いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
王都リ・エスティーゼの一角。ヤルダバオトの放った炎によって焼け落ち、いまだ瓦礫の撤去すらままならない広大な空き地に、ローブル聖王国から派遣された復興支援使節団の野営陣地が構築されていた。
初夏の生温かい夜風が、焦げた木材の匂いを運んでくる。
その風の中で、陣地は異常なほどの静寂と規律に支配されていた。
外周には、大量の支援物資を運び込んだ数十台の豪奢な馬車が、分厚い城壁のように隙間なく並べられている。その内側には、聖王国の国章が金糸で刺繍された純白の天幕が、計算し尽くされた幾何学的な陣形であっという間に設営されていた。
各所に焚かれた篝火が、夜闇の中に陣地の輪郭を鮮明に浮かび上がらせている。周囲を巡回するのは、最新鋭の銀色に輝くプレートアーマーに身を包んだ屈強な聖騎士たち。彼らの足音は揃い、交わす言葉すら最小限に抑えられ、一切の隙を見せていない。
ゲヘナの惨劇で疲弊しきり、兵士たちの士気も装備もボロボロになっている王国側の人間から見れば、それはただの野営地ではない。小規模な都市の防衛部隊など容易く蹂躙できるであろう、「圧倒的な軍事力の顕現」に等しかった。
遠巻きに陣地を窺う王国の貴族の密偵や警備兵たちは、誰一人として不用意に近づこうとはしない。
その鉄壁の陣地の中央に据えられた、ひときわ大きく、分厚い生地で作られた豪華な天幕。
入り口の前には、特製の魔弓を背負った少女、ネイア・バラハが直立不動で立っていた。彼女の凶悪な三白眼は、揺らめく篝火の光を受けてさらに鋭さを増し、陣地の外から向けられる有象無象の視線を片っ端から射殺さんばかりの剣幕で睨み返している。
「ネイア殿。交代の時刻ですが」
「……結構です。私はここに残ります」
巡回に来た聖騎士の一人が声をかけたが、ネイアは前を向いたまま短く答えた。聖騎士は天幕をチラリと一瞥し、「聖女様とマヤ殿は、王国との今後の折衝について、極秘の戦略会議を行っておられるのですね。承知いたしました。我々も警戒を厳とします」と恭しく一礼して立ち去った。
周囲の兵士たちは皆、そう信じて疑っていない。
だが、現在のネイアの胃の腑は、全く別の理由でキリキリと悲鳴を上げていた。
彼女が入り口から一歩も動かないのは、外からの侵入を防ぐためではない。中の『声』を、絶対に外の兵士たちへ漏らさないためだった。
(……始まった)
分厚い布で遮音された天幕の内側から、微かに、しかし確かな怒気が漏れ聞こえてくる。ネイアは目を閉じ、無意識に胃のあたりを押さえた。
「――おまえやったな! やりやがったな!」
天幕の中では、数十分前まで王の御前で被っていた『聖女』の皮を完全に脱ぎ捨てたクレマンティーヌが、真紅のチャイナドレスを翻してマヤに詰め寄っていた。
「え?」
「え? じゃないんだよ!!」
きょとんとして振り返るマヤの胸ぐらを、クレマンティーヌの両手がガッチリと掴む。そのままの勢いで、マヤの身体が前後に激しく揺さぶられた。
「いいか。途中までは――完璧だった」
クレマンティーヌは、ふう、と荒くなった呼吸を整えるように一度深呼吸をしてから、目の前のマヤの鼻先を指差した。
「支援物資の説明。うん、この時お前は黙っていた。いい!」
指を一本折る。
「王への態度。これも黙っていたな!」
二本目。
「基本的な外交。私がやっていた時も黙っていた!」
三本目。
「自分から余計なことを言わない。そしてお前は黙っていた! うん、よかったよ!」
四本目。
「ネイアも黙っていた! そして私も、完璧にやってた!!」
バッ、とクレマンティーヌは両手を広げ、天を仰ぐように叫んだ。
