いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
十日間に及ぶ、常識外れの長旅が終わった。
アベリオン丘陵を背に、ローブル聖王国の国境としてそびえ立つ巨大な防壁――長城を遠目に迂回し、二人はついに人間の営みがある領土へと足を踏み入れた。
たどり着いたのは、長城からいくらか内陸に入った場所に位置する、小規模だが開けた辺境の村だった。
木組みと石造りの家屋が身を寄せ合うように並び、中央の広場には小さな市場の名残がある。スレイン法国の厳格な空気も、リ・エスティーゼ王国の腐敗した匂いもない。ただ、辺境特有の土と草の素朴な香りが風に乗って漂っていた。
村の入り口にある、古びたが清潔な宿屋。その一階の食堂で、二人はようやく腰を下ろすことができた。
「はぁ……っ」
クレマンティーヌは木製のテーブルに上半身を投げ出すように突っ伏し、深いため息を吐いた。
マヤの背負い走りによって、肉体的な疲労はほとんどない。足の裏に血豆一つできていないのだ。しかし、視界が弾け飛ぶような異次元の速度に耐え、いつ追手の手が伸びてくるか分からないというプレッシャーを抱え続けた十日間は、彼女の精神を限界まで削り取っていた。
『傾城傾国』の真紅のチャイナドレスも、彼女の疲労を隠すことはできない。黄金の刺繍が宿屋のランプの光を鈍く反射しているが、それを着る主はすっかり緊張の糸を切らしてだらけていた。
そんな彼女の向かいでは、相変わらず規格外の男が山盛りの食事と格闘していた。
「本当にうまいな、これ!」
マヤは木の実の入った温かいスープを飲み干し、分厚く切られた塩漬け肉を挟んだ黒パンを豪快に頬張っている。その顔には疲労の色など微塵もなく、ただ目の前の食事を無邪気に楽しむ子供のような輝きがあった。
「……干し肉よりはマシだな。お前は本当に、何でも喜ぶな」
クレマンティーヌはテーブルに頬をつけたまま、呆れたように彼を見た。
暗部の人間として、食事はただの栄養補給であり、味など二の次だった。だが、この男が満面の笑みで食べているのを見ていると、ただの塩気の強いスープすら、なんだか極上のご馳走のように思えてくるから不思議だ。
「こっちまで美味そうに見えるわ」
ぽつりと漏らした言葉に、マヤはパンを飲み込んでニカッと笑った。
「いい笑顔だぞ、クレマンティーヌ。……そうだ、これからさ、クレマンティーヌって呼ぶの長いだろ? ティーヌだけでよくないか? かわいいぞ」
「…………は?」
クレマンティーヌの動きがピタリと止まった。
頭の中で、彼の言葉がゆっくりと反芻される。
ティーヌ。かわいい。
「だ、誰がティーヌだ! クレマンティーヌだからって、ティーヌって安易すぎだろ! アホが!」
弾かれたように顔を上げ、クレマンティーヌは顔を真っ赤にして怒鳴った。
スレイン法国の最高戦力、漆黒聖典の第九席次を捕まえて、まるで愛玩動物か町娘のような愛称で呼ぶなど、本来なら即座に喉笛を掻き切ってやるべき不敬である。
しかし、彼女は武器を取るどころか、再びテーブルに顔を伏せてしまった。
(……うーん、悔しいな。悪くない、と思ってしまった)
暗殺者としての自分の名前には、血と悲鳴しか染み付いていない。だが、彼が呼ぶその短い響きには、ただ純粋な親愛だけが込められていた。それが無性に気恥ずかしく、心地よかった。
「しかし……悪くない旅だったな、と」
顔を伏せたまま、誰に聞かせるでもなく彼女は呟いた。
追手への恐怖も、過去のしがらみも、この男の隣にいると嘘のように薄れていく。
「そうか? まー、その辺はおいおい決めるか。今はとりあえず、うまい食事だな!」
マヤは全く気にする様子もなく、新しい肉の塊に手を伸ばした。
平和な時間だった。
このまま食事が終われば、久しぶりに柔らかいベッドで眠ることができる。クレマンティーヌがそう安堵し、冷めかけたスープに口をつけようとした、その時だった。
――カーン! カーン! カーン! カーン!
