いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
冷たい夜気が引いていき、森の木々の隙間から朝の柔らかな光が差し込み始めていた。
エ・ランテル近郊の森の奥深く。昨晩、スレイン法国の国宝をあっさりと「借りて」きた二人は、小さな焚き火の跡を前にして腰を下ろしていた。
クレマンティーヌは、懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出し、地面に広げた。大陸周辺の国々が記された粗末な地図だ。
「で、現実問題としてこれからどこに逃げるんだよ」
彼女は真紅のチャイナドレス――スレイン法国の最大秘宝『傾城傾国』――の裾を軽く払いながら、地図を指差した。
国宝を盗み出した以上、法国の追手である漆黒聖典が血眼になって自分を探し始めるのは火を見るより明らかだ。一刻も早く、安全な場所へ移動しなければならない。
「んー」
マヤは地図を覗き込み、腕を組んだ。
「お前、なんかいい感じのとこ知らないの?」
「なんだよ、その『いい感じ』って……」
クレマンティーヌは深いため息をつき、呆れ半分で地図上の国々を指でなぞり始めた。
「いいか、私たちの周りには大きく分けて三つの国がある。まず、東にある『バハルス帝国』。ここは数年前に若き皇帝が即位して、貴族の大粛清をやったばかりだ。血の気が多いし、何より闘技場での殺し合いや奴隷制がまかり通ってる狂った国だ」
「闘技場に奴隷ね……うん、なしだな。そういう趣味悪いところはごめんだ」
マヤが即答すると、クレマンティーヌは次に北西の広大な領土を指した。
「ここが『リ・エスティーゼ王国』。貴族どもが腐敗しきっていて、裏では『六腕』って呼ばれる厄介な闇組織が色々やってる。面倒事に巻き込まれる可能性が高いから、長居は無用だ」
「ふーん。じゃあ、そこもパスで」
「となると、残るはここしかない」
彼女の指が、王国からさらに南西へと下った半島のような土地を叩いた。
「『ローブル聖王国』だ。女性が元首を務めてる国で、宗教観の違いからスレイン法国とは不干渉を貫いている。ここなら、漆黒聖典の連中も堂々と追手を送り込むことはできない」
その説明を聞いたマヤは、ポンと手を打った。
「お、そこいいね! 追手が来ないならゆっくりできるじゃん。そこにしよう」
「いいねじゃねーよ。お前、距離わかって言ってんのか?」
クレマンティーヌは地図上のエ・ランテル近郊から、聖王国までの距離を指で測ってみせた。
「王国領を抜けて聖王国まで行くとなると、馬車を使っても優に一ヶ月はかかる。しかも、怪しまれないように国境を越えなきゃならないんだぞ」
「ん? なんでそんなにかかるの?」
「は?」
「だから、なんで馬車なんかに乗るんだよ。俺が背負って走ればすぐだろ」
クレマンティーヌの動きがピタリと止まった。
「……お前、私を背負って?」
「うん」
「……聖王国まで、走れるのか?」
「たぶん。というか、馬車よりは絶対早いよ」
「たぶんってなんだよ……」
彼女は頭を抱えそうになった。だが、昨夜、法国の厳重な警備を散歩のようにすり抜けたこの男の異常な隠密・索敵能力を思い出せば、ただのハッタリだとも思えない。
「……あー、わかった。移動の速さについては譲ろう。だが、もう一つ大きな問題がある」
クレマンティーヌは地図を巻きながら、マヤをジト目で睨みつけた。
「食料だ。お前の足がどれだけ速かろうと、道中には何日もかかる。いくら私でも、飲まず食わずじゃ干からびるぞ」
「あ、そっか。じゃあ途中で美味いもん食えばいいじゃん」
「だから、そんな呑気な……いいか、私は干し肉と水さえあれば十日くらいは余裕で持つ。だから、人目につかないように……」
「ダメだ」
マヤの口調が、少しだけ強くなった。
