いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
アーグランド評議国の最奥に位置するその空間は、数百年という途方もない時間を凍結させたかのような、絶対的な静寂に包まれていた。
外部の喧騒を一切遮断した分厚い石造りの壁。高くそびえる天井の隙間から差し込むわずかな光の筋だけが、微かに舞う埃を照らし出している。
ここは、世界を見守る『管理者』たる白金の竜王――ツァーァンデル・アルクスヌクスが鎮座する聖域である。
「……やれやれ。年寄りの足には堪える道のりだねぇ」
軽口を叩きながら、硬い靴音を響かせてその広間へと足を踏み入れたのは、一人の老女だった。
かつて世界を救った十三英雄の一人にして、歴戦の大魔法使い、リグリット・ベルス・カウラウ。
彼女はいつものように、旧知の友である竜王と他愛のない、しかし世界の行く末を左右するような会話を交わすつもりでやって来た。
しかし。
「――っ」
広間の中央に視線を向けた瞬間、リグリットの足が床に縫い付けられたようにピタリと止まった。
シワに覆われた彼女の目が、限界まで見開かれる。
「……おいおい、冗談だろ……?」
乾いた唇から漏れたのは、ただの驚愕ではなく、底知れぬ恐怖を孕んだ震え声だった。
リグリットの視線の先。広間の中央の石床に転がっていたのは、一塊の巨大な鉄屑だった。
いや、鉄屑ではない。
それは紛れもなく、かつて十三英雄の旅で世界中を共に巡り、あらゆる強大な魔導や神話級の攻撃を傷一つなく跳ね返してきたはずの『白金の鎧』だった。
だが、その変わり果てた姿は、リグリットの知る絶対無敵の装甲とは程遠かった。
鎧の背面部。本来であれば滑らかな流線型を描いているはずの分厚い神話級金属が、内側へ向かってえぐり取られるようにひしゃげている。
斬撃による切断痕ではない。鈍器による陥没とも違う。
まるで、とてつもない質量を持った『螺旋の渦』に無理やり巻き込まれ、強引にねじり潰されたかのような、異様極まりない破壊の痕跡。
装甲の表面は高熱で焼き焦げたように変色し、四肢の関節部は内部の魔力回路ごと粉砕されて、見るも無惨に千切れかけていた。
鎧の周囲には、主である竜王の始原魔法(ワイルドマジック)による自己修復の光が淡く明滅している。
しかし、構造そのものを根こそぎねじ切られたダメージはあまりにも深く、光は虚しく明滅を繰り返すだけで、鎧は自立することすらできずに転がっていた。
「こりゃ……一体なんだい……?」
リグリットは慎重に歩み寄り、ねじ切られた装甲の断面に触れようとして、やめた。
歴戦の勘が、その痕跡に触れることすら危険だと告げていたのだ。
「頑丈だけが取り柄のあんたの鎧が、見る影もなくボロボロじゃないか。刃物でも鈍器でもない……強大な力で『ねじり潰されて』いる。誰が、こんな真似を……?」
リグリットは広間の奥、深い闇が広がる空間へ向かって鋭く問いかけた。
「まさか、あの新しく国を作ったっていうアンデッドの王……魔導王の仕業かい?」
水を打ったような静寂が、広間を支配する。
やがて、奥の闇の中から、低く、酷く疲弊した声が響き渡った。
『……いや。違う。魔導王ではないよ』
それは、世界最強の存在の一角たる白金の竜王の声。
しかし、その響きには普段の威厳や傲慢さはなく、ひび割れたガラスのような脆さが混じっていた。
『彼とは、遠く離れた場所から鏡越しにわずかに気配を交わした程度だ。それに……今のアインズ・ウール・ゴウンは、我々が危惧していたような破壊活動を表立っては行っていない。この鎧をこうしたのは……別の男だ』
「別の男、だって……?」
『マヤ、と。そう名乗っていた』
闇の奥で、巨大な竜の巨体が身じろぎする気配がした。
『……まさか、ずっとこの世界を観測し続けてきた私でも、手も足も出ない……相手にすらならない存在が現れるとはね』
その言葉が持つ重みに、リグリットは息を呑んだ。
あの白金の竜王が、自身の完全な敗北を、それも「相手にすらならない」とまで断言したのだ。
「プレイヤー……かい?」
『おそらくは』
ツアーの声は、暗い広間の壁に反響しながら、静かに惨劇の記憶を紡ぎ始めた。
