いつのまにか、聖女?どうしてこうなった? 作:マイナーチョコ
アベリオン丘陵の境界に近い、見晴らしの良い平原の片隅。
巨大な岩肌が風除けとなるその場所に、二人の野営地はあった。
日が完全に落ち、満天の星が夜空を埋め尽くす頃。
パチパチと爆ぜる焚き火の炎が、真紅のチャイナドレスと、漆黒のレザーコートを赤く照らし出していた。
鍋の中で煮える野鳥の肉と香草の匂いが、周囲に漂う。
マヤは太い薪をへし折って火にくべながら、ふと顔を上げた。
視線の先は、漆黒の闇に沈むアベリオン丘陵の稜線である。
「……なぁ、クレマンティーヌ」
「なんだ。まだ肉は煮えてないぞ」
「いや、飯じゃなくてよ。なんか、あっちからデカいのが来るぞ。三つ」
マヤが親指で丘陵の方角を指差す。
クレマンティーヌは眉をピクリと動かし、腰の直剣に手を当てながら耳を澄ませた。
数秒後、ずしん、ずしんという重い地響きが、微かに、だが確実に足の裏に伝わってくる。木々が乱暴に薙ぎ倒される音と、ひどく獣臭い風が流れ込んできた。
ゴブリンやバフォルクの群れではない。
それは、純粋な質量と暴力の塊が接近してくる気配だった。
「オーガ……いや、トロールも混ざってるか。チッ、長城の連中は何をやってるんだ」
「結構デカそうだな。俺がやろうか?」
マヤが腰を上げかけた瞬間、クレマンティーヌは鋭い声でそれを制した。
「座ってろ」
「お?」
「お前が手を出したら、この岩ごと吹き飛んで今日の寝床がなくなる。私がやる。新しい剣の試し斬りには丁度いい」
呆れたように言い捨て、彼女は立ち上がった。
新しい直剣とナイフの重みが、腰骨に心地よく乗っている。
彼女が歩みを進め、野営地から数十メートル離れた平原の中央に立った時、闇の中から巨大なシルエットが姿を現した。
身長三メートルを超える、筋肉の塊のような二体のオーガ。
そして、その後ろから現れたのは、さらに一回り巨大な、全身に醜悪なイボを張り巡らせたトロールだった。
鼻をつくような強烈な体臭と、再生能力を持つ魔物特有の腐敗臭が風に乗る。
『ギ、ギルルルル……ッ!』
焚き火の明かりと、真紅のドレスを着た細身の女を見つけ、オーガたちが涎を垂らしながら咆哮を上げた。
彼らの手には、大木をそのまま削り出したような巨大な棍棒が握られている。
圧倒的な体格差。
だが、クレマンティーヌはドレスの裾を揺らす夜風を浴びながら、涼しい顔で腰の剣を抜いた。
シャッ――。
澄んだ鋼の音が、夜の平原に響く。
右手にオーソドックスな直剣。左手に分厚い刃を持つナイフ。
逆手に持ったナイフを顔の前に掲げ、直剣を腰の高さに寝かせる、彼女特有の二刀の構え。
「さて。食前の運動だ、少しは保たせろよ」
その声に反応したのか、先頭のオーガが目を血走らせ、怒号とともに大地を蹴った。
地響きを立てて迫り来る巨体。
クレマンティーヌの細い身体を丸ごと粉砕せんと、丸太のような棍棒が脳天に向かって真っ直ぐに振り下ろされる。
風が爆ぜるような轟音。
だが、彼女は回避のステップを踏まなかった。
「『不落要塞』」
世界に刻まれた理を呼び起こすように、彼女はその名を口にした。
右手の直剣を斜めに跳ね上げ、棍棒の軌道に割り込ませる。
ドゴォォォォォンッ!!
激しい衝突音と共に、クレマンティーヌの足元を中心に、すり鉢状に大地が陥没した。
土煙が舞い上がり、衝撃波が周囲の草を薙ぎ払う。
人間の力では到底受け止めきれないはずの圧倒的な質量攻撃。しかし、土煙が晴れた後、そこには信じられない光景があった。
彼女の細い腕は一切ブレることなく、直剣の腹で巨大な棍棒を完全に受け止めていたのだ。
一部の天才のみが至る防御武技の絶頂。相手の破壊エネルギーを完全に相殺する、絶対の盾。
『ガ……!?』
己の全力の一撃が、虫ケラのような女に片手で止められた。
オーガの小さな脳髄がその事実を理解できず、動きが完全に硬直する。
「隙だらけだ」
クレマンティーヌの唇から、冷たい吐息が漏れた。
「『能力超向上』」
「『疾風走破』」
「『流水加速』」
三つの高度な武技が、淀みなく同時発動される。
瞬間、彼女の身体能力は人間の限界領域を遥かに突破し、英雄の次元へと跳ね上がった。
心臓の鼓動が爆発的に加速し、世界の時間の流れが泥のように遅くなる。
「――ふっ!」
地面を蹴った。
その瞬間、クレマンティーヌの姿が「ブレた」。
オーガの視界から真紅のドレスが完全に消失する。
『ギ?』
オーガが棍棒を振り上げたまま首を巡らせた時、彼女は既にその背後に回り込んでいた。
超高速の移動に引っ張られた空気が、遅れて突風となって吹き荒れる。
直剣が、銀色の残像を描いた。
圧倒的な加速を乗せた一閃が、オーガの両足のアキレス腱を寸分の狂いもなく切断する。
『ギャアアアアッ!?』
絶叫と共にバランスを崩し、前のめりに倒れ込む巨体。
その倒れゆく頭部に向かって、クレマンティーヌは左手のナイフを無慈悲に突き出した。
