いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
石畳の路地裏には、冷たい日陰の空気が淀んでいた。
大通りを通り過ぎていった白銀の鎧の集団――スレイン法国の特務部隊が放っていた威圧感の余韻が、まだ微かに周囲に残っている。
「……人の心を捻じ曲げる装備?」
「ああ。絶対服従の洗脳だ。どんな強者だろうと、あれを使われれば終わる」
壁に寄りかかったまま、クレマンティーヌは自嘲気味に息を吐き出した。法国の奥底に眠る、御使いの遺物。人の意思を完全に奪い去り、ただの操り人形へと変えてしまう極悪非道な代物。
それを聞いたマヤは、路地裏の壁からスッと背中を離し、首をコキリと鳴らした。
「そりゃ、危ないな。そんな物騒なもん、人間の国に置いとくのは良くないだろ」
まるで「道端に危ない石が落ちている」とでも言うような、あまりにも軽いトーンだった。
クレマンティーヌは眉をひそめる。
「……は?」
「どうせ服も買ったし、時間あるだろ。ちょっとそれ、回収しに行こうぜ」
静寂。
路地裏を吹き抜ける風の音だけが、クレマンティーヌの耳に届く。
彼女の思考は数秒間完全に停止し、マヤが何を言ったのかを脳が理解するまでに、さらに数秒を要した。
「…………ちょっと待てよ、馬鹿!!」
堪えきれなくなった彼女の叫びが、狭い路地に響いた。
クレマンティーヌは血相を変えてマヤの胸倉……は新しい服で覆われているため、その真新しい襟元を乱暴に掴み上げた。
「私たち、会ってまだ一日だぞ!?」
「ん?」
「昨日の夜に森で出会って、お前が服がないからって、今日街へ買いに来たばっかりだろ! なんで出会って一日目の奴と、このスレイン法国の国宝を盗む話になってるんだよ!!」
彼女の叫びは、至極真っ当だった。
国宝を盗む。しかも相手は、周辺諸国の中でも最強の軍事力と暗躍部隊を誇るスレイン法国。失敗すれば文字通り魂まで引き裂かれるような拷問が待っているし、成功したとしても一生涯、刺客に追われ続けることになる。
そんな常軌を逸した犯罪計画を、「時間があるから」という散歩のついでみたいなノリで提案してくる男の頭の構造が、彼女には全く理解できなかった。
しかし、襟元を掴まれたマヤは、不思議そうに瞬きをしただけだった。
「え? もう仲いいじゃん」
きょとんとした顔で、マヤは当然のことのように言い放った。
「な……っ」
「だって、昨日焚き火も一緒に囲んだし。お前の手、俺が温めたろ? それに今日一緒に飯も食って、服まで見繕ってくれたじゃないか。それだけ一緒にいれば、もう仲間だろ?」
クレマンティーヌは、掴んでいた彼の手を徐々に緩め、ポカンと口を開けた。
(こいつ……日数とか、関係ないんだ……)
普通、仲間や相棒というものは、何ヶ月、何年という時間をかけて信頼を築き上げていくものだ。
しかし、この男の基準は違う。
悲しんでいるところを見た。その手を温めた。一緒に飯を食い、服を選び、呆れながらも並んで歩いた。その「経験」があれば、彼にとってはもう十分に「仲間」なのだ。
彼女がいままで生きてきた血で血を洗う暗部の世界には、そんな甘い尺度を持つ人間は一人もいなかった。
「お前は自分の国が嫌なんだろ。なら、別にそこのもん持ち出したっていいじゃん」
「いや……待て。待てって」
クレマンティーヌは頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
マヤの言葉に絆されそうになる自分がいる。だが、彼女はまだ「漆黒聖典」の第九席次なのだ。組織から逃げ出したいという苛立ちは常に抱えていたが、それはあくまで鬱屈とした不満であって、国に決定的な反逆を企てる覚悟が決まっていたわけではない。
国宝を盗めば、もう二度と元には戻れない。完全に、そして永遠に国と決別することになる。
「あれは……法国の国宝だぞ。私がそんなものを盗んだら、本当に国中を敵に回すことになる」
葛藤。
それは「善人だから盗みをしたくない」という良心の呵責ではなく、自分がこれまで築き上げてきた立場や、恐るべき強者たちが集う組織への本能的な恐怖だった。
「でも、危ないよ。あれ」
マヤはしゃがみ込んだ彼女を見下ろし、極めて真面目な声で言った。
「人の心を強制的に支配するんだろ。だったら、誰かに使われる前に持ってたほうがいいじゃん。危ないものは、使えないようにしまっておくのが一番だ」
「それはそうかもしれないけど……!」
「わかったわかった。じゃあ、さっき奴らが向かった場所、お前ならわかるよね? ちょっと行って、借りてこよう? な?」
「……は?」
「盗むんじゃない。借りるだけだ。俺たちが預かっておくんだよ」
「屁理屈にもなってないだろ……!」
クレマンティーヌは顔を上げて睨みつけたが、マヤの目は本気だった。
彼にとっては「法国の国宝を盗む」という国家への反逆罪よりも、「人の心を強制的に支配する危険物を放置しておく」ことの方がよほど大きな問題なのだ。
