いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
カッツェ平野。
見渡す限り、地平線の彼方まで人間が埋め尽くしている。
リ・エスティーゼ王国の総力を結集した二十五万の軍勢。陽光を反射して煌めく無数の槍先と甲冑は、さながら金属の海であった。兵士たちの吐く息、馬のいななき、そして大軍特有の地鳴りのような足音が、平野の空気をビリビリと震わせている。
対するバハルス帝国軍は、わずか六万。
だが、帝国陣営の最前列に陣取る「それ」を見た瞬間、王国の兵士たちは自らの数の優位など、まったく無意味であると思い知らされた。
漆黒のローブを纏った、巨大な死の体現者。
魔導王、アインズ・ウール・ゴウン。
彼方からでもはっきりと分かるほどの、絶対的な死の気配。その背後には、帝国騎士たちでさえ顔を引き攣らせて距離を取るほどのおぞましいアンデッドの軍団が、微動だにせず立ち並んでいた。
(……怖い。ひたすらに、怖い!)
威風堂々と玉座に腰掛けるアインズの頭蓋骨の中で、鈴木悟の精神は極限のパニック状態にあった。
眼前に広がる二十五万の軍勢など、もはや風景の一部でしかない。彼が恐れているのは、この広大な平野の「どこか」から自らを狙っているかもしれない、未知のプレイヤーの存在だった。
(西にいるという『死の探求者』……! もし奴がこの戦場を監視していて、俺が超位魔法を発動した瞬間の『隙』を狙撃してきたらどうする? 絶対に致命傷を負う! 手札を見せすぎるのは危険極まりない!)
アインズは気づかれないように、ゆっくりと視線を後方へ向けた。
帝国の本陣よりもさらに遠く、戦場を見渡せる小高い丘の上。そこには、アウラとマーレの姿がある。アウラの腕には巻物『山河社稷図』が抱えられ、マーレの両腕にはガントレット『貪欲と無欲』が装着されている。
ナザリックが誇る世界級アイテム(ワールドアイテム)。万が一、未知のプレイヤーが強襲してきた際に、即座に絶対の防衛と反撃を行えるよう、彼らを遠方に伏せさせていた。
(アウラとマーレがいる。防御は完璧だ。だが、俺自身が的になるのは避けたい。手っ取り早く、かつ最も安全にこの戦争を終わらせる……!)
アインズはゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、戦場全体の空気が凍りついた。二十五万の王国兵が、一斉に息を呑む音が聞こえるようだった。
アインズが、一切の詠唱を破棄して無造作に腕を振るう。
放たれたのは第九位階魔法。
超位魔法に比べれば隙は皆無であり、それでいて人間を消し飛ばすには十分すぎる威力を誇る範囲殲滅魔法。
閃光。
そして、遅れて轟音が平野を揺らした。
「――――ッ!?」
王国軍の最前列に陣取っていた一千の兵士たちが、一瞬にして蒸発した。
悲鳴を上げる間もなかった。血肉が弾け飛び、衝撃波が大地をえぐり、土煙が壁のように立ち上る。
わずか数秒の出来事だった。つい先程まで肩を並べていた戦友たちが、巨大なクレーターと共に跡形もなく消え去ったのだ。
パニックすら起きない。
あまりの次元の違いに、残された二十四万九千の兵士たちは、武器を取り落とし、ただカタカタと歯の根を鳴らすことしかできなかった。
だが、アインズの行動はそれだけでは終わらない。
(まだだ! 視界が開けていれば狙撃される!)
