いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
あの修羅場となったお茶会から、数週間の時が経過した。
ナザリック地下大墳墓、第九階層。絶対支配者たるアインズ・ウール・ゴウンの執務室は、本来であれば羊皮紙にペンを走らせる音だけが響く、静謐な空間であるはずだった。
しかし今日に限って、アインズは書類に全く集中できていなかった。
原因は、執務机の斜め後ろ――護衛として直立不動の姿勢を保っている一人のメイド、シズ・デルタにある。
彼女はプレアデスの名に恥じぬ完璧な姿勢を保ち、表情一つ変えていない。だが、その視線だけが、先日からずっと『ローブル聖王国のある方角』を向き続けていた。
さらに彼女は、自身のメイド服のポケットに手を入れたまま、魔導国で発行した『一円シール』の束を、親指でこすり続けるように撫でている。
(……あの子に、会いたい……)
無表情の奥底から放たれる、凄まじいまでの無言のアピール。
それが背中越しにチクチクと突き刺さってきて、アインズの胃袋(存在しないが)をひどく痛めつけていた。
「……ええい、分かった。分かったからシズ、その一円シールを撫でるのをやめなさい」
アインズがため息混じりに声をかけると、シズはピタリと手を止め、一つ目だけの無機質な瞳を主へと向けた。
その瞳の奥にある微かな期待の光に負け、アインズはデミウルゴスを執務室へと呼び出した。
「――なるほど。シズが、聖王国のネイア・バラハ殿と親交を深めたいと」
「うむ。どうにか、不自然でない形で向かわせることはできないかと思ってな」
アインズの相談に対し、デミウルゴスは賢しらな笑みを浮かべて眼鏡を押し上げた。
「良い機会かと存じます。ならば、マヤ殿が我々の中で唯一好意的な反応を示したシズを、親善大使兼、密偵として公式に派遣すべきでしょう。さらに……」
「さらに?」
「マヤ殿の『規格外の索敵・感知能力』の限界を測るため、完全に気配を絶った隠密の観察者を一名、同行させるべきです」
デミウルゴスのその提案を聞いた瞬間だった。
執務室の扉の外で控えていた小柄な影が、弾かれたように部屋の中へと飛び込んできた。
「アインズ様! ならば、私が行きんす!」
フリルをふんだんにあしらった豪奢なドレスを揺らし、シャルティア・ブラッドフォールンが猛烈な勢いで身を乗り出した。
「私の隠密スキルと機動力であれば、適任でありんす! 決してアインズ様のご期待を裏切るような真似はいたしませんわ!」
表向きは、階層守護者としての真面目な立候補である。
だが、彼女の腹の中は、深紅の瞳とは裏腹にどす黒い欲望で満ちていた。
(あの完璧主義で嫌味なアルベドを泣かした男……ぜひ直接見てみたいでありんす。あわよくば、私がその男の懐に入り込み、手玉に取って、アルベドの奴を徹底的に嘲笑ってやるでありんす!)
数週間前、自室で怒りに震え、屈辱に唇を噛んでいたアルベドの姿。それを思い出すだけで、シャルティアの胸は優越感で高鳴っていた。
しかし、そんなシャルティアの目論見は、アインズの冷徹な一言によって打ち砕かれた。
「……いや、隠密は却下だ」
「えっ? な、なぜでありんすか?」
「あの男の感知能力は異常だ。万が一にも隠密行動が露見した場合、『友好の使者』というこちらの建前が崩れ、明確な敵対行為とみなされる。……行くならば、堂々と行くべきだ」
影武者を見破られ、痛い目を見ているアインズの判断は極めて堅実だった。
「シャルティア。お前は隠密ではなく、シズの『お目付け役の貴族令嬢』として、身分を明かして同行しろ。……とはいえ、シズとシャルティアだけであの男の元へ行かせるのは、どうにも不安だな」
「アインズ様……?」
「私が直接ゲートを開き、送り届けて挨拶をしよう」
こうして、ただの親善大使の派遣は、過保護な親心をこじらせた魔導王自らのエスコートという、聖王国側からすれば胃がねじ切れるような大行事へと変貌を遂げたのであった。
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柔らかな陽光が差し込む、ローブル聖王国の王宮中庭。
突如として空間が歪み、漆黒の半球体――『転移門(ゲート)』が開いた。
周囲を警備していた聖騎士たちが弾かれたように剣の柄に手をかけ、執務の合間に中庭を訪れていたカルカやケラルトが緊張に身を固める。
だが、その転移門から姿を現した魔導王アインズ・ウール・ゴウンの足取りは、前回の威圧的なそれとは異なり、どこか気まずさを含んだものだった。
「急な訪問ですまない、マヤ殿、カルカ殿」
アインズは王としての威厳を保ちつつも、小さく頭を下げた。
