いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
バハルス帝国の帝城、その最奥に位置する豪奢な執務室。
煌びやかなシャンデリアが部屋を照らし、卓上に置かれた最高級の赤ワインが、クリスタルグラスの中でルビーのように揺れていた。
カッツェ平野での「戦争」から帰還した直後。
本来ならば、未知のアンデッドを味方に引き入れたことへの不安や、国家の存亡を懸けた重圧が部屋に立ち込めているはずだった。
しかし、現在の執務室を支配しているのは、酷く弛緩した空気と、一部の貴族たちによる能天気な笑い声だった。
「いやはや、陛下。まさかあそこまで上手く事が運ぶとは!」
「全くだ。あの魔導王殿も、なかなかハッタリの効くお方ですな。一千人ほどの被害を出しただけで王国軍が恐れをなして崩壊するとは……王国もすっかり腰抜けの集まりに成り下がったものです」
「これでエ・ランテルを削り取れるのですから、完全に我々帝国の、いや、陛下の外交の勝利ですな。魔導王を矢面に立たせ、我々は無傷で利益を得る。素晴らしい采配でございます」
高価なグラスを傾けながら、見当外れな称賛を口にする側近たち。
その顔には、大国の軍勢が背を向けて逃げ出したことへの優越感と、「自分たちは安全圏にいる」という絶対的な思い上がりがあった。
「…………」
執務机に深く腰掛けていた鮮血帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは、無言のままグラスを見つめていた。
前髪をかき上げ、ゆっくりと立ち上がった若き皇帝は、次の瞬間、手にしたグラスを大理石の床に力任せに叩きつけた。
ガシャンッ!!
鋭い破砕音が響き、赤いワインが血のように飛び散る。
側近たちの笑い声が、一瞬にして凍りついた。
「馬鹿か、お前たちは……ッ!」
ジルクニフの口から漏れたのは、低く、しかし明確な怒りと恐怖が入り交じった叱咤だった。
側近たちが顔を引き攣らせ、慌てて膝をつく。
「へ、陛下……! 何か我々に失態が……」
「何も分かっていない! 貴様ら、あのカッツェ平野で一体何を見ていた!? 魔導王殿のハッタリだと!? 王国が腰抜けだとう!?」
ジルクニフは血走った目で側近たちを睨みつけた。
彼の脳裏には、カッツェ平野で起きたあの惨劇が、あるいは惨劇になるはずだった絶望の光景が、いまだに鮮明に焼き付いている。
「空を一瞬にして黒く染め上げる雲! 山のように巨大な悪魔! そして……たった一振りの腕の動きで、一千人の人間を文字通り『蒸発』させたあの魔法……! あれ以上の被害を出してみろ! 貴様らとて、王国兵と同じようにその場で泡を吹いて発狂していたはずだ!」
怒鳴り声が部屋を震わせる。
側近たちは震え上がり、返す言葉もない。
「あの御方は何と言っていた!? 『次は一万だ』と宣告したのだぞ! あの力があれば、二十五万の王国軍など、そして我々六万の帝国軍すらも、瞬きする間にカッツェ平野ごと更地にできた! にもかかわらず……あの御方は、その圧倒的な力をあえて押し留められたのだ!」
ジルクニフは肩で息をしながら、両手で顔を覆った。
「無益な死の山を築くことを良しとせず、最小限の犠牲で敵を屈服させる……。強者でありながら、我々にも無用な恐怖を抱かせないための慈悲。あのような御方が、我々を庇護してくださるのだぞ……! 魔導王アインズ・ウール・ゴウン……なんという、なんという素晴らしい御方だ……!」
その声には、もはや恐怖や策謀の欠片もなかった。
あるのは、国家の危機を救ってくれた絶対者に対する、純粋なまでの心酔と畏敬。
ジルクニフの気迫に当てられた側近たちは、ただ平伏し、己の浅はかさを恥じるしかなかった。
「……下がれ。私は一人になりたい。それと、フルーダをここに呼べ」
静まり返った声で命令を下すと、側近たちは逃げるように部屋から退出していった。
数分後。静寂を取り戻した執務室に、長い白髭を蓄えた帝国の最高位魔法詠唱者、フルーダ・パラダインが静かに足を踏み入れた。
「お呼びでございましょうか、陛下」
恭しく頭を下げるフルーダ。
彼は内心で冷や汗を流していた。アインズの圧倒的な力を目の当たりにしたジルクニフが、ついに自分を「帝国を魔導王に売り渡した裏切り者」として断罪するのではないかと警戒していたのだ。
しかし、ジルクニフは机から離れると、ゆっくりとフルーダの前に歩み寄り、なんと皇帝である彼自身が、深く、深々と頭を下げたのだ。
「……陛下!? な、何を……」
「爺よ。いや、フルーダよ……私は、お前を疑っていた。帝国の未来を売り渡し、アインズ殿の力に屈した裏切り者だとな」
フルーダの心臓が大きく跳ねる。
(やはり……! ここで粛清されるか……!?)
