いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
分厚く重厚な謁見の間の扉が、鈍い音を立てて完全に閉ざされた。
ローブル聖王国からの使節団――絶世の美貌と冷徹な威厳を併せ持つ聖女、射殺さんばかりの眼光を放っていた従者の少女、そして、底の知れない赤髪の青年。
彼らの姿が完全に視界から消えた瞬間、王城の中枢を満たしていた極限の緊張感が、どっと重い疲労へと形を変えて王国の重鎮たちにのしかかった。
「……ふぅむ」
玉座に腰を下ろす国王ランポッサⅢ世が、ひどく老け込んだような深い溜息を吐き、背もたれに深く体重を預けた。
ヤルダバオトの襲撃から続く心労に加え、先ほどの息の詰まるような外交交渉。初老の王にとって、それは寿命を削られるような時間だった。
その重い沈黙を最初に破ったのは、丸みを帯びた体型に似合わぬ鋭い知性を宿した第二王子、ザナックだった。
「父上。……あの赤髪の男、どう見ますか?」
ザナックの問いかけに、ランポッサⅢ世は緩く首を横に振った。
「……分からぬ。見返りを求めぬ莫大な支援、聖女殿の完璧な振る舞い。それだけでも我が王国にとっては計り知れぬ事態だというのに、あの男の存在は、さらに不可解だ」
王の素直な困惑を受け、ザナックは玉座の傍らに直立する王国最強の戦士へと視線を向けた。
「戦士長。あなたの目には、どう映りましたか。あの男が口を開くまで、あなたは一言も発さず、ただ微動だにせず彼を注視していたようですが」
水を向けられたガゼフ・ストロノーフは、彫りの深い顔に苦渋の色を濃く滲ませた。
王国最強と謳われる男の額には、うっすらと冷や汗すら浮かんでいる。
「……恥を忍んで申し上げます、ザナック殿下」
ガゼフは深く息を吸い込み、信じられない事実を告白するように声を絞り出した。
「あの男が『青の薔薇はどこにいる』と王の御前で突然口を開いた瞬間。私は咄嗟に、剣の柄に手をかけておりました」
「なっ……!?」
ザナックが目を見開く。周囲に控えていたレエブン侯や貴族たちからも、小さく息を呑む音が漏れた。
ガゼフ・ストロノーフが、剣に手をかける。それは余程の危機的状況か、相手から明確な殺気を感じ取った時のみだ。
「それほどの敵意を感じたのですか? あるいは、隠しきれぬほどの強烈な殺気を?」
「いいえ、逆です」
ザナックの推測を、ガゼフは即座に否定した。
「殺気も、敵意も……何一つとして、微塵も感じませんでした」
「……どういうことだ?」
理解できないという顔をするザナックに対し、ガゼフは戦士としての本能が感じ取った「異質さ」を懸命に言語化しようと試みた。
「あの男の言葉には、裏がありませんでした。ただ純粋に、自分の聞きたいことを、聞きたいタイミングで口にしただけです。……ですが、それが異常なのです」
ガゼフは己の剣の柄を見下ろしながら、忌まわしいものを思い出すように眉間を寄せた。
「ここは他国の王の御前です。しかも、我々は直前まで極めて高度な外交のやり取りをしておりました。まともな人間であれば、あるいは修羅場を潜り抜けた戦士であれば、無意識にでも場の空気を読み、警戒心を抱き、言葉を選ぶはずです。己の発言がどう受け取られるか、殺されるリスクはないか……そうした『生存本能』に基づく緊張感が、人間には必ずある」
ガゼフは顔を上げ、ザナックの目を真っ直ぐに見返した。
「しかし、あの男にはそれが欠落していました。王の御前だろうが、無数の兵に囲まれていようが、彼はただ『青の薔薇に会いたい』という己の意思だけで動いた。場の空気も、自身の立場も、他者の感情も、一切考慮していない。……まるで、人間が蟻の巣を覗き込んで話しかける時のような、絶対的な無関心と、圧倒的な自然体。それが、戦士としての私の本能に警鐘を鳴らしたのです。だからこそ……余計に分からんのです」
戦うつもりなど全くない。敵意もない。
だからこそ、戦士の常識が一切通じない。
ガゼフの分析を聞き、謁見の間の空気はさらに一段階、冷たく重いものへと沈み込んだ。
「……ただ、敵意がないから安全、とは限らないでしょう」
ザナックが、ガゼフの言葉を引き継ぐように厳しい声で言った。
「あれほどの莫大な支援を持ち込みながら、何一つ政治的な見返りを求めない。王の御前で礼を取ることもなく、ただ沈黙を貫く。そして最後になって突然、王国の最高戦力である『青の薔薇』の所在を尋ねた」
