」
彼女の口から、先ほどまでの狂気の演技でも、怯えた少女の声でもない、ただの素のツッコミが飛び出した。
彼女の常識では、これほどの絶望的な力を持った強者とは「命令」し、「奪う」存在だ。自分を片手で捻り潰せるほどの怪物が、なぜ迷子のような顔で生活の世話を焼かせようとしているのか。
「だって俺、無一文だし」
「お前ほどの力があれば、そこら辺の町でも盗賊でも襲って、服くらい好きに奪えるだろ!」
「そんな面倒なことしないよ。服の作り方もわからないし。困った時は、詳しいやつに頼るのが一番だろ?」
「お前なぁ……!」
悪びれる様子など微塵もないマヤの顔を見て、クレマンティーヌは思わず頭を抱えそうになった。
先ほどまで感じていた得体の知れない安堵感や、過去を許されたような神聖な空気が、急速に呆れへと上書きされていく。
逃げる隙はあるかもしれない。しかし、背を向ければ即座に捕まるだろうという本能的な恐怖と、彼から離れたくないという無意識の執着が、彼女の足を縫い留めていた。
(……これだけの異常な戦力。それに、どうやら本当に身寄りがない。なら……)
頭を抱えながらも、彼女の頭の片隅で、暗部の人間としての合理的な計算が働き始めた。
これだけの規格外の怪物を、もし自分の組織に引き込むことができれば、彼女の立場は盤石になる。優秀な兄への劣等感も、組織内での息苦しさも、この男を手駒にすれば一掃できるかもしれない。
「……お前、そんな力があるのに野良なのか。だったら、あんた『うち』に来るか?」
クレマンティーヌは探るように提案した。
「うち?」
「私の口利きなら、それなりの待遇で雇ってやることもできる。金も服も、望むだけ手に入るぞ。どうだ?」
スレイン法国という具体的な国名は出さず、あくまで条件だけを提示する。
しかし、マヤは焚き火の炎をつつきながら、気怠そうに首を振った。
「うーん……やめとく」
「あ? なんでだよ。金がないんだろ? 寝床だって用意してやれるぞ」
「嫌だよ。だって、お前がいら立つ場所だろ?」
マヤの言葉に、クレマンティーヌの息が止まった。
「なっ……」
「お前、さっきからその『うち』の話する時、全然楽しそうじゃないし」
マヤは炎から視線を外し、彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。
そこに駆け引きの色はない。
「自分で自分の手を汚いって自嘲するくらい、今の場所に苛立ってるんだろ? そんな国に行っても、お前は無理して笑うだけだし、俺も窮屈そうだからパスだ」
クレマンティーヌは、心臓を直接素手で掴まれたような衝撃を受けた。
彼は、彼女の背後にある組織の強大さも、彼女の立場も、世界情勢も、何一つ知らない。
ただ、「目の前にいる彼女が、その話題を出した時に嫌そうな顔をしたから」という、たったそれだけの理由で、莫大な富と地位の誘いを一蹴したのだ。
(こいつ、私が何者かより……私がどういう顔をしているか見てるのか?)