その真っ直ぐな価値観の優先順位を見せつけられ、クレマンティーヌの中で張り詰めていた組織への忠誠の糸が、プツリと音を立てて切れるのを感じた。
「……で? どうやって盗むんだよ」
「え?」
「どうやって盗むのかって聞いてるんだよ! 厳重な警備が敷かれてるんだぞ!」
「知らん」
即答だった。
「…………は?」
「俺この街のこと知らないし。どこに置いてあるかもわかんない。詳しい奴に聞けばいいだろ?」
「私しかいねぇよ!! なんで言い出しっぺがお手上げなんだよ!!」
クレマンティーヌは激しく立ち上がり、マヤのすねを思い切り蹴り飛ばした。全く効いていないようだが、彼女の苛立ちは頂点に達していた。
もうどうにでもなれ、という破れかぶれの感情が胸を支配する。
「あー……もう! わかったよ! 私の案内通りに動けよ。少し暗くなったら動くからな!」
「お、頼りになるねぇ」
呆れる彼女をよそに、マヤは能天気に笑った。
夜になり、寝静まった頃に影が動いた。
翌朝――。
街道を抜け、エ・ランテル方面に広がる深い森の中。
木漏れ日が差し込む開けた場所で、クレマンティーヌは呆然と地面に座り込んでいた。
「……嘘でしょ。案外簡単にいけたね」
彼女の目の前には、無造作に置かれた風呂敷包みがある。
昨夜の潜入は、彼女の暗部としての経験からしても異常だった。マヤの規格外の気配察知能力によって、警備の兵たちの視線も、巡回のタイミングも、すべてが手に取るようにわかった。戦闘など一度も起こらず、まるで夜の散歩でもするかのように目的の場所にたどり着き、あっさりと包みを持ち出してしまったのだ。
あれほど恐れていた法国の警備網が、この男の前ではただの薄い紙切れのようだった。
マヤは手早く枯れ枝を集め、一昨日の夜と同じように手慣れた動作で焚き火を起こしていた。
パチパチと火が跳ねる音を聞きながら、マヤが風呂敷包みに目をやる。
「で、それがそのヤバい国宝ってやつ?」
「……ああ。御使いが残したと言われる、精神支配の遺物。傾城傾国だ」
クレマンティーヌは慎重な手つきで風呂敷の結び目を解いた。
中から現れたのは、呪われた恐ろしいアーティファクトなどではなく――。
「なんだこれ、服だったのか!」
マヤが目を丸くして身を乗り出した。
そこに折り畳まれていたのは、豪奢な金糸で刺繍が施された、スリットの深い艶やかなチャイナドレスだった。
国宝というからには王冠や杖、あるいは禍々しい宝玉のようなものを想像していたマヤにとって、それは完全に予想外の代物だった。
「ただの服じゃん。……あ、でもこれ、俺が着たらめちゃくちゃキモいだろ?」
マヤは自分の着ている無地の旅服と、その豪奢なドレスを見比べて顔をしかめた。
「クレマン、お前着なよ」
「なっ!?」
クレマンティーヌは弾かれたように風呂敷から手を離した。
「お前、馬鹿か!? これ、仮にも法国の国宝だぞ! 精神を支配する世界最高の宝を、なんで私が普段着みたいに着なきゃいけないんだよ!」
「いや、でもそれ服だろ? 持ち歩くのも荷物になるし、服なら着ておくのが一番安全じゃん。誰かに盗まれる心配もないし」
「そういう問題じゃない!」
「それに、お前のその黒い服より、絶対似合うと思うけどな」
マヤは焚き火の枝を弄りながら、何のてらいもなく言った。
その言葉に、クレマンティーヌは口をパクパクと動かしたが、反論が出てこない。
しばらくマヤの顔とチャイナドレスを交互に睨みつけていたが、やがて彼女は深い深いため息をつき、風呂敷ごとドレスをひったくった。
「……はぁ〜、もうわかったよ。着ればいいんだろ、着れば! あっち向いてろ!」
彼女は森の茂みの奥へと姿を消した。
数分後、カサカサと葉を揺らす音がして、クレマンティーヌが姿を現した。
彼女が身に纏っていたのは、漆黒の暗殺者の装束ではなく、身体のラインにしなやかにフィットする真紅のチャイナドレスだった。両脇の深いスリットからは白く引き締まった脚が覗き、金糸の刺繍が朝の光を反射して微かに輝いている。
マヤは焚き火から顔を上げ、目を瞬かせた。
「おー……似合ってるじゃん。凄くいいよ」
「っ……!」
「チャイナドレスなんだね。布地もしっかりしてるし、これなら足も高く上がるから戦闘にもいけるじゃん。いいもの手に入れたな」
マヤは心底感心したように頷いた。下心やからかいの色は一切なく、ただ純粋に「良い服だ」と褒めているのがわかる。
「ただ、その能力は使うなよ? 約束だぞ」
「……」
クレマンティーヌは顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。
(似合ってる、か……)
褒められたことなど、いつ以来だろうか。
暗部として強さだけを求められ、人を殺すことだけを評価されてきた。女としての身なりなど気にしたこともなかった彼女にとって、その無自覚な賞賛は、どんな強力な魔法よりも胸の奥を激しく掻き乱した。
「いや、だから褒める場所が違うんだよ……!」
照れ隠しで怒鳴りつけた瞬間、クレマンティーヌの脳裏に、ふと冷や水のような現実がぶっかけられた。
(……私、今、何を着てる?)