「マヤ、私はお前が空気を読んでいると、内心めちゃくちゃ喜んでいたさ! 喋らない。口を挟まない。外交を邪魔しない。全部やってたと思っていた! なのにだ!!」
広げた両手が再びマヤの胸ぐらを捕らえ、今度はギリギリと締め上げる。
「なんで一番最後の最後で言った!? なぜそこで耐えられなかった! おかげで私の寿命が三年は縮んだぞ!!」
「いや、だって気になったからさ。あの王様なら知ってるかなって」
「外交にはな! 順序ってもんがあるんだよ!」
激昂し、牙を剥き出しにして怒鳴りつけるクレマンティーヌに対し、マヤは本気で意味が分からないという顔で瞬きをした。
「順序?」
「そうだ! まず王国との関係を作る! 莫大な支援をする! 信頼を得る! その上で『英雄である青の薔薇と面会したい』と公式に申し出る! それから聞け!」
クレマンティーヌは再び指を一本ずつ折りながら、国家間のやり取りにおける基本中の基本を、この規格外のバカの頭に必死に叩き込む。
「あー……」
「分かったか?」
「でも、今聞いてもよくない?」
「よくねぇんだよ!!」
クレマンティーヌが、ドレスの深いスリットから鋭いローキックを放つ。
ドスッ! と鈍い打撃音が天幕の布を震わせ、マヤの脛に容赦のない蹴りが直撃した。並の人間であれば骨が砕け散るほどの威力が込められていたが、マヤは「おっと」と少し体勢を揺らしただけで、表情一つ変えずに平然と立っている。
「はぁ……もうやだ。私がどれだけ完璧に聖女演じても、お前が一言喋るだけで全部ぶち壊しになる……」
まったく痛がる素振りも見せない規格外の肉体を前に、クレマンティーヌは怒る気力すら削がれ、ガクリと項垂れた。そのままふらふらと歩き、近くにあった椅子の背もたれに手をつく。
マヤは彼女の様子を気にする風でもなく、「大袈裟だなー。あの王様たち、そこまで気にしてなかったろ」と的外れ極まりない感想をこぼしながら、天幕の中央に用意された豪奢な椅子にどっかりと腰を下ろした。テーブルの上に用意されていた保温魔法のかかったポットから、自分で勝手に紅茶を注ぐ。
「……まあ」
しばらくして、息を整えたクレマンティーヌが顔を上げ、忌々しそうに舌打ちをした。
「面会の打診までは持っていけたんだから、結果だけ見れば前進したけどさ」
「だろ? 俺の言った通りじゃん」
「だからって、次から同じことすんなよ!? 向こうはあくまで『打診してみる』って言っただけだからな! お前が変な威圧をかけたせいで、王国側は今頃大慌てで会議して面会させるかどうか揉めてるはずだぞ!」
ドヤ顔でティーカップに手を伸ばすマヤに、クレマンティーヌはすかさず鋭い視線で釘を刺した。
「えー、そうか? ま、近いうちにそのラキュースって奴らには会えるんだろ。楽しみだなー」
マヤはワクワクとした子供のような顔で、湯気の立つ紅茶を一口啜った。
「……実際に会えたとして、こいつがまた何を言い出すか……」
クレマンティーヌは再び深いため息をつき、今度こそ両手で頭を抱え込んだ。
その口から漏れたのは、国を背負う聖女のものではなく、ただ純粋に明日からの頭痛を危惧する一人の女としての呻きだった。
その天幕の外。
威風堂々と立ち尽くすネイア・バラハは、手にした魔弓の柄をわずかに強く握りしめた。
背後の天幕からは、未だにクレマンティーヌの叱責と、それに適当に相槌を打つマヤの軽口が微かに漏れ聞こえてくる。
周囲の聖騎士たちは、相変わらず鋭い視線で陣地の外を警戒し、王国の密偵たちを牽制し続けている。その完璧な軍事パレードの中心で、ネイアは一人、ジクジクと痛む胃のあたりをそっと撫でた。
(……聖女様が戻られてから、少し休まれたほうがいいかもしれませんね。私も……胃薬を飲んでおいた方がいいかもしれない……)
誰にも聞こえない声でひっそりと呟き、ネイアは夜の冷たい風の中で、真っ直ぐに前を見据え続けた。