しかし、ジルクニフの口から紡がれたのは、フルーダの予想を遥かに超える言葉だった。
「だが、今回のカッツェ平野の件で、お前の真意がすべて分かった。お前は……いち早く気づいていたのだな。西の『死の探求者』という、王国と聖王国を裏で操る強大な闇の勢力に……!」
「……は?」
フルーダの頭の中に、特大の疑問符が浮かんだ。
西? 死の探求者? 一体何の話をしているのだろうか。
「このままでは、帝国が王国と聖王国の手によってすり潰される。お前はそう予見していた。だからこそ、自ら悪役となって泥を被り、あの慈悲深きアインズ殿の庇護下に入るよう、私を必死に誘導してくれたのだな……!」
ジルクニフは顔を上げ、感涙に濡れた瞳でフルーダの両手を固く握りしめた。
「お前の命を懸けた忠義、決して忘れはしないぞ! 帝国の真の救世主はお前だ、爺……!」
「あ、ええと……」
フルーダは完全に思考が停止していた。
西の死の探求者などという存在は、魔法の深淵を覗くことしか頭にない彼にとって全くの初耳である。
しかし、数秒の沈黙の後、フルーダの優れた(そして偏った)頭脳は一つの結論を導き出した。
(ははぁ……なるほど。これもすべて、我が師たるアインズ様の深遠なる御考えの一環に違いない。師は、私が帝国での立場を失わぬよう、陛下に何らかの術をかけられたのだな。なんというお心遣い……!)
完全にベクトルが真逆の神解釈を構築したフルーダは、一つ咳払いをすると、厳かな表情を作って深く頷いた。
「……お気づきになられましたか、陛下。すべては、帝国の安寧のためでございます」
「ああ! アインズ殿は本当に素晴らしい御方だ! おかげで帝国は救われたのだ!」
誰も真実を知らない。誰も損をしない。
魔導王への盲目的な心酔と、互いの勘違いが奇跡的な噛み合いを見せ、バハルス帝国はかつてないほどの幸福感に包まれていた。
*
同刻。
東の恐怖の中心地である、ナザリック地下大墳墓。
その最深部に位置する荘厳なる『玉座の間』には、張り詰めた静寂が漂っていた。
玉座に深々と腰を下ろす、絶対的支配者アインズ・ウール・ゴウン。
彼の御前には、純白のドレスを纏った守護者統括アルベドをはじめ、各階層守護者、そして戦闘メイドであるプレアデスの面々が総出で平伏している。
絶対の忠誠と畏怖。
だが、その威風堂々たる魔王の頭蓋骨の中では、鈴木悟の精神が歓喜の悲鳴を上げていた。
(よかったあああああああッッッ!!)
アインズは内心で、見えない涙を滝のように流しながらガッツポーズをキメていた。
(結局、西からの狙撃は無かった! やっぱりアウラとマーレにワールドアイテムを持たせて後方待機させたのが効いたのか!? それともあの黒い雲で視界を遮ったのが正解だった!? とにかく、手札を見せすぎずに帰ってこれて本当によかった……!)
一歩間違えれば、未知のプレイヤー(マヤ)からの致命的な一撃を喰らっていたかもしれない。その極限のパラノイアから解放されたアインズは、骨の身体でなければその場にへたり込んでいたかもしれないほど安堵していた。
「……見事な手腕でございました、アインズ様」
静寂を破り、デミウルゴスが恭しく頭を下げた。
中指で眼鏡を押し上げる彼の顔には、至高の主に対する底なしの敬意が浮かんでいる。
「西の『死の探求者』が、なぜこのカッツェ平野の戦いに介入してこなかったのか……その理由、このデミウルゴスにははっきりと理解できました」
ビクッ、とアインズの肩が僅かに揺れた。
(えっ、理由? なに? デミウルゴス、お前何か分かったの!?)