「干し肉ばっかりじゃ栄養が偏るだろ。ちゃんと温かい飯を食え。せっかく旅に出るんだから、美味いもん食わないと意味ないじゃん」
暗殺者としての常識を語ったつもりが、完全に世話焼きの身内のようなトーンで返され、クレマンティーヌは言葉に詰まった。
こいつは、私をなんだと思っているんだ。ただの荷物か、それとも――。
「……わかったよ。お前のその足の速さを信じて、王国領の辺境の街に少しだけ寄る。そこで数日分の食料を買い込んで、すぐに聖王国に向けて出発だ。いいな?」
「おー、任せろ」
マヤは満足げに笑った。
しかし、クレマンティーヌにはまだ一つだけ懸念があった。先ほどから、マヤが地図を見た時の視線がどこか宙に浮いているように感じていたのだ。
「……マヤ。お前、さっきから地図を見ても全然ピンときてない顔をしてるが、まさか地図が読めないのか?」
マヤは立ち上がりながら、当然のように首を横に振った。
「いや、地図の形はわかるよ。ただ、字が読めないんだ」
「…………は?」
「この世界の字、なんかミミズが這ったみたいで全然わかんないんだよね。だから道案内はお前に任せるわ」
あっけらかんと告げられた言葉に、クレマンティーヌは虚を突かれたように口を開けた。
圧倒的な戦闘力と異常な身体能力を持つ規格外の怪物。だが、こいつは「文字を読む」という社会の最低限のルールすら持ち合わせていないのだ。
(私がいなきゃ、こいつ飯もまともに買えないんじゃないのか……?)
強すぎるのに、誰かの助けがないと生きていけない。
そのあまりにもアンバランスな事実に、クレマンティーヌは深い呆れと共に、自分でも驚くほどの庇護欲のようなものを感じていた。
「……はぁ。わかったよ、字が読めない無能なヒモ男。私が全部面倒見てやるから、お前は黙ってついてこい」
「お、頼りになるね。よろしく!」
二人は焚き火の始末をすると、王国領の辺境の街へと向かって歩き出した。
◇ ◇ ◇
数時間後。リ・エスティーゼ王国の辺境に位置する中規模の街。
石畳の通りには荷馬車が行き交い、商人や冒険者たちが活気ある声を響かせている。
クレマンティーヌは、街の門をくぐった時からずっと、眉間に皺を寄せていた。
(なんで……なんでよりによって、私がこんな格好で真っ昼間の街を歩かなきゃならないんだ……!)
彼女が身に纏っているのは、昨夜盗み出したばかりの『傾城傾国』。
真紅の生地に黄金の糸で複雑な刺繍が施された、艶やかなチャイナドレスだ。
元々、彼女の普段の戦闘装束はビキニアーマーのような胸当てに短いズボンと、肌の露出自体には何の抵抗もない。だが、暗殺者として闇に紛れることを生業としてきた彼女にとって、このドレスの『目を惹きすぎる派手さ』と『異物感』はひどく居心地が悪かった。
「おい、マヤ……やっぱりこれ、目立ちすぎだ。どこかで地味な外套でも買って隠さないと……」
声を潜めて隣を歩くマヤの袖を引く。
だが、マヤは通りに並ぶ屋台の匂いを嗅ぎながら、平然と笑った。
「そうか? 別に誰も騒いでないじゃん」
「騒ぐに決まってるだろ! これを法国の密偵が見たら――」
「いや、見てみろよ」
マヤに顎でしゃくられ、クレマンティーヌは恐る恐る周囲の視線を観察した。
確かに、すれ違う王国の商人や傭兵、街の男たちの視線は彼女に向いていた。だが、その目に浮かんでいるのは「恐るべき国宝を発見した」という警戒や驚愕ではない。
『おい、見ろよあのねーちゃん。すげぇいい女だな』
『あんな服、見たことねぇぞ。どこか南の異国の貴族か?』
『隣の優男にはもったいねぇな……』
そんな、下世話な好奇心と色を帯びた視線ばかりだった。
(……あ、そうか)
クレマンティーヌは拍子抜けしたように息を吐いた。
