いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
王国の辺境都市を抜け、人影が完全に途絶えた平原の入り口。
マヤは当然のようにしゃがみ込み、自身の背中をポンと叩いた。
「ほら、乗れよ」
「……本当に、私を背負ったまま走る気か?」
クレマンティーヌは半信半疑のまま、真紅のチャイナドレスの裾を軽く持ち上げ、彼の広い背中に身を預けた。
彼女自身、英雄の領域に足を踏み入れた強者である。並の戦士よりはずっと速く長く走れる自負があった。だが、マヤは「お前の足じゃ遅い」と笑って譲らなかったのだ。
彼がゆっくりと立ち上がる。その背中は岩のように安定しており、微かなブレすらない。
「しっかり掴まってろよ」
「……お前、本当にそんなに速いのか?」
「うん。まあ、普通に走るよりはね」
「ふーん。じゃあ、もっと速く走ってみろよ」
クレマンティーヌが、ほんの軽い挑発のつもりで耳元で囁いた、次の瞬間だった。
ドンッ!! と、足元の土が爆発したような音が響いた。
「え?」
景色が、文字通り弾け飛んだ。
平原を数歩で蹴り抜けたマヤは、そのまま隣接する深い森の木々へと跳躍した。
太い枝から枝へ。木々の頂点から頂点へ。
重力という概念が消え失せたかのような、一切の予備動作を無視した三次元の超高速移動。耳元で轟くのは、暴風のような風切り音だけ。眼下には、緑の残像が濁流のように後ろへ飛び去っていく。
「…………ッ!?」
クレマンティーヌは声すら出せなかった。
速い。速すぎる。人間が到達できる速度ではない。視界が追いつかず、強烈な風圧で息を吸うことすら困難だ。圧倒的な高所を跳ね回る恐怖と、異次元の速度による酔いが同時に彼女の脳を揺さぶる。
(あ、これ、死ぬ……!)
「ちょっ……! ま、待て! 待て待て待て!!」
「ん? まだ速くする?」
「違う!! 降りろ!! 一回降りろ!!」
彼女の悲鳴に近い声に、マヤは「おっと」と短く応え、ふわりと重さを感じさせない着地で街道のド真ん中へと降り立った。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
クレマンティーヌはマヤの背中にしがみついたまま、肩で大きく息をした。顔面は蒼白になり、心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。
「どうした? 酔ったか?」
「お前……っ、頭おかしいだろ! なんで木の上を飛ぶんだよ!」
「え? 森を突っ切った方が直線で早いじゃん」
「私が疲れるだろ!! 怖いわ!! 街道を走れ! 街道を!!」
「あー、そっか。ごめんごめん、俺の配慮が足りなかったわ」
マヤは全く悪びれる様子もなく笑うと、今度は石畳の街道を、滑るような足取りで走り始めた。
それでも馬が駆けるより遥かに速い。だが、先ほどの暴風のような跳躍とは違い、上下の揺れは一切なく、背中に乗るクレマンティーヌに風圧の負担がかからないよう、絶妙に速度が調整されていた。
(……こいつ)
クレマンティーヌは、規則正しいマヤの背中の鼓動を感じながら、ゆっくりと息を整えた。
彼は、決して自分の強さを誇示しない。「俺の方が凄いだろう」とマウントを取ることもない。ただ純粋に、背中に乗る彼女が「これなら疲れない、怖がらない」という速度の限界点を見極め、それに合わせてくれているのだ。
強者である自分を置いていかず、自分の歩幅に合わせて、共に進んでくれる。
その底知れぬ強さと、ひどく不器用な優しさに触れた瞬間、クレマンティーヌの中で、長年張り詰めていた暗殺者としての冷たい糸が、ふつりと切れた。
もう、強がらなくていい。この背中にいれば、自分を傷つけるものは何一つ追いつけない。
「……もう、好きにして」
「ん?」
「もっと速くしろなんて、二度と言わないから。……だから、落とすなよ」
彼女はぽつりと呟くと、マヤの首元に腕を回し、その広い背中にギュッと強くしがみついた。
彼の温もりと匂いに顔を埋める。
マヤは少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに「おう、任せとけ」と柔らかく笑い、真っ直ぐに街道を駆け抜けていった。
◇ ◇ ◇
夜。街道から少し外れた森の中で、小さな焚き火が揺れていた。
パチパチとはぜる炎を挟んで、二人は街で買い込んだ食料の袋を開けていた。
「ほら、お前の分」
クレマンティーヌが、布袋から固焼きのパンと分厚い干し肉を取り出し、マヤの方へ放り投げる。
しかし、マヤはそれを受け取ると、そのままそっとクレマンティーヌの膝元へ返し置いた。
「いや、俺はその辺の木の実とかでいいんだわ」
「……は?」
「ほら、俺あんまりこういうの食うと、腹痛くなるだろ?」
マヤがさも当然のような顔で飄々と言う。
クレマンティーヌは、膝の上の肉と彼の顔を交互に見比べた。
「私だって痛くなるわ!! なに言わせてんだよ!!」
彼女は立ち上がり、マヤのすねに軽く蹴りを入れた。