けたたましい鐘の音が、村の静寂を切り裂いた。
次いで、広場の方から悲鳴と怒号が沸き上がる。
「な、なんだ!?」
「亜人だ! 丘陵から亜人の群れが漏れ出てきやがったぞ!!」
食堂にいた村人たちがパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始めた。
宿の窓から外を覗き込むと、夕闇が迫る村の入り口に、醜悪な緑色の小鬼――ゴブリンの群れがなだれ込んでくるのが見えた。
手には錆びた鉈や粗末な棍棒を握り、涎を垂らしながら獲物を物色している。数にして十匹程度。アベリオン丘陵の本格的な侵攻部隊というわけではなく、長城の警備の網目をすり抜けてきた小規模なはぐれ集団のようだった。
とはいえ、武装もろくにしていない村人たちにとっては、全滅を意味する死の軍勢に等しい。
「……チッ、どこの国も辺境は面倒だな」
クレマンティーヌは舌打ちをし、冷めたスープの木組みの器をテーブルに置いた。
せっかくの休息を邪魔された怒りと、巻き込まれることへの苛立ち。
「おいマヤ、お前も少しは働け――」
振り返り、隣に座る規格外の男に声をかけようとして、彼女はピタリと口を閉ざした。
マヤは肉を咀嚼しながら、「ん?」と首を傾げている。
もしここで、この男にゴブリンの討伐を任せたらどうなるか。
クレマンティーヌの脳裏に、彼が放つ理不尽な力の奔流が村の地形ごとゴブリンを消し飛ばし、結果として聖王国の軍隊がすっ飛んでくるという絶望的なビジョンが鮮明に浮かび上がった。
「……いや、待て。ゴブリン十匹程度。お前は座ってろ。この程度、私がやった方が早い」
「お、そう? じゃあ任せた」
マヤはあっさりと引き下がり、呑気に食後のハーブティーを啜り始めた。完全に観客の態度である。
クレマンティーヌは深いため息をつき、立ち上がった。
真紅のドレスの裾が翻る。
彼女は自分の懐に隠し持っている専用の武器――スティレット(刺突剣)に触れ、すぐに手を離した。
(もう、漆黒聖典じゃないんだからな)
自嘲気味に笑う。
「ふっ・・・」
食堂の扉を蹴り開け、外の広場へと出る。
そこでは、村の若者たち数人が構成する自警団が、震える足でゴブリンの群れと対峙していた。
彼らの手にあるのは、刃こぼれした鉄の剣や、先端を削っただけの木槍。対するゴブリンたちは、血の匂いに興奮し、不快な鳴き声を上げながらジリジリと距離を詰めている。
「ひ、ひぃぃっ……!」
先頭に立っていた若い自警団員が、恐怖のあまり腰を抜かしてへたり込んだ。
その手から、粗末な剣がカラクリと音を立てて地面に落ちる。
ゴブリンの一匹が、格好の獲物を見つけたとばかりに鉈を振り上げ、若者へと跳躍した。
若者が絶望に目を閉じた瞬間。
「ゴブリン十匹程度だと? 舐めてんのかぁ?」
冷酷で、ひどく機嫌の悪い女の声が響いた。
直後、へたり込んだ若者の横を、真紅の風が通り抜けた。
「その武器、貸せ」
クレマンティーヌは、地面に落ちていた粗末な鉄の剣を足の甲で跳ね上げ、空中で柄を掴み取った。
そのままの勢いで踏み込み、宙を舞うゴブリンの懐へと潜り込む。
刃こぼれしたなまくら剣。
しかし、英雄の領域にある彼女の腕力と絶妙な刃筋のコントロールにかかれば、それは十分な凶器へと変貌する。
――シュッ。
風を切る音すら置き去りにするような、極小の動き。
武技すら使っていない。ただの純粋な身体能力による一閃。
振り上げられたゴブリンの右腕が、鉈ごと宙を舞い、次いで首が胴体から滑り落ちた。
「ギャ……?」
血飛沫が上がる前に、クレマンティーヌは既に次の獲物へと視線を向けていた。
「さぁて、食後の運動だ。少しは楽しませてくれよ?」
彼女の顔に、かつて暗殺者として見せていたような狂気の笑みはない。
あるのは、圧倒的な強者としての余裕と、ただの羽虫を払うような冷徹さだけだった。
「ギギギギィッ!!」
仲間を殺され激昂したゴブリンたちが、一斉に彼女へと群がる。
だが、彼らの目には彼女の動きなど到底捉えられない。
深いスリットの入った真紅のチャイナドレスが、夕闇の中で華麗に舞い踊る。
右へステップを踏みながら、一匹の胴体を両断。
振り向きざまに、背後から迫る一匹の眉間を柄頭で打ち砕く。
血飛沫を避けるように軽やかに跳躍し、空中で身を翻しながら、足元の三匹の首を流れるような剣舞で刈り取る。
それは、殺戮というよりは芸術的な舞踊に近かった。
黄金の刺繍が施されたドレスが翻るたびに、ゴブリンの命が刈り取られていく。
