もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2020年8月9日 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation
与圧服の中で、呼吸だけが規則正しい音を立てていた。前席のケンは計器の並びを一度なぞり、姿勢、速度、高度、エンジン各部の指示をそれぞれ確認する。窓の外では、空の青がすでに紺色へ近づき、地表からの光が薄れ始めていた。ヘルメット越しの呼吸音とグローブ越しのスイッチの感触は、もう体の一部のように馴染んでいる。
左後方には、上昇を共にしてきたLightningの機影がある。整備と改修を積み重ねた今のLightningは、80,000ftまでなら随伴できる。ライアンがこの高度までN1047QTへ随伴するのは初めてではなく、その先はいつも二人だけで進んできた。両機の間隔は、これまでの飛行と変わらず一定に保たれていた。ケンは計器の合間に、右後方の白い機影と、それに寄り添うベアメタルの機影を一度だけ確かめた。
十二年前、ケンとエリヤが整備会社を一つ買ったところから始まった歩みは、今この一機の中に集約されている。人を育て、部品と工具と資料をそろえ、記録を残す。派手な瞬間は一つもなかった。それでも、その積み重ねがなければ、この高度に人を乗せて飛ばすことはできなかった。
高度計は79,000ft台を示していた。もうすぐ、Lightningの随伴限界高度に届く。
後席で、エリヤが小さく息を吐いた。窓の外の青は、もう地上で見る青とは別のものになっている。光は薄く、澄んで、余計なものが何一つない。
「近いな」
報告の口調ではなかった。ケンにはそれだけで、何が近いのか分かった。この高さはいつも、エリヤを同じ場所へ連れていく。
「今日も来たか」
「毎回来る。慣れるものじゃない」
エリヤの声に、笑いも照れもなかった。ただ静かな確信だけがある。信仰と業務は、彼の中では矛盾しない。むしろ、この高さまで来て何も感じない方が、彼にとっては不自然だった。
「高山病だとは言わせない」
「言ってない」
ケンは短く返し、口の端をわずかに緩めた。何度も繰り返されてきたやり取りだった。
高度計が80,000ftに触れる。ちょうどそのとき、無線にライアンの声が入った。
「ケベック・タンゴ、Lightning離脱。以後はテレメトリーと地上からの情報に切り替える」
「了解した」
Lightningが右下方へ機体を傾け、離れていく。磨き上げられたベアメタルの機体が朝の光を弾き、白いN1047QTの機影から急速に離れていった。
「神様が見送ってくれたな」
ケンはそれだけ言った。エリヤは短く笑い、すぐに表情を戻す。
「見送ったのはライアンだ」
「両方だろう」
軽口はそこまでだった。ケンは視線を計器へ戻し、エリヤも後席のコンソールへ向き直る。後席のエリヤは燃料圧力、燃料残量、APU状態、電圧、機体各部の温度と振動を順に追い始めた。翼端の増槽に内蔵されたロケット補助推進機は、まだ点火前だった。使うのはこれからだ。APUは離陸前から連続運転を続け、発電機と油圧ポンプを駆動し、FBWと計測装置へ電力を送り続けている。地上を離れてからここまで、APUが一度でも止まったことはなかった。
80,000ftから先、報告は淡々と積み重なっていった。エリヤの声はいつもの平坦な報告口調に戻っていたが、その奥にはまだ、さっきの静けさの名残がわずかに残っていた。彼はそれを言葉にしなかった。今は、それを言葉にすべき局面ではない。
90,000ftを過ぎたところで、ケンは翼端ロケットの点火を指令した。両翼端で短い閃光と振動が走り、機体を押し出すような加速が伝わる。薄くなる動圧の中をJ79だけで押し上げるより、蓄えた運動エネルギーで高度を稼ぎ、最後は惰性で目標へ届かせる。それが今日の試験カードの前提だった。
高度計は98,000ft台を示していた。前回の承認到達高度は99,000ft。今日の試験カードが求めているのは、その500ft上、99,500ftへの到達だけだ。もう少し上へ。ただそれだけの数字が、ここまでの十年と、これから先の予定を分けている。