もちろん、彼には毛ほどのダメージも通らない。マヤは「あはは、痛ぇな」と全く痛そうではない顔で笑っている。
「いいから食え。お前、二人で四日分って言って買わせたじゃないか」
「だから、俺は木の実を食うから、クレマンが全部食えばいいじゃん。そしたらお前一人で八日分以上になるだろ?」
「……っ」
クレマンティーヌは、蹴り上げた足を下ろし、呆然と彼を見つめた。
こいつは、最初からそのつもりだったのだ。
自分は食わず、彼女にだけ腹いっぱい食べさせるために、あえて「二人分」と言って食料を買わせたのだ。
「……お前、本当に馬鹿じゃないのか」
クレマンティーヌは再び座り込み、干し肉を力強く噛みちぎった。
塩辛くて、硬い肉。けれど、その味はかつて法国の暗部として一人で齧っていた乾飯とは比べ物にならないほど、温かく、美味しかった。
「美味いか?」
「……うるさい。さっさと木の実でも拾ってこい」
悪態をつきながらも、彼女の口元は微かに綻んでいた。
自分を犠牲にしてでも、彼女に全てを与えようとする男。その不器用で真っ直ぐな愛情を、彼女はもう疑うことができなかった。
◇ ◇ ◇
それから、常識外れの旅が続いた。
休むことなく走り続けるマヤの背中で、クレマンティーヌは景色が次々と移り変わっていくのを眺めていた。時には街の近くで食料を買い足し、時には野営で炎を囲んだ。
そして、十日後。
巨大な城壁が連なる国境線――ローブル聖王国の領土が、ついに二人の視界に広がった。
「な? 着いただろ?」
マヤが背中のクレマンティーヌをそっと下ろし、屈託のない笑顔で振り返った。
その額には汗一つなく、息すら乱れていない。
クレマンティーヌは、広大な見知らぬ大地と、隣で笑う男を見上げた。
スレイン法国の追手は、もうここまでは届かない。あの息苦しい祖国も、狂気に満ちた過去の自分も、すべて遥か後方の彼方に置き去りにしてきた。
「……ああ。着いたな」
彼女は真紅のドレスの裾を揺らし、マヤの隣に並び立つ。
かつての『漆黒聖典・第九席次』としての自分は、完全に死んだ。今、ここにあるのは、ただのクレマンティーヌという一人の女だ。
この非常識で、優しくて、どうしようもなく強い男の隣。
それこそが、彼女がようやく見つけた、たった一つの『居場所』だった。
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――それから数週間後の、スレイン法国。
最高位の神官長たちが集う円卓の間は、重苦しい静寂と苛立ちに支配されていた。
事の始まりは、法国の最深部に安置されていたはずの最大秘宝『傾城傾国』の紛失だった。しかし、宝物庫には魔法的な解除の痕跡も、物理的な破壊の痕跡も一切残されていなかった。まるで、煙のように消え失せたのだ。
時を同じくして、漆黒聖典・第九席次であるクレマンティーヌの姿が見えなくなった。
彼女は元々単独行動を好む気まぐれな性格であったため、初動の捜査は致命的に遅れた。彼女の部屋には私物も残されており、計画的な逃亡の証拠すら見つからなかったからだ。
だが、数週間を費やし、ようやくリ・エスティーゼ王国の辺境の街で一つの噂を掴んだ密偵から、断片的な報告がもたらされた。
『――赤い、見たこともない異国の服を着た女と、謎の男の二人組がいた。女の特徴は、第九席次と酷似している』
密偵の報告を聞いた神官長たちは、深い混乱に陥った。
異国の服? 暗殺を生業とする彼女が、なぜそんな目立つ格好をしているのか。そもそも、王国の一般市民が『傾城傾国』のデザインなど知るはずもないため、それが国宝であるという確証すら得られない。
さらに、彼らを絶望的な迷宮へと突き落としたのは、その後の足取りだった。
『対象の二人組は、街の市場でわずか四日分の食料のみを購入し、徒歩で街を出た。馬車や騎獣を手配した形跡は一切なし』
「馬も使わず、たった四日分の食料……? 馬鹿な。それでは、遠くへなど行けるはずがない」
「間違いない。奴らはまだ、王国領内に潜伏している。あるいは、王国の裏組織『六腕』などが彼女を匿い、国宝ごと囲い込んでいるに違いない!」
追手たちは、極めて常識的で論理的な結論を導き出した。
しかし、スレイン法国とリ・エスティーゼ王国は、宗教的にも政治的にも水面下で激しく対立している関係だ。法国の暗躍部隊が、王国内で大々的な捜査網を敷くことなど不可能に等しい。
「裏組織に潜ったとすれば、捜索は困難を極める……いや、そもそもあの『異国の服の女』は、本当に第九席次だったのか?」
「謎の男とは一体何者だ? 彼女を唆した工作員か?」
何一つ確定事項がない。
人間が到達し得る物理的な移動速度の限界を遥かに超越した『規格外の怪物』が存在するなど、彼らの常識の範疇には存在しなかった。
完全に的外れな前提のまま、法国の追手たちは王国の広大な闇を相手に足踏みを続けることとなる。
捜査は完全に暗礁に乗り上げた。
こうして、スレイン法国の最高戦力の一角であったクレマンティーヌは、その足取りを永遠に絶ち、公式に『消息不明』となったのだった。