「……実は、うちのシズが、どうにもそちらの射手の少女――ネイア・バラハ殿にもう一度会いたいと言って聞かなくてな。友好の第一歩として、非礼を承知で連れてきてしまった」
アインズの後ろには、眼帯をつけたメイドのシズと、日傘を差し、豪奢なドレスを完璧に着こなした貴族令嬢風の少女が控えている。
「なんだ大将、過保護なお父さんかよ」
窓枠の近くの椅子でくつろいでいたマヤが、呆れたように笑った。
アインズからの突然の訪問と、そのあまりにも身内贔屓な理由。カルカたちは困惑して固まっていたが、マヤは事も無げに手を振った。
「まあいいぜ。おいネイア、お前のダチが来たぞ」
「はいっ!」
マヤのフランクな許可を受け、護衛の端に立っていたネイアが小走りで前へ出る。
それを見たシズも、トコトコと無表情のまま歩み寄った。
言葉はない。
シズはネイアの目の前で立ち止まると、無言のまま彼女の服の裾をギュッと掴み、もう片方の手でペタリと『一円シール』を貼り付けた。
ネイアの凶悪な三白眼が感動で潤み、キラキラと輝き始める。二人の間にだけ、射手同士にしか分からない奇妙な波長が通じ合い、張り詰めていた中庭にそこだけ温かな癒やし空間が形成された。
その様子を見届けた後、アインズの後ろに控えていた貴族令嬢風の少女が、日傘を優雅に畳んで一歩前に出た。
「そしてこちらは、シズのお目付け役として同行させた、シャルティアだ」
「お初にお目にかかりんす、マヤ様」
シャルティア・ブラッドフォールンは、完璧な淑女のカーテシー(挨拶)を披露した。
純白の肌に、深紅の瞳。可憐な容姿と豪奢なドレスが相まって、どこぞの大貴族の令嬢にしか見えない。
「私はシャルティア・ブラッドフォールン。此度はシズの付き添いとして参りました。……先日はアルベドが大変な無礼をいたしましたこと、心よりお詫び申し上げますわ」
妖艶に微笑み、しなやかな動作でマヤに取り入ろうとするシャルティア。
彼女の内心は『アルベドを言い負かしたこの男を、私の魅力で翻弄してやるでありんす』という黒い思惑で満ちていた。
しかし、マヤはその完璧な演技を一瞥しただけで、小さく息を吐いた。
「丁寧な挨拶、ありがとな。けど嬢ちゃん、そんな無理して分厚い猫被らなくていいぜ」
「え……?」
「ずっとそんな喋り方じゃ、肩が凝るだろ? ここじゃ堅苦しいマナーなんか気にしねぇから、楽に、普通に話そうや。そこ座りな」
マヤはシャルティアの演技を即座に見抜いたが、それを嘲笑したり、アルベドの時のように言葉の刃で切り裂いたりしなかった。
むしろ、無理をして背伸びをしている子供を見るような、穏やかな目で椅子を引き、彼女にお茶を勧めた。
「それにしてもお前、俺と同じ赤い目だな。なんか親近感湧くな! 仲良くしようぜ。俺はマヤだ、シャルティア」
「あ……」
「それにシャルティア。大将の前でいい格好するために、わざとそんな演技して大将を立てるなんてのは、とても偉いぞ」
マヤは自然な手つきで、シャルティアの銀色の髪をポンポンと撫でた。
シャルティアは目を見開き、硬直した。
(想定外でありんす……! もっと罵倒されるかと思ったのに。私の意図を見抜いた上で、馬鹿にもせず、褒めて……頭を撫でてくれた……!?)
アルベドの『悪意ある建前』は容赦なく叩き斬ったマヤだが、シャルティアの『見栄を張っているだけの背伸び』に対しては、ただ大人の男として優しく包み込んだのだ。
その光景を見ていたアインズの眼窩の炎も、激しく明滅していた。
(ええっ!? アルベドの時と対応が違いすぎないか!? なんでうちの最強守護者の一人の頭を気安く撫でて、あっという間に手懐けてるんだこいつは!?)
驚愕するナザリック勢をよそに、マヤはニカッと笑ってアインズを見た。
「な、なるほど。そう言ってくれると、連れてきた甲斐があるというものだな」
アインズは慌てて威厳を取り繕い、深く頷いた。
「そうだぜ。最初から真正面から話せばいいだけだ。骨の見た目でも、今のあんたには笑顔が出てるぜ、大将」
「……!」
マヤのその言葉に、アインズはハッとした。
絶対的な魔導王としての仮面。その下にある『鈴木悟』としての顔を見透かされたような感覚。
しかしそこに悪意はなく、かつてユグドラシルで仲間たちと気兼ねなく喋っていた頃のような、懐かしく心地よい空気がそこにあった。
「そうですぞ! 普通にしていればよいのです!」
その心地よい空気を、場違いな大声が切り裂いた。
鼻息を荒くした聖騎士団長レメディオスが、自信満々に一歩前に出る。
「魔導王殿、いい物をお見せしましょう! ふんす!」
「……姉者、また何を」
ケラルトが頭を抱える中、レメディオスは腰に提げた剣の柄を握り、ゆっくりと引き抜いた。
ボワァッッ!!