「ケベック・タンゴ、地上。テレメトリー受信良好、高度98,500、上昇率安定」
飛行試験統制席のマギーの声は、いつもと変わらず抑揚が少ない。試験中の指揮系統を一手に預かる立場でありながら、必要な時に必要なことしか言わない人だった。管制卓の周りには、計測担当のプリヤをはじめとする地上技術席が並び、機上と同じ数字をそれぞれの画面で追っている。滑走路脇の格納庫では、整備班がいつもどおり次の点検の準備を進めているはずだった。彼らにとって、この飛行はまだ数ある試験の一つに過ぎない。
「了解。上昇継続」
エリヤが応じ、ケンは操縦桿には触れず、機首上げ姿勢とスロットル位置だけを保った。この高度では、空気はすでに地上とは別のものになっている。動圧は薄く、主翼と全遊動式水平尾翼が受け止める空気の量はわずかだ。機首と尾部に配置されたRCSノズルは、まだ小刻みな補正噴射しか行っていない。空力操縦面がまだ仕事をしている証拠だった。
窓の外の青は、もう空と呼べる濃さを失いかけていた。地表の輪郭が薄い靄の向こうに沈んでいく。ケンはこの眺めのために飛んでいるわけではないと自分に言い聞かせている。
翼端ロケットの推力表示が、静かにゼロへ落ちた。
「翼端ロケット、両側とも燃焼終了。予定どおり」
エリヤの報告に迷いはない。ここから先は、蓄えた運動エネルギーとJ79の推力だけで登ることになる。
「燃料圧力、正常範囲。APU運転継続、電圧正常、火災表示なし」
エリヤの報告は簡潔だった。ケンはそれだけを聞き、余計な確認を挟まない。整備兵として叩き上げてきたエリヤにとって、必要なのは事実の受け渡しだけであって、それを飾る言葉ではなかった。空腹や睡眠不足を隠して勤務に就く者を誰よりも嫌ってきたエリヤは、自分自身の状態についても、正直な報告を怠らない。
「ケベック・タンゴ、地上。高度98,700、機体系統に異常兆候なし」
プリヤの声が短く入る。エリヤはその数字を自分の表示と照合し、差がないことだけを確かめた。地上と機上、二つの記録が同じ数字を指している限り、まだ疑うべき理由はない。
高度計が99,000ftを超える。前回、上昇を止めた高さだ。今日はまだ、止める理由がどの計器にも出ていない。
「99,000突破。以後は未到達域」
ケンが短く告げる。エリヤは記録装置の作動を確認し、無言でうなずいた。ここから先は、これまでのどの飛行記録にも存在しない高度だ。窓の外では、地平線がわずかに弧を描き始めている。
翼端の増槽は両側とも機体に付いたままで、燃焼を終えた分の重量が失われている。機体の重心はわずかに動いているはずだが、燃料移送系統の表示はいずれも正常範囲内を示していた。エリヤはその数字を疑う理由を持たない。降下してから確かめればいい数字と、今この瞬間に確かめなければならない数字を、彼は区別していた。
これまでの高度拡大では、500ftごとに機体点検、記録解析、操縦士所見の評価を挟んできた。今日もその延長線上にある一飛行のはずだった。ただ数字が一つ増えるだけだ。
Lightningはすでに高度を落とし、待機空域へ入っている。ライアンは無線を控え、テレメトリーの一員として画面越しに二人を追う立場に変わっていた。声を出すべき局面は、まだ来ていない。
「ケベック・タンゴ、地上。高度99,100、機体各部温度に有意な変化なし」
プリヤの声が短く入る。エリヤはその数字を自分の表示と照合し、差がないことだけを確かめた。まださっきの静けさの名残を、胸の奥に残したまま。
そのすぐ後、エリヤの目がエンジン計器の並びで止まった。名残は、その瞬間に跡形もなく消えた。彼の意識は、完全に計器と事実の側へ戻っている。
「EGT、下がってます」
声に力みはなかったが、これまでとは違う種類の報告だった。ケンは計器パネルの一角へ視線を移す。排気温度計の針は、ゆっくりと、しかし確実に下がり続けていた。
「回転数は」
「こちらも緩やかに低下中。燃料流量の表示に大きな変化はなし」
エリヤは数字を読み上げながら、頭の中でセンサー故障の可能性を最初に検討した。だが二つの計器が同じ方向へ、同じ速さで動いている。片方だけの故障では説明がつかない動きだった。
