いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
ナザリック地下大墳墓、第九階層。
至高の四十一人にのみ許された、神聖にして絶対の静寂が支配するプライベートエリア。その豪奢な回廊を、アインズ・ウール・ゴウンは一人、ゆっくりとした足取りで歩いていた。
磨き上げられた大理石の床が、彼の歩みに合わせて微かに硬質な音を立てる。
普段であれば、その後ろを常に付き従うアルベドやメイドたちの姿があるはずだが、今はアインズの命により、彼らはそれぞれの持ち場へと下がっていた。
ただ一人になりたかったのだ。
アインズは自室の重厚な扉を開け、中へと足を踏み入れると、深く息を吐き出すようにして豪華なソファに身を沈めた。
(……酷く、疲れた)
アンデッドである彼に肉体的な疲労はない。しかし、鈴木悟としての精神的な疲労は限界に達していた。
脳裏に蘇るのは、ほんの数十分前まで滞在していたローブル聖王国の陽光と、そこで対峙した赤い髪の男――マヤの姿である。
(……妙な男だった)
アインズは、眼窩の奥の紅い光を細めた。
影武者として立てたパンドラズ・アクターの正体を、会話の間のわずかなノイズだけで見破る規格外の感知能力。
自分がアズスを蹂躙した『未知の強者』であるとある程度察していながらも、敵対行動を取ることはなく、むしろシズとネイアを引き合わせるなど、場を丸く収めようとする奇妙な気配りすら見せていた。
そして、最もアインズの思考に重くのしかかっているのは、アルベドが激昂したあの瞬間のことだ。
(……アルベドも、かなり苛立っていたな。だが、あれは……私にも原因がある)
マヤが怒り、アルベドの仮面を引き剥がした引き金。それは紛れもなく、アインズ自身がクレマンティーヌの身に着けていた世界級アイテム『傾城傾国』に目を奪われ、不作法に凝視し続けてしまったことにある。
コレクターとしての業、あるいは未知の脅威に対するプレイヤーとしての本能。理由はどれであれ、外交の場における非は完全に自分にあった。
(いや、仕方がなかったで済ませる話ではないか……。私が不用意な態度を取らなければ、アルベドがあそこまで屈辱を味わうこともなかった)
アインズはソファの肘掛けに腕を置き、スケルトンの指先でコツコツと硬い音を立てた。
奇妙なのは、マヤのその後の対応だ。
(マヤは……アルベドに謝罪を要求しなかった)
あれほど明確にアルベドの不遜な態度を指摘し、彼女を激昂させながらも、マヤはアインズに頭を下げさせることはおろか、アルベド自身への処罰すら求めなかった。「今回は俺に免じて許してくれ」と、あくまで聖王女カルカの顔を立てる形で、ナザリック側の逃げ道を残したのだ。
ただの粗暴な男ではない。その奥底に、得体の知れない『何か』がある。
「……デミウルゴス」
アインズが虚空に向かって低く声を張ると、部屋の影が揺らぎ、見えない場所に控えていた暗殺虫を通じて即座に連絡が飛んだ。
数分後、静かなノックの音と共に扉が開かれ、仕立ての良いスーツを着こなした悪魔が恭しく一礼して入室してきた。
「お呼びでしょうか、アインズ様」
「ああ。入れ、デミウルゴス」
アインズはソファに座ったまま、威厳ある態度で彼を促した。
「今回の件について、少し整理しておきたいと思ってな。お前だけを呼んだ」
「御意。……アインズ様も、あのマヤという男の意図について、考えを巡らせておいででしたか」
デミウルゴスは眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、宝石のような瞳に知的な光を宿した。
アインズとしては純粋に「あいつ、なんだったんだろうな」と事実のすり合わせをしたかっただけなのだが、デミウルゴスはすでに自分の中で完璧な論理を構築し終えているようだった。
「マヤ殿は、我々に明確な敵意を示していながら、決定的な衝突を見事に避けました。そして、アルベド様に謝罪を要求しなかった」
「……そこだな」
アインズが頷くと、デミウルゴスの背後で金属の尾が嬉しそうに揺れた。