分厚いナイフの刃が、眼球を貫き、頭蓋の奥にある脳髄を正確に破壊する。
一体目、沈黙。
血飛沫が上がるよりも早く、彼女は地面を蹴って跳躍していた。
「次」
二体目のオーガが、仲間の死に激昂して腕を振り回す。
だが、武技のコンボによって神速の領域にあるクレマンティーヌにとって、それは止まっているのと同じだった。
宙を舞いながら、彼女は直剣をオーガの太い腕に滑らせる。
斬る、というよりは、刃に相手の力を乗せて「削ぐ」動き。
剣閃が幾重にも交錯し、一瞬にしてオーガの腕の筋肉がズタズタに切り裂かれた。
武器を落とし、苦悶の声を上げるオーガの胸板に、彼女は着地と同時に踵を叩き込む。
巨体が大きく仰け反った隙を逃さず、直剣が下から上へと跳ね上げられた。
顎の裏から脳天へ。
鋼の刃がオーガの頭部を貫通し、二体目がドス黒い血を吐き出して絶命する。
残るは、最後方に控えていたトロールのみ。
『ゴルルルルァァッ!!』
高い知能と再生能力を持つトロールが、仲間の死を前にして警戒を強め、巨大な両腕で自身の顔と首を庇うように構えた。
だが、クレマンティーヌの歩みは止まらない。
彼女は深く息を吸い込み、一直線にトロールの正面へと突撃した。
防壁のように構えられた分厚い腕。そこに、直剣による刺突の雨が降り注ぐ。
ガキン、ガキン、ガキンッ!
鉄と鉄がぶつかるような硬質な音が連続して響く。
常人ならば弾き返されるほどの硬度を持つトロールの皮膚。しかし、彼女の『流水加速』が乗った連撃は、一つの点にのみ正確に集中していた。
「そこだ」
腕の筋肉の隙間、装甲の薄い関節部。
ナイフが楔のように突き立てられ、トロールの防御をこじ開ける。
その一瞬の隙に、彼女の身体がコマのように回転した。
遠心力と神速の武技をすべて乗せた、直剣のフルスイング。
真紅のドレスが夜空に円を描き、白銀の刃がトロールの太い首を一閃する。
トロールの強力な再生能力が働くよりも早く。
巨大な頭部が、胴体から切り離されて宙を舞った。
ドスーン、と。
三つの巨体が、完全に生命活動を停止して地面に沈む。
「……ふぅ」
クレマンティーヌは武技を解除し、直剣についた血を鋭い素振りで払い落とした。
息一つ乱れていない。
ドレスの裾には、一滴の返り血すら付着していなかった。
敵をいたぶり、絶望する顔を見て歓喜する。そんなかつての歪んだ熱は、今の彼女にはない。
ただ、野営の邪魔者を排除した。
この静かな夜を守るための、当たり前の作業。
その当たり前な感覚が、今の自分にはどこか心地よく、悪くないと思えた。
直剣とナイフを鞘に収め、彼女が野営地の方へと振り返った、その時である。
「おーい!!」
ドタドタドタッ、と。
大柄な男が、焚き火のそばから目をキラキラさせて全力で走ってきた。
「おいティーヌ!! なんだ今の!!」
マヤはオーガの死体をまたぎ越え、クレマンティーヌの目の前まで来ると、興奮した子供のように身を乗り出してきた。
「お前、急に動き変わったな!? なんだあの、ガキィンって止めるやつ! そんでシュバババッて動くやつ! すっげぇかっこいいじゃん!!」
「は……?」
クレマンティーヌは、呆気にとられて男の顔を見上げた。
地形を変えるほどのデタラメな力を持ち、自分など指先一つでひねり潰せるであろう存在。それが、人間の技術である武技を見て、大はしゃぎしているのだ。
「なんだ今のって……。武技だろ、武技。見れば分かるだろ」
「ぶぎ? なにそれ!」
「……は?」
「俺、そんなの初めて見たぞ! なんかすげぇピカッてなって、超速かった! もう一回、もう一回あの止めるやつやって見せてくれよ!」
マヤは本気で目を輝かせ、彼女の肩をバンバンと叩いている。
クレマンティーヌは、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「……お前、本気で言ってんのか? どの世界から来たら、武技も知らないでそんなバケモノみたいに育つんだよ」
「いいから! 俺にもできるかな、あの『ぶぎ』!」
「無理に決まってるだろ。お前がやったら別の意味で世界が壊れる」
呆れ果ててため息をつく。
だが、不思議と不快感はなかった。
純粋な強さの証である技を、これほどまでに真っ直ぐに「かっこいい」と称賛されたことなど、暗部として生きてきた彼女には一度もなかったからだ。
「……バカ言ってないで、戻るぞ。肉が焦げる」
「えー、ケチだな。ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃんかよ」
マヤが唇を尖らせて文句を言う。
クレマンティーヌはそれを無視して、焚き火の方へと歩き出した。
「お前に教えることなんか何一つない。……ほら、早く来い。冷めるだろ」
背中越しにそう言うと、彼女の口元には、自分でも気づかないほど自然で、柔らかい笑みが浮かんでいた。
死体の転がる血生臭い平原。
だが、二人の間に流れる空気は、どこまでも温かく、穏やかだった。