『あの男は、私に背後を取られた状態から、一瞬で距離を詰めた。こちらの探知にも引っかからず、空間を跳躍するように……そして、詠唱もなく、突如として青白く輝く力の奔流をその右手に顕現させたのだ』
「詠唱もなく……?」
『ああ。途方もない密度に圧縮された魔力の塊が、螺旋を描きながら狂乱していた。それが、背後から叩き込まれたのだよ』
ツアーは、思い出すだけでも震えが走るのか、わずかに息を吐いた。
『始原魔法で編まれた絶対の防壁が、まるで薄紙のようにねじ切れ、引き裂かれた。私にできたのは、鎧が完全に消滅する直前に、ギリギリで痛覚のリンクを切断することだけだった』
「……冗談だろう。あの鎧の防御力を、物理的な魔力の塊だけで貫通したっていうのかい」
『だが……本当に恐ろしいのは、そこではないのだ』
暗闇の中で、二つの巨大な瞳が薄く見開かれる。
その瞳に浮かんでいたのは、強者としての自負を完全にへし折られた、純粋な恐怖だった。
『あの男は……鎧を粉砕したその一撃を通して、鎧と私を繋ぐ魔力のパスを逆流し、探知してきたのだ。遥か遠く離れた場所に潜む、この私の本体の居場所を……完璧に看破した』
「なっ……!?」
リグリットは絶句した。
遠隔操作のリンクを逆流するなど、常識外れもいいところだ。探知を妨害する幾重もの偽装と防壁を敷いているはずの竜王の本体を、一瞬で突き止めるなど、神の領域の業である。
『あの瞬間、私は確かに見られていた。見下ろされていたのだ。いつでもこの本体の首を獲れると……生殺与奪の権を完全に握られた。……なのに、彼は追ってこなかったのだよ』
「どういうことだい?」
『彼は、瀕死の鎧の耳元で「お前の場所、もうわかったからよ」と告げた。そして……「一応、礼儀だ」と言って、わざわざこの本体がいる方向へ向けて、残骸となった鎧を蹴り返してきたのだ』
見逃された。
取るに足らない路傍の石を、邪魔だからと蹴り飛ばすように。
殺す価値すら見出されず、ただ「そこにいることは分かっているぞ」という絶対的な格付けだけを刻み込まれ、放置されたのだ。
「……信じられないね。だが、この惨状を見れば、信じるしかない」
リグリットは深くため息をつき、ひしゃげた鎧を再び見下ろした。
『……あれは、次元が違うのだよ』
ツアーの独白が続く。彼の中にある『ユグドラシル』という絶対的な物差しが、必死に目の前の異常事態を定義しようと稼働していた。
『詠唱もなく、始原魔法すら無視して装甲をねじ切る未知の武技。遠隔操作のリンクを逆流する神域の知覚能力。あれは、過去の百年間隔の揺り返しで現れたプレイヤーたちとは、根本的に存在の在り方が違う。……おそらく、あの男は』
ツアーは、自ら導き出した結論を重々しく口にした。
『私がこれまで観測し、蓄積してきたユグドラシルの理の、さらに先の時代。未知の大型アップデートを経た、後期・上位のシステムから現れた存在なのだろう』
ユグドラシルのシステム外の力である『チャクラ』などという概念を知る由もないツアーにとって、それは最も合理的で、唯一納得のいく解釈だった。
自分が蓄積してきた知識が及ばない、遥か高みにある未知のルール。
それに敗れたのだと自らを納得させなければ、自我が崩壊してしまいそうだったのだ。
「……それで? その上位のプレイヤー様は、どうしてあんたを見逃したんだい?」
リグリットの問いに、ツアーは沈黙した。
広間を満たす静寂の中で、鎧の残骸に宿る始原魔法の光だけが、明滅を繰り返している。
『……分からない』
やがて、ツアーはぽつりとこぼした。
『あれほどの絶対的な力を持ちながら、私を殺そうとはしなかった。ただ……私が上空から高みの見物を決め込み、アズスを囮にし、彼の大切なものを『駒』のように扱おうとしたこと……それ自体に、激しい怒りを向けてきたのだ』
思い返せば、マヤの瞳に宿っていたのは、強者としての驕りでも、他者を蹂躙する愉悦でもなかった。
ただ純粋な、血を吐くような怒りだった。
自分は名乗りもせず、安全な場所から事態を操作しようとした。その在り方そのものを、あの男は「話にならねぇ」と切り捨てたのだ。
『……純粋な悪意は、感じられなかった。ただ、人を駒として扱う私のやり方が、彼の逆鱗に触れたらしい』