アインズがさらなる魔法を起動すると、晴れ渡っていたカッツェ平野の上空に、突如として不自然なまでにどす黒い雲が湧き出した。
太陽の光が完全に遮断され、平野は一瞬にして夜のような暗闇に包まれる。
「な、なんだ……空が……!」
「神よ……!」
絶望に染まる王国軍を前に、アインズは『肉の盾』兼『拡声器』となる存在を召喚した。
大地の亀裂から這い出てきたのは、見上げるほどに巨大な体躯を持つ最高階位の悪魔――『オーバー・デビル(上位悪魔)』だった。
禍々しい角と、闇より深い漆黒の翼。その存在だけで、精神の弱い兵士は泡を吹いて倒れ伏した。
背後の帝国兵たちすら悲鳴を上げそうになる中、ジルクニフだけは冷や汗を流しながらも「このバケモノが味方で良かった……」と心底安堵の息を吐いていた。
オーバー・デビルは、主であるアインズの前に立ち塞がるように陣取ると、平野全体に響き渡るような地獄の底からの声で咆哮した。
『――我が主の御前である!』
空気を震わせる悪魔の声に、王国陣営の最後尾にいたランポッサ王と、彼を護衛する戦士長ガゼフ・ストロノフは、顔面を蒼白にしていた。
『たった今、一千の命が消えた。これが最初の警告である!』
悪魔の口を借りて、アインズの言葉が戦場に降り注ぐ。
『次の一撃は一万を消し飛ばす。その次は、後方に隠れ潜む貴族たちだ。……だが』
アインズは、骨の顔の奥で赤く光る眼窩を細めた。
(頼む! ここまでやったんだ、もう帰ってくれ! これ以上MPも使いたくないし、正体不明のプレイヤーに監視されてるかもしれない状況で目立ちたくないんだ!)
『今、剣を収めて退くというのなら、本当の慈悲をやろう』
オーバー・デビルが、嘲るように言葉を続ける。
『王よ! いつまで戦士の背に隠れているつもりだ? 自ら前に出よ! さもなくば、今ここで無益な死の山を築くのみ!』
この悪魔の煽りは、王国の致命的な弱点を突いた。
「お、王よ! 戦士長を盾にするおつもりか!?」
「我々貴族まで巻き添えにする気ですか!」
「このままでは全滅だ!」
パニックに陥った貴族たちが、一斉にランポッサ王を糾弾し始めた。
ガゼフが「お待ちくだされ、私が前に出ます!」と庇おうとしたが、すでに遅かった。悪魔に「戦士を盾にする国を思わぬ王」と指摘された以上、ここでガゼフを出せば、王は完全に貴族たちの支持を失い、国は内部から崩壊する。
ランポッサ王は、震える足で一歩、前へと出た。
老いた王の目には、圧倒的な戦力差と、戦う前から完全に瓦解してしまった自軍の惨状が映っていた。
『さあ、選ぶがいい。退くのか? 続けるのか? 無益に戦うか?』
絶対者の威圧。
それはランポッサ王の心を完全にへし折るのに、十分すぎる最後の一撃だった。
「……わかった」
絞り出すような、掠れた声だった。
「我々の、敗北だ……。エ・ランテルは、引き渡そう……」
その言葉が響いた瞬間、帝国軍からは地鳴りのような歓声が上がり、王国軍は安堵と屈辱の入り交じった涙を流してその場に崩れ落ちた。
一方、その光景をアインズの傍らで見ていたデミウルゴスは、中指で眼鏡を押し上げながら、感涙にむせんでいた。
(おお……おおおっ! なんという……なんという深謀遠慮……!)
デミウルゴスの優れた頭脳は、アインズの行動の『真意』を完璧に理解していた。
(一瞬で全滅させる力がありながら、あえて一千の犠牲に留められた。それは慈悲などではない! 西の『死の探求者』が、このカッツェ平野の二十五万の死体を即座にアンデッド化し、我々にぶつけてくる可能性を考慮されたのだ!)
(敵に万単位の強力な素材を与えぬよう、あえて生かして帰し、同時に精神的な屈服を強いて領土を奪う。これぞまさに、至高の御方のみが描ける盤面支配……!)
「さすがでございます、アインズ様……」
「ん? あ、ああ……。デミウルゴス、撤収の指示を頼む」
(よし、帰ってくれた! これで西のプレイヤーの目を気にしなくて済むぞ!)