スレイン法国の人間ならいざ知らず、ここ王国の一般市民が『傾城傾国』のデザインなど知るはずがないのだ。彼らから見れば、これは単なる「異国情緒あふれる、高級な服を着た美女」でしかない。
「な? 言ったろ。お前の取り越し苦労だって。それに、その服、やっぱりお前にすげぇ似合ってるし」
マヤが何のてらいもなく、サラリとそう褒めた。
クレマンティーヌは小さく舌打ちをし、そっぽを向いた。
「う、うるさい! 褒めるな! 早く飯を食って、食料を買ってここを出るぞ!」
彼女は逃げるように歩調を速め、大通りから少し外れた小綺麗な食堂へと飛び込んだ。
食堂の中は、昼食時ということもあってそこそこの賑わいを見せていた。
二人が席につくと、愛想のいい店員の娘が木でできたメニュー板をドンとテーブルに置いた。
「いらっしゃい! さあ、何にする?」
クレマンティーヌはメニュー板を引き寄せ、マヤを見た。
「お前、字が読めないんだろ。何が食いたい?」
「肉。とにかく肉が食いたい。あと、温かいスープ」
「……子供か」
クレマンティーヌは呆れつつも、店員に注文を告げた。
「鶏の香草焼きを二つ、それと根菜の煮込みスープを二つ。パンもつけてくれ。支払いはこれで足りるか?」
彼女は懐から銀貨を数枚取り出し、無造作にテーブルに置いた。店員は嬉しそうに頷き、厨房へと消えていく。
「お前、本当に金持ちなんだな」
「気にするな。昨夜、法国を出るついでに私の隠し財産も全部引き払ってきたからな。当面の金には困らない」
自嘲気味に笑う彼女の前に、やがて湯気を立てる料理が運ばれてきた。
こんがりと焼き色のついた鶏肉からは香ばしい匂いが漂い、スープからは野菜の甘い香りが立ち上っている。
「おお! すげぇ美味そう!」
マヤは目を輝かせ、さっそく肉に齧り付いた。
咀嚼し、嚥下し、本当に幸せそうな顔で笑う。
「うん、美味い! クレマンも早く食えよ! 冷めるぞ」
その無邪気な顔を見ていると、クレマンティーヌの中で張り詰めていた「法国の追手が来るかもしれない」という恐怖が、急速に馬鹿馬鹿しいものに思えてきた。
自分の向かいで、最強の怪物が子供のように肉を頬張っている。この男が隣にいる限り、どんな追手も彼には手出しできないのだ。
「……あーあ。私、本当にどうかしちゃったんだな」
彼女は小さくこぼし、ドレスの袖を汚さないように気をつけながら、ゆっくりとスープを口に運んだ。
◇ ◇ ◇
食堂を出た二人は、街の市場へと足を向けた。
目的は、これからの長旅――聖王国までの道中を凌ぐための食料調達だ。
「おいマヤ、お前何日分の食料を買う気だ?」
「んー、そうだな。俺とお前、二人で四日分くらいあればいいだろ。保存がきく干し肉と、固焼きのパン、あと水袋をいくつか」
マヤが適当な屋台の干し肉を指差しながら答えると、クレマンティーヌは渋い顔をした。
「二人で四日分? ……まあ、王国領を抜けるまでの分か。聖王国への道中、どこかでまた買い足す計算だな。わかった」
彼女は言われるがままに銀貨を払い、布袋に食料を詰め込んでいく。
「よし、これで買い出しは終わりだな。行くぞ、クレマン」
重くなった布袋を軽々と肩に担ぎ上げ、マヤが街の出口へと向かって歩き出す。
「……お前なぁ。いくら力があるからって、お前の足で私の速度に合わせて歩いてたら、王国内を抜けるだけでも数日はかかるんだぞ。急ぐなら、人目がなくなったところで私を背負うんだろうな?」
「当たり前だろ。お前の足じゃ遅いからな」
からかうように笑うマヤの背中を見つめながら、クレマンティーヌは微かに唇を綻ばせた。
(本当に、不思議な奴だ)
彼は、字が読めない。この世界の常識も知らない。
だが、その背中はどんな強者のものよりも大きく、どんな要塞よりも安全に思えた。
「置いていくなよ、バカ」
小走りで彼の横に並び、二人は街の門を抜け、見渡す限りの平原へと足を踏み出した。