自嘲気味に語るツアーの言葉を聞いた瞬間。
リグリットの顔から、緊迫した険しさがスッと消え去った。
彼女は呆れたように肩をすくめ、どこか懐かしむような、皮肉めいた光をその瞳に宿した。
「……駒、ねぇ」
『リグリット?』
「当たり前さ」
広間に響く老女の声は、世界最強の竜王を相手にしているとは思えないほど、軽口で、それでいて深い哀愁を帯びていた。
「昔のお前は……仲間を、人間を、そんな冷たい言葉で呼ぶ奴じゃなかったよ」
その一言が。
どんな強大な魔法よりも鋭く、ツアーの胸の奥底を深く、深く抉った。
『…………』
息が止まった。
暗闇の奥で、巨大な竜の瞳が大きく揺らぐ。
昔の自分。
そう、ずっと昔のことだ。
最強の力を持っていながら、あえて己の正体を隠し、一介の鎧の戦士『ツァインドルクス』として、最弱である人間たちと共に旅をした日々。
泥臭く、不格好に、それでも背中を預け合って魔神と戦い、焚き火を囲んで笑い合った記憶。
あの頃の自分は、脆弱な人間たちを『駒』などとは決して思っていなかった。彼らの限られた命の輝きを尊び、共に世界を救おうと本気で信じていた。
それが、いつからだろうか。
世界を守護する『管理者』としての重圧。百年ごとに現れるプレイヤーという脅威に対する警戒。
果てしない時間を一人で生きる中で、いつの間にか自分は高みに座し、人間を盤上のチェスの駒として冷酷に動かし、切り捨てるようになっていた。
世界を守るためなら、一部の犠牲は仕方がない。そうやって感情を殺し、効率だけを求める機械のようになっていた。
あの『マヤ』という男が叩きつけてきた怒りは。
他でもない、ツアー自身がとうの昔に見失い、心の奥底に封じ込めていた『かつての己の心』そのものだったのだ。
「……そうだったな」
長い、長い沈黙の果てに。
ツアーは、憑き物が落ちたような、深く穏やかな息を吐き出した。
『ならば、我々も変わらなければならないのだろう。世界を守るためとはいえ……人間をただの駒として消費するようなやり方は、もう、やめるべきだ』
その声には、先ほどまでの絶望や強張りが消え、何百年も背負い続けてきた重鎧を脱ぎ捨てたかのような清々しさがあった。
「……ふん。ようやくかい」
リグリットは意地悪く鼻を鳴らしたが、その目元は微かに緩んでいた。
『笑うな、リグリット。私にだって、自らの過ちを認め、考えを改めることくらいはある』
ツアーは暗闇の中で、遥か彼方の空――聖王国の方向を見つめるように、静かに、しかし断固たる決意で告げた。
『あの『マヤ』という男の領域には、もう二度と近づかない。見つけても追わず、探りも入れない。……完全に、放置する。それが、彼の流儀に対する私の最大の礼儀だ』
白金の竜王は、敗北という事実を糧に、かつての優しい心を取り戻した。
絶対的な強者としての格を一切落とすことなく、彼は「世界の管理者」という呪縛から、自らの意思で降りたのだ。
広間に、再び静かな時間が流れ始める。
先ほどまでの冷たく張り詰めた空気は嘘のように消え去り、そこには確かな温もりが満ちていた。
『……リグリット』
闇の奥から聞こえた声は、かつて共に旅をした『ツァインドルクス』としての、穏やかで優しい声音だった。
『長々と、待たせてすまなかったね。これからは……またいつかのように、楽しい話をたくさんしようじゃないか』
その言葉を聞いて、リグリットは小さく息を呑んだ。
やがて、彼女は照れ隠しのように顔を背け、持っていた杖で石床を軽く小突く。
「……ふん。当たり前だ。私が何年、ここへ通ってると思ってるんだい。いつもいつも、駒だなんだと偉そうに語りおって……」
口では憎まれ口を叩きながらも、リグリットのシワだらけの顔には、この上ない安堵と、年相応の少女のような柔らかな笑みが浮かんでいた。
彼女はずっと、この時を待っていたのだ。
世界を背負いすぎて冷たくなってしまった友人が、かつての彼に戻ってくれる日を。
ひしゃげた白銀の鎧の残骸が転がる、静寂の広間。
外部の喧騒から隔離されたその評議国の最奥に、何百年ぶりかに、泥臭く世界を旅した仲間同士の、温かく穏やかな空気が静かに流れていった。