「はい。もしあの場で、アインズ様やアルベド様に頭を下げさせていたなら、交渉そのものが別の意味を持っていたでしょう。我々は聖王国を『敵』と認定し、国交は断絶、最悪の場合は即座に武力行使に踏み切っていたはずです。……彼は、我々の導火線の短さを正確に測り切っていた」
「なるほど」
「王の顔を立てることで我々に恩を売りつつ、同時にアルベド様の自制心を崩壊させることで、ナザリックの一枚岩の連携に揺さぶりをかける。……おそらくは、あの粗野な振る舞いすらも、我々の反応を引き出すための計算し尽くされた演技。恐るべき盤外戦術です」
(……また始まった)
アインズは内心で呆れに似た感情を抱きながらも、表面上は「うむ」と重々しく頷いてみせた。
「だからこそ、あの男は……妙なんだ」
「左様でございます。武力のみならず、あの知略。決して侮ることはできません」
デミウルゴスの過剰な深読みを訂正する気にもなれず、アインズは静かに立ち上がった。
「……謁見の間へ向かう。各階層守護者を集めよ」
「はっ」
玉座の間。
ナザリック地下大墳墓の心臓部たるその巨大な空間には、絶対の忠誠を誓う階層守護者たちが整然と片膝をつき、頭を垂れていた。
アインズは玉座に深く腰を下ろし、眼下に控える彼らを見下ろした。
「此度の聖王国への使節について、簡潔に報告する」
アインズの重厚な声が、玉座の間に響き渡る。
彼は、パンドラズ・アクターの偽装が見破られたこと、そしてマヤという異常な存在が聖王国の側に立っていること、しかし敵対関係には至らなかったことを淡々と語った。
守護者たちは一言も発さず、ただ主の言葉に耳を傾けている。
そして、アインズはふと視線を、最前列で頭を垂れているアルベドへと向けた。
彼女の背中からは、微かに、だが確かな緊張と屈辱の色が滲み出ているように見えた。
「――アルベドについての件だが」
アインズがその名を口にした瞬間、アルベドの肩がビクリと跳ねた。
彼女が顔を上げ、何かを言い訳しようと口を開きかける。
「アインズ様、私の――」
「いや、よい」
アインズは手を軽く挙げて、彼女の言葉を制した。
「今回の件は、私にも原因がある。あの男の挑発にアルベドが乗る形にはなったが、そもそも私が不用意な視線を向けたことが発端だ。……アルベドを責めるな。これは、私自身の判断だ」
玉座の間に、重い沈黙が落ちた。
至高の御方が、自らの非を認め、部下の失態を完全に庇い切ったのだ。
アルベドは限界まで目を見開き、そして震える両手で床を強く握りしめた。
(ああ……アインズ様。この愚かで未熟な私を、これほどまでに慈しみ、庇ってくださるとは……!)
胸を満たす圧倒的な歓喜と忠誠。しかしそれと同時に、自分にそこまでの配慮をさせてしまった原因たる存在――あの赤い髪の男への、底知れぬ憎悪がどす黒く渦を巻いた。
「我々はマヤという存在を警戒しつつも、現状は静観を保つ。各階層の防衛を怠るな。以上だ」
アインズの言葉を合図に、守護者たちが一斉に頭を下げる。
コキュートスは武人としての鋭い気を放ち、デミウルゴスは一人納得したように頷き、シャルティアは怒りに震えるアルベドの背中を、興味深そうに見つめていた。
謁見が終わり、守護者たちが去った後。
アインズが自室へと戻るための静かな回廊を歩いていると、曲がり角の先から一人のメイドが姿を現した。
「……アインズ様。お時間をいただいても、よろしいでしょうか」
完璧な姿勢で一礼したのは、プレアデス副リーダー、ユリ・アルファだった。
「ユリか。構わない。どうした?」
アインズが足を止めると、ユリは普段の冷静な表情の中に、微かな戸惑いと決意を滲ませて口を開いた。
「本来ならば、セバス様を通してお願いすべきことです。ですが……どうしても、アインズ様に直接申し上げたく、非礼を承知で参りました」
メイドが直属の上司であるセバスを飛び越え、最高支配者であるアインズに直接意見を具申するなど、ナザリックの規律においては本来あり得ないことである。
(……そこまでのことか?)
