いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
先ほどまでバルコニーを支配していた、空間そのものを凍りつかせるような修羅の気配は、すでにどこにもなかった。
ローブル聖王国の王都ホーバンス。高く澄み渡る青空からは柔らかな陽光が降り注ぎ、白亜のテラスには心地よい風が吹き抜けている。
テーブルに用意された極上の茶葉がふわりと香りを漂わせ、色とりどりの焼き菓子が並ぶ光景は、絵画のように優雅な午後のティータイムそのものだった。
唯一、その美しい情景にそぐわない異物があるとすれば、床の端っこで白目を剥いて失神している初老の男——剥き出しのインナースーツ姿で転がるアズス・アインドラの存在くらいである。
「そういやさっきさ」
サクッ、とマヤが手元のクッキーを齧りながら、ふと思い出したように口を開いた。
「東の国……あれだ。クレマンと飯食った街のところ」
「ん? ああ、エ・ランテルかい? あんたに初めて飯を奢ったところだね」
聖女のふわりとした純白のドレスを身に纏うクレマンティーヌが、くすくすと笑いながら紅茶のカップを傾ける。マヤにとって、国名や政治的な境界線などどうでもいい情報なのだ。彼の中では『エ・ランテル=嫁と美味いものを食べた場所』という認識しかない。
「そうそう、そこ。さっき、あっちの方向からなんか見られてる気配があったからさ。とりあえず断ち切っておいたよ」
「へえ、それがどうしたのさ?」
「いや、だからもう平気だってこと。ま、いつかあっちに行ったら文句の一つでも言ってやろうぜ」
事もなげに言ったマヤの言葉に、バルコニーで茶を囲んでいた面々の動きが、ピタリと静止した。
エ・ランテル。
それは現在、世界を震撼させているアンデッドの王が統べる絶対的脅威——『魔導国』の首都である。
「ま、マヤさん……!? それはつまり……魔導王によって、我が国の内政を見られていたということですか!?」
聖王女カルカが、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。その美しい顔は青ざめ、声には明確な焦燥が混じっている。
隣に座る神官長ケラルトも、額に冷や汗を滲ませながら居住まいを正した。魔導国からの魔法的監視。それが事実ならば、国家間の重大な危機に他ならない。
しかし、当のマヤは呆然とする聖王国のトップたちを他所に、首を傾げてクッキーの欠片を口に放り込んだ。
「うーーん……。内政とかそんな小難しいもんじゃなくて、ただの覗きが趣味の変態なんじゃね? なんせ、ここには美人ばかり揃ってるしよ」
「お前、やっぱアホだろ。脳みそレメディオスかガガーランかよ!」
緊迫感の欠片もないマヤの推論に、クレマンティーヌが即座に鋭いツッコミを入れる。
突然名指しで引き合いに出された聖騎士団長レメディオスは、なぜか弾かれたように立ち上がり、腰の剣を引き抜いて天高く掲げた。
「わ、私はそんなアホではありません! この聖剣に誓って!!」
「誰も誓えなんて言ってねぇよ!」
レメディオスの謎理論の返答に、ガガーランが腹を抱えて笑い声をあげる。
「あはははは! ちげーねぇ! ま、童貞じゃない兄ちゃんが言うなら……って、やべっ、おーこわ」
言いかけたガガーランの首筋に、クレマンティーヌの絶対零度の視線が突き刺さる。歴戦のアダマンタイト級冒険者である彼女は、本能的な危機を察知してサッと両手を上げて降参のポーズをとった。
そんな騒ぎの中、一人だけ深く頷き、斜め上の納得をしている者がいた。
「……やはり、エ・ランテルを離れて正解だったわね。そんな、覗き趣味がいる変態の国だなんて」
「へ? いや、そういうことじゃなくないか?」
真顔で腕を組むラキュースに、呆れたようなツッコミが入る。
声の主は、仮面を外し、息を呑むほど美しい金髪と紅い瞳を晒したままのイビルアイだった。素顔を隠すことなく、自然体でテーブルに肘をついている。
「鬼ボスが言うなら正しい」
「ティアとティナは黙ってろ! だから正しくないんだよ! 全く、何を言ってるんだ本当……」
イビルアイはやれやれと首を振り、口を尖らせた。
「まー、あっちにはももんがいるから大丈夫だろうが……」
ポタポタ、と。
バルコニーの大理石に、琥珀色の液体がこぼれ落ちる音が響いた。