中庭全体が、真っ白に染まった。
抜刀した瞬間だけ無駄に三倍神々しく光るという、マヤが気まぐれで付与したギミックが炸裂したのだ。
(うわ、眩しっ!?)
アインズは内心で目を細めた。
(え、レベル100の私(完全耐性持ち)が一瞬眩しいって、これ相当やばくないか!? 鑑定魔法を使ってないから詳細な性能は分からないが……ユグドラシル基準でも相当上澄みの武装なのか!?)
「どうですか! この剣! 私の自慢の聖剣サファルリシア2号です!」
得意絶頂のレメディオス。
(……というか『2号』って、男心をくすぐるなかなか良いセンスだな……)
アインズのコレクター気質とゲーマー魂が、無駄に光る剣とそのネーミングに静かに共鳴した。
「……それは見事だな。とても良いものではないか」
「あんた何いきなり物騒なもん抜いてんのよ! 失礼でしょうが!」
アインズが真面目に感心する横で、クレマンティーヌが怒鳴り声を上げる。
「それはですな聖女様、見せたいではありませんか! この素敵な武器を! そう、友好の証なのです!」
「友好の証で剣抜く馬鹿がいるか!」
ギャーギャーと騒がしくなる中庭。
光が収まり、目が慣れてきたところで、シャルティアが胸の動悸を抑えながら、素の言葉遣いで一歩前に出た。
「……改めて。わたくし、シャルティア・ブラッドフォールンでありんす。よろしくでありんす」
少し頬を赤らめ、上目遣いで自己紹介をするシャルティア。
マヤは満足げに頷いた。
「ああ。よろしくな! シャルティア」
そしてマヤは、満面の笑みでアインズへと向き直った。
「大将のとこも、いい女揃いだな! さすが大将だぞ。こっちでもよ、大将の女好きには『まー仕方ねーな〜』くらいになったからよ! この前のはもう気にすんな!」
ドスッ。
見えない巨大な槍が、アインズの胃袋(ないが)を貫いた。
(ええええええええっ!? 何言ってんの!? 私、女好きになっちゃったの!? 誤解を解くどころか『仕方ない女好きの王』として全会一致で処理されてるの!?)
アインズは冷や汗を流しながら、慌てて手を振る。
「あ、いや、そういうわけではないんだがな……」
(まさかアインズ様……)
シャルティアが、驚愕の眼差しでアインズとクレマンティーヌを交互に見た。
(あのような豊満な人間の女がお好きだったでありんすか……!? 私のような体型ではお気に召さないと……!?)
「あらあら、シャルティアさんと意気投合しちゃったの?」
そこへ、クレマンティーヌが艶然と微笑みながらカットインする。
「私はそちらでも構わないけど? 可愛いし」
(え? どういうこと!? 本気で第二夫人を探してるの!? シャルティアまで嫁候補に巻き込もうとしてるの!? なんなんだこの国、めちゃくちゃ怖いよ!!)
アインズの内心は完全にパニックに陥っていたが、表面上は威厳ある沈黙を保つしかなかった。
やがて、騒がしくも穏やかなお茶会が終わりを迎える。
シズはネイアの頭を撫でて別れを惜しみ、シャルティアはマヤの前でモジモジと身をよじっていた。
「……っ、今度は、私から遊びに来ても、いいでありんすか……?」
上目遣いで尋ねるシャルティアに、マヤは笑って頷く。
「ああ。いつでも来な。美味いお菓子でも用意しとくよ」
「! はいでありんす!」
嬉しそうに微笑むシャルティアを見て、アインズは咳払いを一つした。
「……マヤ殿、カルカ殿。もしよければ、今後もこのような形で、特使としての交流を定期的に持たせてもらえないだろうか。シズも、こちらのバラハ殿と親交を深めたいようだしな」
アインズの提案に、カルカは安堵の笑みを浮かべて頷いた。
「魔導王殿からのご提案、我が国としても喜んでお受けいたしますわ」
「おう、いいぜ。いつでも来な」
マヤも気軽に承諾する。
転移門が開き、アインズたちが帰還の途に就こうとした、まさにその時。
「シャルティアちゃーん」
クレマンティーヌが、見送りの列から身を乗り出して手を振った。
「いつでも、お嫁さんに来てもいいのよーっ?」
転移門の中に足を踏み入れていたアインズの肩が、ビクンと跳ねた。
シャルティアは顔を真っ赤にして俯き、シズは無表情のままコクッと頷いた。
もはや威厳を取り繕う余裕すらなく、アインズ・ウール・ゴウンはただただ、恐怖と混乱が入り混じった乾いた笑いを浮かべるしかなかった。