アインズが微かに警戒を強めると、ユリは伏せていた顔を真っ直ぐに上げた。
「先ほどの、聖王国での出来事についてです。私は、あの方――マヤ殿が、アルベド様を追い詰めなかったことが気になっております」
「……ほう」
「あの方には、アルベド様に謝罪を求めることもできたはずです。こちらの落ち度は明白であり、あの方は完全に場の主導権を握っていました。ですが、しませんでした」
ユリの知的な瞳が、真剣な光を帯びる。
「それどころか、あの方はアインズ様のお顔まで立てていたように見えます。……私は、あの方を甘く見て警戒すべきではない、と申し上げたいのではありません。ただ――敵であるならば、なぜ、あそこまで相手の立場を残したのでしょうか」
その言葉に、アインズはハッと息を呑んだ。
デミウルゴスはそれを「高度な盤外戦術」と定義した。だが、カルマ値がプラスであり、ナザリックの中でも極めて人間寄りの良識を持つユリの目には、それが計算ではなく、ある種の『不器用な人間味』や『筋の通し方』として映っていたのだ。
アインズへの態度は不敬だったが、完全な無礼ではない。
部下の落ち度を即座に見抜きながらも、聖王女という相手側のトップの立場を重んじた。
自分から場を悪化させたわけではなく、妙に自然体で、人間であるにも関わらず、ナザリックのアンデッドを必要以上に恐れていない。
(……やはり、ユリもそう感じたか)
アインズの中で、散らばっていた違和感が一つに繋がっていく。
マヤは、ナザリックを追い詰めることができたのに、あえてそうしなかった。罠でも計算でもなく、ただ純粋に「これ以上は野暮だ」と引いたのだ。
「……ユリ。話してくれてよかった」
アインズは、心からの安堵と感謝を込めて告げた。
絶対者として振る舞う日々の中で、このように純粋な視点からの意見をもらえることが、どれほどありがたいか。
「これは、私が聞いておくべきことだった。お前の気づきに感謝する」
「もったいないお言葉です、アインズ様」
ユリは深く一礼し、アインズの背中を見送った。
彼女の心中には、未だ言語化できない、あの赤い髪の男への純粋な疑問が静かに残り続けていた。
一方、その頃。
第九階層にあるアルベドの私室は、近づくことすら躊躇われるほどの異様な気に包まれていた。
部屋を清掃するメイドたちすらも恐れをなして遠ざかる中、その冷え切った回廊に、場違いなほど軽やかな足音が響いた。
「あら? 珍しいですわね。アルベドがそんな顔をしているなんて」
フリルをふんだんにあしらった豪奢なドレスを揺らし、シャルティア・ブラッドフォールンが部屋の入り口に姿を現した。
「……シャルティア」
アルベドは、窓の外を睨みつけたまま、酷く冷たい声で応じた。
普段であれば「下品な吸血鬼が私の部屋に何の用かしら」と即座に毒舌が飛んでくるはずだが、今日のアルベドにはその気力すら無いようだった。
「もしや……人間相手に言い負かされたとか?」
シャルティアが、紅い瞳を細めて面白半分にからかう。
図星を突かれ、激昂するかと思いきや。
「…………」
アルベドは否定しなかった。
ただ、美しい顔を屈辱と憎悪に歪ませ、強く結んだ唇から血が滲むほどに歯を食いしばっていた。
「……え?」
その異常な反応に、シャルティアはからかう気を失い、本気で驚いたように目を見開いた。
あの完璧主義で、ナザリック以外のすべての生命を下等生物と見下しているアルベドが、人間相手に手痛い敗北を喫したことを、無言で認めたのだ。
「……あの男は、妙にこちらの事情を見透かしてくるのです」
絞り出すような、ひび割れた声だった。
アルベドの脳裏に、至近距離から自分を見下ろしたマヤの冷たい瞳と、嘲笑うような言葉が蘇る。
『そっちの怒って本音交じりの方が好きだぜ、アルベドさんよ』
「私が何を言っても、まるで意に介さない。どんな仮面も、あの男の前では意味を成さなかった。……それでいて……」
アルベドは震える手で、自らの豊かな胸元を掻き毟るように強く握りしめた。
「私に、謝罪を要求することすらしなかった……!!」
それは、彼女の誇りを完全にへし折る行為だった。
本音を引きずり出され、玩具のように弄ばれた挙句、「もういいよ」と許された。相手が自分を恐れていないどころか、自分を脅威とすら思っていないという絶対的な事実。
「…………」
シャルティアは、声を出さずに立ち尽くした。
アルベドをここまで精神的に破壊した人間がいる。
「……それで、アインズ様は?」
「……私を、庇われました。私の責任ではないと、そう仰って……っ」
ギリッ、とアルベドの奥歯が鳴る。
「ほう……」
シャルティアの唇に、妖艶で、どこか捕食者めいた笑みが浮かんだ。
至高の御方が庇うほどの相手。
そして、あの忌々しいアルベドの誇りを完全にへし折り、恐怖ではなく屈辱で支配した未知の人間。
「……面白そうですわね、その男」
ナザリックの奥深く。
それぞれの思惑と勘違い、そして抑えきれない憎悪と興味が、静かに、だが確実に、次の火種へと向かって燃え広がり始めていた。