アインズは内心でガッツポーズを決めながら、鷹揚に頷いた。
かくして、世界を揺るがす特大の戦争は、魔導王の理不尽なまでの恐怖と、たった一千の犠牲という奇妙な傷跡を残し、終結した。
*
それから数日後。
リ・エスティーゼ王国の王都、とある高級宿屋の一室。
「エ・ランテルが正式に明け渡された、か」
筋骨隆々の女戦士ガガーランが、テーブルの上に足を投げ出しながら、ふんと鼻を鳴らした。
「ま、当然の結果だな。あんなデタラメな化け物、真っ向からやり合って勝てるわけがねぇ。一千の犠牲で国が残っただけ、御の字ってもんだろ」
「全くだ。空を黒く染めて、悪魔を呼び出すなんて……人間がどうにかできる領域じゃない」
「王様も、よくあそこで引く決断をしたよねぇ」
双子の忍者、ティアとティナが同意するように深く頷く。
犠牲者が最小限で済んだとはいえ、未知の魔王に対する拭い去れない恐怖が、王都全体に濃い影を落としていた。
「それで? アタシらはこれからどうするんだ?」
ガガーランが、部屋の窓際に立つリーダーのラキュースへと視線を向けた。
「エ・ランテルがアンデッドの国になるんじゃ、あそこに居座る義理もねーな。どうせギルドの仕事も回らなくなる」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
小柄な仮面の魔法詠唱者、イビルアイが身を乗り出した。
「モモン様はどうなるの!? あの方はずっとエ・ランテルを拠点にしてるんだぞ! あんな魔王に支配された都市で、一人で戦い続けるおつもりなのか……っ! 私はエ・ランテルに行く! モモン様をお助けしなければ!」
「おめーは本当にそれしか頭にねーのか」
ガガーランが呆れたようにため息をつく。
「あの人はアダマンタイト級の英雄だぞ。自分から無駄に首を突っ込むバカじゃねぇよ。それより、問題はアタシら『青の薔薇』の身の振り方だ」
イビルアイが「ぐぬぬ」と唸りながらも引き下がると、部屋に再び沈黙が落ちた。
東に誕生した、理不尽な死をばら撒く魔導国。その絶対的な恐怖を前にして、王国はただ怯えることしかできない。
「……西、かな」
不意に、ラキュースがぽつりと呟いた。
「西?」
「ええ。ローブル聖王国へ行ってみようと思うの。あそこは亜人との戦いを終わらせて、今、黄金期を迎えているわ。それに……」
「おやぁ?」
ガガーランが、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべて身を乗り出した。
「聖王国の視察、ねぇ。あっちにはいるじゃねーか。蘇生の話で散々アタシらを引っ掻き回した挙句、お前のこと『いい女だな』なんて褒めやがった、あの変な男がよ」
ラキュースの白い頬が、みるみると朱に染まった。
「ち、違うわよ! 個人的な感情なんて一切ないわ!」
「はいはい。顔真っ赤にして言うセリフじゃねーな」
「だからからかわないでよガガーラン!」
抗議するラキュースを見て、ティアとティナがくすくすと笑い声を漏らす。
だが、ラキュースはすぐに表情を引き締め、窓の外の西の空を見つめた。
「……でも、彼なら。何か知っているかもしれないと思ったのよ」
ラキュースの脳裏に浮かぶのは、圧倒的な恐怖を振りまいた『東の魔王』の威容。
そして、それとは対極にある、あの天幕での不器用な男の言葉だった。
――『誰だって、愛する物を失えば笑顔がなくなる』
――『聖女を守るためにも、絶対にさせたくねーなっていうのが本音だ』
東の魔王が「死の恐怖」で他者を支配する存在だとするなら。
あの男は、果てしない死線を潜り抜け、命と喪失の重さを誰よりも理解しながら、ただ「大切な者の笑顔」のためだけに在ろうとする存在だった。
(あの不器用な底知れなさは……あるいは、あの東の理不尽に対抗する何かなのではないか……?)
もちろん、ただの偶然かもしれない。
それでも、この暗闇に包まれた王国において、ラキュースにとってあの時の男の真っ直ぐな瞳だけが、妙に鮮烈な光として胸に焼き付いていたのだ。
「ま、いいんじゃねーの。アタシも、あいつがただのバカじゃないってことくらいは分かってるしな」
「私も賛成。あの時、なんだかんだで本質を突かれてたしね」
ガガーランとティアが同意し、ティナも続く。
「ちょっと! なんでそんな男のために私たちが西に行かなきゃいけないのよ! 私はモモン様のところへ――!」
「はいはい、お前は少し頭冷やしてこい。多数決で聖王国行き決定だ」
ジタバタと暴れるイビルアイの首根っこをガガーランが掴み上げる。
重苦しかった部屋の空気が、かつての冒険者らしい軽快さを取り戻していた。
壮大な世界の変化や、大国の思惑など知る由もなく。
ただ、東の絶望から目を背けず、西にいる不器用な男への微かな期待を胸に秘め、青の薔薇は新たな旅路へと足を踏み出し始めていた。