今まで、彼女は「漆黒聖典の第九席次」や「暗殺者」といった肩書きや実力だけで評価されてきた。だが、この男は違う。
強者としての覇気を持たず、彼女の機嫌だけを見て判断を下す男。
図星を突かれて言葉を失う彼女に対し、マヤは立ち上がって軽く伸びをした。
マントの裾が揺れ、鍛え上げられた腹筋が月明かりに照らされる。
「だから、とりあえず近くの町に行って服買ってさ。そのあと、どっか一緒に行くか?」
あっけらかんと告げられた言葉。
それは、彼女にとってこれ以上ないほどの救済であり、同時にとんでもなく無責任な道連れの誘いだった。
彼女の中で、組織への恐怖と、目の前の「常識が通用しない怪物」への奇妙な安心感が天秤にかけられる。
数秒の沈黙の後、クレマンティーヌは深く、長くため息をついた。
「……あーもう、わかったよ! 服だろ、服! 買ってやるから勝手にどっか行くなよ!」
半ばやけくそ気味に叫ぶと、彼女は立ち上がってマヤを睨みつけた。
「ただし、私の古巣に行くぞ。当面の資金も、私の隠し財産から引っ張り出すしかないからな」
「おー、頼りになるな。案内よろしく」
「……お前、本当に何も知らないんだな。後で後悔しても知らないからな」
彼女が案内しようとしているのは、他でもないスレイン法国の街。
人間至上主義を掲げ、異端を排除する狂信的な国家であり、彼女自身がいま最も苛立たしさを感じている因縁の場所だった。
本来なら、絶対に自分から足を踏み入れたくない場所。だが、「こいつに服を買ってやるため」という馬鹿馬鹿しい理由が、彼女の足を故郷へと向けさせていた。
夜が明け、朝霧が立ち込める森を抜け、二人は街道を歩いていた。
数時間後、巨大な城壁に囲まれたスレイン法国の地方都市の門前。
重武装の門兵たちが鋭い視線で行き交う人々を監視し、異教徒や亜人が紛れ込んでいないか厳しくチェックしている。宗教国家特有の、清廉だがどこか息苦しい緊張感が漂っていた。
列に並ぶ人々が、クレマンティーヌとその後ろを歩くマヤを見てヒソヒソと囁き合う。
それもそのはずだ。
クレマンティーヌは漆黒の装束に身を包み、暗部特有の尋常ではない威圧感を放っている。
その後ろを歩くマヤは、寸足らずの黒いマントを頭から被り、その下は上半身裸という、どう見ても不審者か変質者スレスレの格好だった。
「おい、そこの二人。止まれ。身分を証明するものを出せ」
門兵の一人が、槍の柄を握り締めながら鋭い声で呼び止める。
だが、クレマンティーヌは一切の動揺を見せず、冷ややかな視線で門兵を見下ろした。
彼女は懐から、漆黒聖典であることを示す小さな紋章を無造作に取り出し、門兵の顔の前に突きつけた。
「……っ!! し、失礼いたしました!」
紋章を見た瞬間、門兵の顔から血の気が引き、槍を落としかけるほどの勢いで最敬礼の姿勢をとった。法国の最精鋭にして、暗部の頂点に君臨する部隊。一介の門兵が逆らえる相手ではない。
「通るぞ。後ろのは私の付き人だ。荷物持ちにしている」
「は、はい! どうぞお通りくださいませ!」
一切の詮索を許さない圧倒的な権力プレイ。
門兵たちは、マヤの怪しすぎる格好に疑問を抱きながらも、ただの一言も口を挟むことはできなかった。
「おー、でっかい街だな。活気があっていいじゃん」
マヤは門を通り抜けながら、石造りの街並みと行き交う人々を物珍しそうに見渡している。
自分がどれほど危険な国家の中枢に近い場所に潜入したかなど、露ほども理解していない様子だ。
「……あまりキョロキョロするな。目立つだろうが」
クレマンティーヌは舌打ちをしながら、マヤの袖を引いて路地裏へと足を進める。
彼女にとってこの街は、息の詰まるような過去の象徴だ。だが、隣を歩くマヤがあまりにも観光客気分なせいで、彼女の張り詰めていた緊張感がどこか拍子抜けしてしまっていた。
二人がまず向かったのは、大通りから少し外れた場所にある、一般人向けの普通の服屋だった。
店内には、冒険者向けの頑丈な革鎧などではなく、町人や旅人が着るような麻のシャツ、厚手のズボン、防寒用の外套などが所狭しと並べられている。
「いらっしゃいませ。どのようなものをお探しで……」
笑顔で揉み手をして近づいてきた店主は、クレマンティーヌの鋭い眼光と、マントの下が半裸の男を見て、顔を引きつらせた。
「おい。こいつに着られる服を見繕え。丈夫で、目立たないやつだ。金は払う」
クレマンティーヌがカウンターに銀貨を数枚叩きつけると、店主は慌てて頷き、店の奥から何着かの服を引っ張り出してきた。
マヤは並べられた服を手に取り、感触を確かめる。
「おー、これいいな。生地が柔らかくて動きやすそうだ」
マヤが選んだのは、飾り気のないシンプルな白いシャツと、焦茶色の丈夫なズボン、そして革のブーツ。
冒険者としての威圧感も、魔法詠唱者としての神秘性も一切ない、ごくありふれた【普通の旅人スタイル】だった。
「お客様、こちらの上着はいかがでしょう? 風を通さず、長旅にも最適ですよ」
「いいね。それももらうわ」
マヤは店主に勧められるがまま、次々と服を選んでいく。試着室から出てきたマヤは、先ほどまでの不審者ぶりが嘘のように、すっかり平凡な旅の青年の姿に収まっていた。
ただ、その服の下に隠された筋肉の密度と、一切の隙がない立ち姿だけが、彼が凡人ではないことを辛うじて示している。
「どう? 変じゃないか?」
マヤが振り返って尋ねると、クレマンティーヌは腕を組みながらジト目で彼を見た。
「……普通すぎる。お前、それじゃただの村人Aじゃないか」
「いいじゃん、目立たなくて。着心地最高だし」
マヤが満足げに笑う横で、クレマンティーヌは再び銀貨を数枚追加で支払いながら、深いため息をついた。
(……なんで私が、こいつの服を選んで金まで払ってやってるんだろ。私、暗殺者だぞ……?)