ザナックの脳裏に、マヤの無邪気な顔と、あの凍りつくような質問が蘇る。
『死んだときって、どんな感じだったのかなって』
「死の恐怖と痛みを、わざわざ本人から聞き出そうとする。これが単なる好奇心であるはずがない。王国に見切りをつけさせ、戦力を削ぐための高度な心理戦……あるいは、『我々はいつでも貴様らを殺せる』という暗黙の恫喝。そう考えるのが自然です」
「では、ザナックよ。あの者は何故、あのような不可解な問いを?」
ランポッサⅢ世の問いに、ザナックも、ガゼフも、そしてレエブン侯でさえも、明確な答えを返すことができなかった。
情報が足りなすぎる。相手の狙いが「王国の属国化」なのか「武力の排除」なのか、それとも全く別の恐るべき神の如き遊戯なのか。
これほどまでに深淵めいた存在を前に、王国の首脳陣はただ絶望的なまでの疑心暗鬼に囚われていた。
国家の存亡。
次なる一手への警戒。
謁見の間が、胃に穴の空きそうな極限のシリアスに包まれていた、まさにその時である。
「――それより父上」
不意に、極めて明るく、そして場違いなほどに自信に満ちた声が響いた。
第一王子、バルブロである。
彼は腕を組み、ニヤリと傲慢な笑みを浮かべながら一歩前へ出た。
「あの聖女殿、クレマンティーヌと申したか。……なかなか、お美しい方でしたな」
「…………は?」
ザナックの口から、間の抜けた声が漏れた。
「それに、あれほどの支援物資を持参した使節団の代表だ。我が王国への滞在をより良いものとしていただき、さらなる友好関係を築くためにも……機会があれば、私が直々に食事にでもお誘いしてもよろしいでしょう。次期国王たるこの私自らが声をかければ、あちらも悪い気はすまい」
しん、と。
謁見の間に、先ほどまでとは全く質の違う、絶対的な沈黙が降り下りた。
(兄上…………!! 貴方は、狂っているのか!?)
ザナックは両手で顔を覆い、本気で胃を押さえてしゃがみ込みそうになった。
国家の命運を懸けた高度な情報戦。あの得体の知れない赤髪の男の脅威。王国が今まさに飲み込まれようとしている底知れぬ謀略。
その極限の緊張感の中で、この男は――「あの女エロかったから俺が飯に誘ってやるぜ」と、信じられないほどアホな発言をしているのだ。
しかもタチが悪いことに、バルブロ本人には一切の悪意がない。
本気で「自分の男としての魅力と第一王子という権威を使えば、聖女を籠絡でき、それが外交的にも最高のプラスになる」と固く信じ切っているのだ。この国難の真っ只中に、彼の脳内は完全にピンク色のお花畑(バルブロ脳)に支配されていた。
「…………」
ガゼフ・ストロノーフは、何も言えなかった。
数分前まで「あの男は人間としての生存本能が欠落している」と真剣に語り、冷や汗を流して剣にまで手をかけていた王国最強の戦士は、今や完全に虚無の顔になっていた。
極限まで張り詰めていた戦士の緊張感が、あまりの馬鹿馬鹿しさにへし折られ、魂が口から抜けかけている。
「バ、バルブロよ……」
ランポッサⅢ世が、激しい頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
老齢の王は、疲れ切った声で、どうしようもない馬鹿息子を諭すように言った。
「今は……そのような話をしている場合ではない。外交上の礼儀は尽くすが、無闇に波風を立てるでない」
「波風など! 私はただ、王国と聖王国の絆を深めるための布石を――」
「兄上、もうお下がりください。これ以上は王国の恥です」
ザナックが、吐血しそうな顔でバルブロを強制的に黙らせた。
バルブロは不満げに鼻を鳴らし、「これだから前線にも立たぬ軟弱者どもは、真の外交というものが分からんのだ」とブツブツ文句を言いながら引き下がった。
(絶対に、あの聖女に手を出す気だ……誰かあのアホを城の地下牢に繋いでおいてくれ……!)と、ザナックの胃痛はさらに加速していく。
「……ともかく」
ザナックは咳払いをして、無理やり崩壊しかけた会議の空気を元に戻した。
「先ほどの約束通り、青の薔薇のリーダー、ラキュース殿に面会の手配を進めます。……もちろん、彼女たちには、あの赤髪の男が極めて危険な思惑を秘めている可能性があると、十分に警戒するよう言い含めておきましょう」
ザナックの言葉に、ガゼフも無言で深く頷いた。
彼らは自らの優れた頭脳と直感ゆえに、勝手に恐るべき怪物を作り上げ、震え上がっている。