ガガーランの手からカップが傾き、お茶が零れているのも構わず、彼女は目を丸くして目の前の吸血鬼を見つめていた。
「……え? イビルアイ……え? お前もなの!?」
「何がだ?」
心底不思議そうに、きょとんと首を傾げるイビルアイ。
いつもならば、熱に浮かされた乙女のように『モモン様』と敬称をつけて語るはずの彼女の口から、あまりにも自然に、ただの固有名詞として『ももん』という呼び捨てが零れ落ちたのだ。
その完全に『無自覚』な表情を見た瞬間、ガガーランはこらえきれずに天を仰いで大爆笑を吹き出させた。
「ぎゃはははははははッ! 傑作だ、無自覚かよ!! おいおいマジかよ、兄ちゃんすげーな!!」
「だから何がだと言っている!!」
顔を真っ赤にして怒るイビルアイを他所に、ガガーランは腹を抱えて笑い転げる。ラキュースだけでなく、あの男嫌いで二百年生きてきた吸血鬼の心すら、圧倒的な強さと素顔への真っ直ぐな称賛で、あっさりと上書きしてしまったというのか。
当のマヤは、ガガーランの爆笑の理由など微塵も分かっていない様子で、ポリポリと頬を掻いた。
「何がだ? マー、俺を褒めてくれてるなら素直に受け取るよ」
「……あほだなこいつ」
全く噛み合っていないマヤの返答に、クレマンティーヌが深い深い溜息を吐く。
「ですが、見られるとなると政治的に……魔導国にこちらの情報が筒抜けになる危険が……」
なおも真面目に国家の危機を懸念するケラルトに対し、マヤは適当にひらひらと手を振った。
「見せとけ見せとけ。別に悪い事しちゃーいねーよ。裸見られてたらアレだけどな」
「そういうことでは……はぁ〜」
論点が全く噛み合わないマヤの大物ぶりに、ケラルトもついに毒気を抜かれたように息を吐く。
ふと、マヤの視線がテラスのすぐ近く、手入れの行き届いた庭園へと向けられた。
そこでは、アルシェとネイア、そしてアルシェの二人の妹たちが、花冠を作りながらコロコロと平和な笑い声をあげて遊んでいる。陽光を浴びて無邪気に走る少女たちの姿は、この上なく尊い平穏の象徴だった。
ポン、とマヤが手を叩いた。
「分かった。あんな可愛い風景を見てただけかな。きっと、東の国の奴も羨ましいんだろ?」
心底平和そうに、ふっと表情を和らげて笑うマヤ。
その言葉を聞いた瞬間、クレマンティーヌがブッとお茶を吹き出した。
「ゲホッ……! お前、本当そういうとこ好きだぞ!」
「ええ、素敵な考えですね。私も好きです」
「え? 鬼ボス?」
うっとりとした表情で同調するラキュースに、双子が戸惑いの声をあげる。
ラキュースはほんのりと頬を染めながら、コホンと一つ咳払いをした。
「……ま、まあいいじゃない! この覗きの件は、マヤさんが解決してくれたってことでね。それよりも——」
ラキュースの視線が、冷ややかに足元へと向けられる。
「そこで寝てるの、どうしますかね? 一応、うちの叔父なんだけど」
「そうだな。詫び入れさせておくって言ったし、徒歩で帰ってもらえ。それでいいよ」
マヤがさっぱりとした口調で言う。彼の中では、すでに報復は終わったことになっているらしい。
「マヤさんがいいなら、それでいきましょう。しかし、徒歩だと王国まで凄い距離では……」
カルカが心配そうに眉を下げるが、その隣で、ケラルトが極上の冷たい笑みを浮かべた。
「まあ、変態をいつまでも城に抱えておくよりはいいでしょう。街道沿いまで運んで行って、放り出しておきましょうか。——裸で」
「お前、意外とえぐいな!」
マヤが目を丸くして突っ込む。
しかし、その提案に真っ先に食いついたのは、真面目な聖騎士団長だった。
「良い提案ですケラルト! 私が聖騎士団を率いて、その役目を引き受けましょう!」
「あはははは! アダマンタイトが裸一貫の旅か、いいんじゃねーか!」
「そうですね。身内として恥ずかしい限りですが、ふさわしい罰だと思いますわ」
レメディオスが胸を張り、ガガーランが笑い飛ばし、実の姪であるラキュースすらも満面の笑みで頷いた。
美しい女性たちの容赦のない決定に、マヤは思わず苦笑を漏らす。
遠き東の地で、魔導王が極限の疑心暗鬼と胃痛に苦しんでいることなど、誰も知らない。
バルコニーには温かく平和な笑い声が響き渡り——失神している愚者アズス・アインドラの『裸一貫の徒歩の旅』という悲惨すぎる運命が、優雅なティータイムの中で呆気なく決定していくのだった。