強者を演じ、恐怖で他者を支配してきたはずの自分が、今は完全に「身の回りの世話を焼く保護者」のような立ち位置になっている。
その事実がおかしくもあり、同時に、悪くない気分だった。
「よし、これで人並みに歩けるな。次は行くぞ」
「次? まだ買うものあるのか?」
「当たり前だ。旅をするなら、最低限の備えくらいしろ」
クレマンティーヌはマヤの背中を押し、店を出て大通りへと向かった。
次に彼女がマヤを連れてきたのは、通りでも一際大きな看板を掲げた【実用的な冒険者向けの装備屋】だった。
店内には、鈍く光る剣やメイス、鎖帷子、魔法の付与された革鎧など、血と鉄の匂いが微かに漂う武具がズラリと陳列されている。
「いらっしゃい! おや、お嬢ちゃんは同業者かい? いい目をしてる」
筋骨隆々の店主が、クレマンティーヌの歩き方と視線の配り方を見て、即座に彼女が玄人であることを見抜いてニヤリと笑った。
「こいつに合う防具を見繕ってくれ。動きを阻害しない軽めの鎧と、ガントレットだ。安物は要らない。実戦で使い物になるやつを出せ」
クレマンティーヌは、戦闘員としての長年の癖と経験から、極めて実用的な要求を店主に突きつけた。
マヤがどれほど異常な身体能力を持っていようと、刃物や魔法から身を守る防具は旅の必需品だ。彼女の常識がそう告げていた。
店主は腕を鳴らし、奥から上質なミスリルが編み込まれたチェインシャツと、硬質な革で作られた胸当てを持ち出してきた。
「これはいい品だ。軽量だが、オーガの棍棒を受けても致命傷は避けられる。お連れさんも、これなら安心だろ?」
店主が自信満々に胸当てをマヤに差し出す。
しかし、マヤはそれを手に取ることすらせず、不思議そうな顔で店主とクレマンティーヌを交互に見た。
「俺、別に防具いらないんだけど」
店内に、気まずい静寂が落ちた。
「……は?」
「いや、だから。服は欲しかったけど、防具は重いし肩が凝るから要らない。邪魔だし」
「お前な……!」
クレマンティーヌは声を荒らげそうになるのを必死に堪え、マヤの襟首を掴んで顔を近づけた。
「ふざけるな。これから旅に出るんだぞ? いつ魔物や野盗に襲われるかわからないんだ。最低限の防具も着けずに歩く馬鹿がどこにいる!」
「ここにいるけど」
「口答えするな!」
マヤの飄々とした態度に、クレマンティーヌの額に青筋が浮かぶ。
「いいから着ろ! お前が強かろうと、不意打ちで毒矢でも受けたらどうする気だ!」
「当たらないし、刺さらないから大丈夫だって」
「そういう問題じゃない! 装備を怠る奴は早死にするのが常識だろ!」
二人の言い合いを聞いていた店主が、困惑したように頭を掻いた。
「えっと……お客様? こちらの防具、かなり丈夫に作られておりまして、決して動きの邪魔には……」
「だから、俺は別に防具要らないんだって。買いに来たわけじゃないし」
「……じゃあ、なんであんたうちの店に来たんだよ」
店主の至極真っ当なツッコミに対し、マヤはクレマンティーヌを指差して、当然のように言い放った。
「こいつが連れてきたんじゃん」
「…………」
「…………」
店主とクレマンティーヌの動きが同時に止まった。
クレマンティーヌは、震える手で顔を覆った。