99,200。スロットルレバーの位置は変わっていないのに、背中を押す感触がわずかに軽くなっていることに、ケンは気づいた。機体を通じて伝わってきたエンジンの唸りも、少しずつ遠くなっていくようだった。
「推力、落ちてます」
ケンは短く告げた。エリヤはその言葉を待っていたかのように、すでに次の確認へ移っていた。
「EGT低下継続。回転数、さらに低下。原因は未確認」
「ケベック・タンゴ、地上へ報告。エンジン推力に低下の兆候。原因未確認、状況を継続監視する」
ケンの声に、これまでと変わらない抑揚のなさを保とうとする意志が滲んでいた。地上のマギーが応答するまで、わずかな間があった。
「了解した。APUの状態は」
「APU、運転継続。電圧、油圧とも正常」
エリヤが即座に答える。主エンジンが力を失っても、APUが生きている限り、FBWも計測も止まらない。少なくとも今はまだ、飛行を続けるための土台は残っていた。
99,300。エンジンの音は、ほとんど聞こえなくなっていた。回転計の針は、まだ完全なゼロではないが、それに近い位置まで落ちている。
「主エンジン、推力実質ゼロと判断」
ケンの報告に、迷いはなかった。フレームアウトという言葉を、まだ口には出していない。断定するにはまだ早い。だが、事実だけを積み重ねれば、そう呼ぶべき状態に近づいていることは、二人ともわかっていた。
「フレームアウトの可能性がある。高度は追って確認する」
エリヤが付け加えた。正確な高度を今この場で言い切ることはできない。それは降りてから、記録を読み解いて初めてわかることだ。今言えるのは、エンジンが仕事をしていないという一点だけだった。
エンジン推力を失っても、機体はまだ上昇を続けていた。この高度に達するまでに与えられた速度と上昇角が、そのまま慣性となって機体を押し上げている。おかしなことではない。むしろ、この高さでは当然の振る舞いだった。機首と尾部のRCSノズルが小刻みな噴射を続けているが、それは姿勢を保つためのものであって、進行方向そのものを変えるほどの力は持っていない。高度計の数字は、推力を失った今も、なお静かに上がり続けている。
「ケベック・タンゴ、地上。高度99,400、エンジン状態の報告を確認。継続監視とする」
マギーの声は、依然として抑揚が少ないままだった。だが、その言葉の選び方が、これまでよりわずかに慎重になっていることに、エリヤは気づいていた。地上では、マギーが自分の画面とプリヤの画面を交互に見ながら、二つの数字がまだ同じ方向を向いていることを確かめていた。試験を止める基準はあらかじめ決められている。今の状態は、その基準の手前で揺れているだけだ。だが手前であることと、安全であることは同じ意味ではない。マギーは共同所有者であるケンとエリヤに対しても中止を宣言できる立場にあるが、その権限を軽々しく使う人ではなかった。
「RCS圧力、両系統とも表示は正常範囲」
エリヤが付け加える。少なくとも姿勢制御の力そのものは失われていない。推力を失った機体にとって、それだけが頼れる数少ない事実だった。
迎角を示す小さな指示計の針も、これまでの飛行より早いペースで動き始めている。角度そのものはまだ設計上の許容範囲に収まっているが、変化の速さがこれまでと違う。ケンはその針の動きを視界の端に置きながら、主計器から目を離さなかった。
「エリヤ、姿勢は」
「表示上は正常。ピッチ、ロールとも指令どおり」
「機体の反応が遅れている」
ケンの声に変化はなかった。ただ、事実を一つ増やしただけだ。エリヤは計器を確認し、報告を重ねる。長年、飛ばし続けるための組織を作ってきた二人にとって、慌てて声を荒げることは、事実を見誤る一番早い道だと知っていた。
マッハ計の数字も、わずかに落ち着かない動きを見せ始めている。速度そのものが急に変わったわけではない。空気が薄くなるにつれ、同じ対気速度でもマッハ数の意味が変わっていく高度領域に、推力を失った機体は入り込んでいた。ケンはその変化を織り込み済みの範囲として扱い、スロットルには手を加えなかった。加えたところで、今は応えるものがない。
99,500ftまで、あと数十フィート。目標高度が目前に近づいたその時、機首がわずかに、しかし明確に上向きへ流れ始めた。ケンはスロットルと姿勢を維持したまま、機首下げの入力を加えた。FBWがその指令を受け取り、操縦面へ伝える。