「アインズ様はあえて、一瞬で殲滅できる王国軍の被害を一千人に留めるという『余裕』を見せつけました。さらに、我ら守護者を後方に控えさせ、死角のない完璧な防陣を敷かれた。これを見た西の化け物は、アインズ様の底知れぬ力と完璧な盤面支配に完全に恐れをなし、手出しを諦めたのです!」
「……っ!」
「奴がアインズ様の威光に萎縮し、聖王国に引きこもっている以上、今我々から無用な手出しをする必要はありません。西は一旦放置し、まずはエ・ランテルを拠点として、魔導国の地盤を固めることに注力するべきかと。すべては、アインズ様の深謀遠慮の賜物でございます!」
デミウルゴスの完璧な報告に、他の守護者たちも「おお……」「さすがはアインズ様……!」と感嘆の声を漏らす。
(いや……恐れをなしてビビってたのは、完全に俺の方なんだけど!?)
アインズは内心で激しくツッコミを入れながらも、威厳を保つためにゆっくりと頷いた。
「う、うむ。……その通りだ、デミウルゴス。お前の言う通り、西は当面放置する。余計な刺激は与えず、まずは我々の国を盤石にすることが先決だ」
「はっ! 御意のままに!」
(よし、これで西のプレイヤーと無理に戦わなくて済む理由ができた! ありがとうデミウルゴス!)
結果的に、アインズのビビりはナザリックの「西への不可侵」を決定づけ、聖王国の絶対的な安全を保証することになったのだった。
「さて、アインズ様。建国に際して、我々の国の名前をどのようにお考えでしょうか?」
デミウルゴスの問いに、アインズはふっと息を吐いた。
(そんなの、生き残ることに必死で考える余裕なんてなかったよ……)
「ふむ。この戦いは、お前たちの支えあってこそのものだ。どうだ、国名はお前たちで決めてみては?」
「な……っ!」
アインズの何気ない提案に、玉座の間に衝撃が走った。
デミウルゴスが感極まったように震える。
「なんたるお言葉……! 我々が、至高の御方々の築き上げる新たな国の名を決めるという、そのような栄誉を賜れるとは……最上の極みでございます!」
「さて、諸君! 慈悲深き主の期待に応えるべく、どういった名前が良いか、最高の案を出し合おうではないか!」
デミウルゴスの号令で、守護者たちが一斉に顔を上げた。
私は『アインズ・ウール・ゴウン魔導絶対王国』が良いでありんす!」
「ええっ、シャルティア、長すぎるよぉ。もっとかっこよく『至高なる死の帝国』とかはどうかな?」
「いやいやアウラ、ここはシンプルに『アインズ様万歳国』でしょ!」
「マーレ、それは流石に直球すぎないか? 私は『絶対凍土・武闘国』を推すぞ」
わちゃわちゃと案を出し合って議論を白熱させる階層守護者たち。
その時、「ふふ、貴方たち、少し静かにしなさいな」と、それまで微笑ましく見守っていたアルベドが一歩前へと進み出た。
彼女はうっとりとした、しかし極めて真摯な顔つきで至高の主を見上げる。
「アインズ様は、この世界のあらゆる魔を導き、統べる絶対の御方。……『魔を導く王』、すなわち『魔導王』などはいかがでしょうか?」
「おお……!」
アルベドの美しく的確な提案に、他の守護者たちも深く頷き、感嘆の声を上げる。
玉座からその光景を見下ろしていたアインズは、ふっと眼窩の奥の赤い光を和らげた。
(……この光景、なんだか懐かしいな)
西のプレイヤーに恐れをなして選んだ道。
だが、その結果として生まれたこの光景は、かつてユグドラシルでギルドの方針を決める際、仲間たちが夜通し笑い合っていたあの時間を思い起こさせた。
ペロロンチーノがふざけた案を出し、ぶくぶく茶釜が突っ込み、たっち・みーが真面目にまとめる。
その幻視が、アインズの心に温かいノスタルジーを呼び起こす。
アインズは静かに立ち上がった。
その動き一つで、守護者たちの喧騒がピタリと止む。
アインズは慈愛すら感じさせる態度でゆっくりと頷くと、
「素晴らしい提案だ、アルベド。――我が国は『アインズ・ウール・ゴウン魔導国』を宣言する!。」
骸骨の顔の奥で、赤い光を鋭く、誇り高くキラーンと輝かせた。
静かで、絶対的な声が玉座の間に響き渡る。
その宣言に対し、玉座の間の全員が深く首を垂れ、一斉に唱和した。
東の地に誕生した強大なる魔導国。その裏に潜む巨大なすれ違いなど知る由もなく、世界は新たな時代へとその針を大きく進めたのだった。