なまくら剣であるはずの刃は、彼女の手の中で決して止まることなく、最も抵抗の少ない骨の継ぎ目や筋肉の薄い部分を的確に斬り裂いていた。
「あ、あと三匹か。つまんないの」
クレマンティーヌが退屈そうに首を鳴らした時、残った三匹のゴブリンは完全に戦意を喪失していた。
彼らの本能が、目の前の女が絶対に逆らってはいけない理外の存在であることを理解したのだ。
武器を放り出し、悲鳴を上げながら村の外へと逃げ出そうと背を向ける。
「逃がすわけないだろ」
クレマンティーヌは手にした鉄の剣を、投擲の構えで振りかぶった。
鋭い呼気と共に放たれた剣は、矢のような速度で空を裂き、逃げ惑うゴブリンのうち二匹を串刺しにして地面に縫い付けた。
残る一匹が長城の方角へ向けて走り続けるが、クレマンティーヌは焦ることもなく、ドレスの裾から覗く白い脚を振り上げた。
足元に転がっていたゴブリンの鉈を、サッカーボールのように蹴り飛ばす。
回転しながら飛来した鉈は、最後の一匹の後頭部に深々と突き刺さり、その命を絶った。
静寂が、広場に舞い戻った。
戦闘開始から、わずか数十秒の出来事である。
「あーあ、食後の運動にしちゃあ、少し汗かいたな」
クレマンティーヌは息一つ乱さず、真紅のドレスについた埃を軽く払った。
彼女の体にも、華麗なドレスにも、返り血一滴すら付着していない。
周囲を見渡すと、腰を抜かした自警団の若者も、隠れて様子を見ていた村人たちも、全員が声を発することなく彼女を見つめていた。
その目にあるのは、恐怖ではない。
圧倒的な美しさと力に対する、深い畏敬の念だった。
夕陽を背にして立つ彼女の姿は、彼らにとって絶望の淵から救い出してくれた『戦乙女』そのものに他ならなかった。
「……おい、そこの」
クレマンティーヌが、腰を抜かしている若者に声をかけた。
「ひ、ひぃっ! は、はいっ!」
「これ、返しとく。少し刃が欠けちゃったけどな」
彼女はゴブリンを串刺しにした剣を引き抜き、軽く血を振ってから若者の足元に放った。
そして、唖然とする村人たちを気にも留めず、スタスタと宿屋の方へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
その後、村はすぐさま感謝と歓喜の渦に包まれた。
村の長老や宿屋の主人が平伏する勢いで礼を言い、結果として二人はこの村で一番良い部屋を無料で提供されることになった。
質素だが清潔なシーツが敷かれたベッドが二つ並ぶ部屋。
窓からは、すっかり夜の帳が下りた村の静かな風景が見える。
部屋に入るなり、クレマンティーヌはドサリとベッドに身を投げ出した。
「はぁー……疲れた。なんで私がお人好しみたいな真似しなきゃならないんだか」
「ティーヌ、なかなかやるじゃないか」
窓辺に寄りかかっていたマヤが、感心したような声を出した。
「切れ味の悪そうな剣をうまく使ってたな。それに、凄く美しかったぞ」
「だ、だから誰がティーヌだ!」
ベッドから顔だけを上げ、クレマンティーヌは彼を睨みつけた。だが、その声には怒りよりも照れ隠しの色が濃い。
「まー、ゴブリン程度こんなもんだ。あんななまくら剣じゃ、オーガや上位の獣人が相手だと少し骨が折れるけどな」
彼女は自分の手を何度か握り、剣の感触を確かめるように呟いた。
これまで頼り切っていたスティレットの感触は、もうそこにはない。
「……明日、この村か近くの街で、ナイフと剣を売ってる場所があれば買いに行こう」
「新しい武器か? 前のやつは使わないのか?」
「ああ。あれはもう……今の私にはしっくりこないんだよ」
クレマンティーヌは静かに目を伏せ思いはせる。
そう・・・ただの一人の戦士としての刃が欲しい。
そんな決意を込めた彼女の横顔を見て、マヤは柔らかく微笑んだ。
「そっか。じゃあ、さっきの綺麗な動きに、もっと磨きがかかりそうだな!」
マヤの屈託のない言葉に、クレマンティーヌはふいっと顔を背け、枕に顔を埋めた。
彼の何気ない一言が、いつも彼女の心の奥の柔らかい部分を正確に射抜いてくる。
「……うるさい、もう寝る。明日は早いんだからな」
「おう、おやすみティーヌ」
「ティーヌって呼ぶな!」
くぐもった声で叫びながらも、彼女は目を閉じた。
恐ろしい追手の影も、血生臭い暗殺の記憶も、今夜は決して彼女の夢を邪魔することはないだろう。
窓の外から聞こえる風の音すらも、今はただ心地よい子守唄のように感じられた。