機首は下がらなかった。
「機首下げ入力、応答なし」
ケンは入力を繰り返す前に、まず事実だけを告げた。エリヤは表示を確認する。
「FBW、指令受信を確認。作動表示は正常」
指令は出ている。操縦面も動いているように見える。それでも、機体の姿勢だけが指令に応じていない。ケンはもう一度、より大きな機首下げを指令した。機体はわずかに反応したが、すぐにまた迎角を増す方向へ戻っていく。RCSの噴射音がかすかに機体を通じて伝わってきたが、それも姿勢を押しとどめるほどの働きはしていないようだった。
「迎角の表示は」
「増加を継続。数値は表示するが、確定値としては読まない」
エリヤはあえてそう言い添えた。表示された数字を口にすることと、それを事実として扱うことは別だ。二人がこれまでの試験飛行で繰り返し確かめてきたのは、まさにその区別だった。ケンは短く「了解」とだけ返し、スロットルにも姿勢指令にも、余計な動きを加えなかった。
機体は水平飛行の感触から、明らかに外れた挙動を見せ始めている。それでも計器の並びは、まだ致命的な異常を一つも示していない。事実だけを積み重ねれば、今はまだ「様子を見る」段階のはずだった。ケンはその判断を疑いながらも、まだ覆さなかった。座席を通じて伝わる振動が、これまでのどの試験とも違う周期を刻み始めていることに、ケンは気づいていた。
窓の外では、地平線の弧がさらにはっきりと見えている。ケンはその景色に見とれる余裕を自分に許さなかった。今この瞬間、大事なのは目の前の数字と、機体がそれにどう応えているかだけだ。
「通常の入力では戻らない」
ケンの言葉に、エリヤは短く「了解」とだけ返した。二人とも、まだ原因は口にしない。地上へ告げるべき言葉も、まだ確定していない。
「ケベック・タンゴ、地上。高度、上昇率とも表示に乱れあり。状況報告求む」
マギーの声に、これまでとわずかに違う張りが混じった。地上のテレメトリーにも、機上と同じ違和感が届き始めている。管制卓では、誰かがすでに救難消防と滑走路の状態を確認する動きに入っていたが、その声はまだ機上へは届いていない。
「機首下げ入力に対する機体応答が不足している。原因は未確認」
ケンは短く答えた。声を荒げることも、結論を急ぐこともしない。
「了解。継続監視する」
マギーの返答は短かった。中止を告げる言葉ではない。だが、それを告げる一歩手前まで来ていることは、ケンにも伝わった。管制卓の隅では、プリヤが記録装置の受信状態を一段深く確認し始めている。何が起きるにせよ、その全てを取りこぼさずに残すことが、彼女の役目だった。
ケンはもう一度、姿勢指令の履歴を頭の中でたどり直した。入力は指示どおりに送られ、FBWも指示どおりに受け取っている。それでも機体だけが、指示された姿勢へ戻ってこない。原因を今この場で決めつけるつもりはないが、少なくとも一つだけ確かなことがある。これは操縦入力の誤りでは説明できない。
「エリヤ、燃料移送は」
「タンク間の偏りは表示上正常範囲。共通供給系統の圧力にも異常なし」
エリヤの声にも、まだ結論を急ぐ響きはなかった。表示されている数字を疑う材料は、今のところどこにもない。
エリヤは続けて、電圧と各部温度の推移も読み上げた。どちらも直前の報告からほとんど動いていない。エンジン推力の喪失はすでに報告済みの事実だ。今新たに積み上がっているのは、それとは別の、姿勢と迎角という一点だった。
「マギー、これは通常の逸脱範囲を超えている」
ケンが初めて、事実の報告ではなく判断の言葉を口にした。マギーは一拍おいてから応じる。
「了解。試験カードの継続可否を検討する」
検討するという言葉は、まだ中止でも継続でもない。だがそれは、これまでのどの飛行でも使われたことのない言葉だった。エリヤはその変化を聞き取りながらも、声には出さなかった。
今わかっているのは、これまで何十回と繰り返してきた五百フィートごとの試験で使ってきた手順が、この高度ではもう通用していないという一点だけだった。
高度計の数字だけが、それでもまだわずかに上がり続けていた。エリヤは記録装置の残り容量を確認し、無言でうなずいた。何が起きているにせよ、その全てをこの機体は記録し続けている。