法国の国宝。人類の危機を救うための最終兵器。
それを、自分は今、見ず知らずの(しかも会って一日目の)男に言われるがまま盗み出し、あろうことか私服として身に纏っているのだ。
「あ……」
急速に顔から血の気が引いていくのがわかった。
心臓が早鐘のように打ち始める。
「どうした? 腹でも痛いのか?」
「……もうこれで、私に本格的な追手がかかるよ。ただの脱走じゃない。国宝の窃盗だ。漆黒聖典が、いや、法国の全戦力が私を殺しに来る……」
クレマンティーヌはその場にへたり込んだ。
震える手でドレスの裾を強く握りしめる。
組織から逃れたいという苛立ちはあった。しかし、こんな取り返しのつかない形で故郷を捨てるつもりはなかった。自分はなんて馬鹿なことをしてしまったのだ。取り返しのつかないことをした。もうどこにも、自分の居場所なんてない。
絶望と後悔が波のように押し寄せ、彼女の視界が歪んだ。
自分がどれほどの罪を犯したのか、その重さに押し潰されそうになった時だった。
「クレマン」
静かで、しかし確かな重みを持った声が降ってきた。
顔を上げると、マヤが焚き火越しに彼女を真っ直ぐに見つめていた。
普段の飄々とした態度は鳴りを潜め、そこには圧倒的な強者としての、そして何かを深く知る者としての静謐さがあった。
「お前は、よくやったよ」
その一言が、彼女の胸の奥深くにストンと落ちた。
「それは、人が扱っていいものじゃない。誰かの心を強制的に捻じ曲げて、思い通りに操る。そんなものは、どんな理由があろうと絶対にあってはならない代物だ」
マヤの言葉には、どこか悲痛な響きが混じっていた。
彼が過去に何を見て、何を失ってきたのか。クレマンティーヌには知る由もない。だが、その言葉が、血を吐くような実感を伴っていることだけは理解できた。
「お前が持ち出したことで、その気持ち悪い力に縛られる奴が一人減った。だから、お前のやったことは間違ってない」
「マヤ……」
「だから、能力は絶対使うなよ? それはただの服だ」
マヤは立ち上がり、彼女のそばまで歩いてくると、ポンと軽くその頭に手を置いた。
「追手が怖いのか?」
「……当たり前だろ。法国の連中がどれだけ恐ろしいか、お前は知らないから……」
「一緒にいれば、大丈夫だろ? な?」
震える声で俯く彼女に、マヤは事も無げに笑いかけた。
その笑顔を見た瞬間、クレマンティーヌの中で渦巻いていた恐怖が、嘘のように霧散していくのを感じた。
そうだ。
この男は、自分の手を温め、一緒に服を買い、そして恐るべき法国の警備網をピクニックのように抜け切ってしまった規格外の怪物なのだ。
漆黒聖典がどれほど恐ろしくても、この男が隣にいれば、きっとどうにかなってしまう。
いや、どうにかしてくれなくてもいい。この温かい手があるのなら、もうどこへだって行ける。
クレマンティーヌは顔を上げ、不器用に口角を上げた。
かつての狂気に満ちた笑みではない。等身大の、ただの少女としての悪態。
「……ふん。せいぜい私の盾としてしっかり働けよ、ヒモ男」
「おー、任せとけ。その代わり、道案内は頼むぞ」
木漏れ日が、紅いドレスと新しい旅服を纏った二人を照らす。
スレイン法国を捨てた元・暗殺者と、すべてを知らない最強の迷子。
二人は並んで立ち上がり、宛てのない新たな居場所を探すための、一歩を踏み出した。