防具を一切必要としない謎の平服の男と、それを苛立ちながら世話する暗黒街の女。端から見れば、完全に意味不明な光景だ。
「……あー、もう。わかった。わかったよ」
クレマンティーヌは、ひくひくと引きつる笑顔で店主に頭を下げた。
「……悪い、冷やかした。こいつ、頭のネジが何本か飛んでるんだ。帰るぞ、馬鹿マヤ」
「え、もういいの?」
「いいから黙って歩け!」
クレマンティーヌはマヤの背中を蹴り飛ばす勢いで店を押し出た。
街の喧騒の中、二人は並んで石畳の道を歩く。
先ほどの怒りがまだ収まらないのか、クレマンティーヌはブツブツと文句を言いながら歩調を速めていた。
だが、その横顔には、かつての狂気に満ちた歪んだ笑みも、底知れない冷たさもない。
ただ、世話の焼ける連れ合いに振り回される、年相応の少女の不満が浮かんでいるだけだった。
「次はどこ行くんだ? 飯か?」
「お前は本当に……少しは状況を考えろ。ここは法国だぞ。長居すれば、いずれ私の足取りが掴まれる」
クレマンティーヌは周囲を警戒しながら、声を潜めて答える。
「そうなのか? 別にお前が嫌なら、いつ出て行ってもいいけど」
「当たり前だ。さっさと用事を済ませて、この息苦しい街から……」
彼女が言葉を続けようとしたその時、通りの向こうから、白銀の鎧に身を包んだ一団が足早に歩いてくるのが見えた。
街の自警団ではない。その洗練された動きと、纏う威圧感。スレイン法国の精鋭、陽光聖典か、あるいはそれに準ずる特務部隊の気配だった。
クレマンティーヌは咄嗟にマヤの腕を引き、路地裏の影へと身を隠した。
「……どうしたんだよ、急に」
「静かにしろ」
彼女は息を殺し、通り過ぎていく部隊の動向を伺う。
彼らの会話の断片が、微かに路地裏まで届いてきた。
『――厳重に警戒せよ。国宝の安置所周辺は、ネズミ一匹通すな』
『はっ。しかし、そこまで過敏になる必要が……』
『馬鹿者。あれは、精神を完全に支配する御使いの遺物だ。万が一にも外部に漏れることがあれば、人類の危機に直結する』
足音が遠ざかり、静寂が戻る。
クレマンティーヌは小さく息を吐き出し、壁に寄りかかった。
「……物騒な連中だな」
「当然だ。ここはそういう国だからな」
クレマンティーヌは自嘲気味に笑った。
「精神を完全に支配する遺物、ね。法国の連中が切り札にしてるヤバい装備さ。人の心を無理やり捻じ曲げて、絶対の忠誠を誓わせる。そういう趣味の悪い代物が、この国の奥底には眠ってるんだよ」
彼女は、マヤがその話を聞いて「恐ろしい国だ」と怯えるか、「関わりたくない」と顔を顰めると思っていた。
しかし、マヤの反応は彼女の予想を完全に裏切るものだった。
マヤは路地裏の壁に寄りかかり、遠ざかる部隊の背中をじっと見つめていた。
その瞳の奥に、かつて彼が戦い抜いてきた別の世界での記憶――幻術によって心を壊され、争わされた者たちの悲劇が静かに過る。
「……人の心を捻じ曲げる装備?」
「ああ。絶対服従の洗脳だ。どんな強者だろうと、あれを使われれば終わる」
マヤは小さく息を吐き、首をコキリと鳴らした。
「そりゃ、危ないな。そんな物騒なもん、人間の国に置いとくのは良くないだろ」
「……は?」
「どうせ服も買ったし、時間あるだろ。ちょっとそれ、回収しに行こうぜ」