もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2009年から2013年 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
最初の一社を立て直してから、二人が次にしたことは、立ち止まることではなかった。給与が正常化し、現場に余裕が戻り始めると、ケンとエリヤはすぐに次の一手を探し始めた。整備会社を一つ立て直せたのなら、同じやり方を、他の会社にも広げられるはずだった。肉とガンボの夜に交わした「次の節目にも、こうやって集まろう」という約束は、この数年、何度も繰り返されることになった。
2009年、経営に行き詰まっていた部品メーカーを一社買収した。翌2010年には、老朽化した製造治具と工作設備を抱えたまま後継者を失っていた小さな工場を引き受けた。2011年には航空電子機器を扱う会社、2012年には物流と保管を専門とする会社が加わった。買収のたびに、ケンとエリヤが最初にしたことは変わらなかった。給与を正常化し、勤務管理を見直し、安全基準と品質管理を共通の水準へ揃える。それだけを、地道に繰り返してきた。
買収先を選ぶ基準も、この数年でおのずと固まっていった。財務が傾いていても、現場の技術力が本物であること。経営の不備と、人間の腕とを、はっきり分けて見る。その視点は、デザート・エッジを見たときからずっと変わっていない。買収の件数が増えるにつれ、精査すべき財務資料の量も膨れ上がっていった。エリヤ一人の目だけでは、いずれ追いつかなくなる日が来ることを、ケンは薄々感じ始めていた。
社名は、この数年の間に「High Frontier Aviation」へ改められていた。大仰な由来があったわけではない。もう少し上へ、もう少し先へ。二人がずっと胸の内に抱えていた言葉を、そのまま社名にしただけだった。
社名変更の日、大きな式典は開かれなかった。テオが格納庫の入口に、新しい看板を静かに取り付けただけだった。誰かが写真を撮り、誰かが拍手をした。それだけの、ささやかな一日だった。派手な祝い方をしないことも、いつの間にか、この会社らしさの一部になっていた。
買収を重ねるたびに、新しく加わる社員たちは、それぞれ違う会社の制服を着たまま現場に立っていた。旧デザート・エッジのオレンジがかった作業服、部品メーカーの紺色の制服、工場の灰色の作業着。色も意匠もばらばらな集団が、同じ敷地の中で働いている光景は、統合されたようでいて、どこかまだ寄せ集めの印象を拭えなかった。
「このままじゃ、いつまで経っても、それぞれの会社のままだ」
エリヤがそう指摘したのは、2011年の終わりのことだった。ケンも同意した。給与や勤務管理といった仕組みは統一できても、目に見える一体感は、また別の話だった。
半年ほど前から二人の頭の片隅にあった案が、この夜、ようやく言葉になった。
「共通の制服を作ろう」
ケンがそう言い出すと、エリヤはすぐに具体案を練り始めた。単なる画一化ではない。安全のための識別と、機体内部での異物混入を防ぐための実用的な選択。作業服の色は、機内で見落とされやすい繊維や布片を発見しやすくするため、目立つオレンジに統一することに決まった。所属章は部門ごとに意匠を変え、氏名と資格は別表示で管理する。旧会社ごとの制服は、段階的に、しかし着実に切り替えていく。
「一気に変えると、反発が出る」
エリヤの助言に従い、切り替えは各拠点で数か月かけて進められた。古い制服への愛着を持つ社員も少なくなかった。デザート・エッジの古参であるオーウェンなどは、最初こそ新しい制服に袖を通すのを渋っていた。
「長年着てきたものを、そう簡単に脱げというのか」
オーウェンがそう漏らしたとき、テオが横からその肩を叩いた。
「脱ぐんじゃない。会社が大きくなった証拠を、着るだけだ」
その一言に、オーウェンはしばらく黙っていたが、結局は新しい制服に袖を通した。数週間もすると、誰もがそのオレンジを、まるで最初から自分のものだったかのように着こなすようになっていた。古い制服は、記念に一着だけ、各自のロッカーへしまわれることが多かった。捨てるには惜しい、けれどもう着ることはない。そういう中途半端な愛着の扱い方も、この会社らしいと言えば、この会社らしかった。それでも、新しい制服には、これまでどの会社にもなかった意味が込められていた。買収元がどこであれ、今はもう同じ会社の一員だという事実だ。
中央食堂も、その象徴の一つになった。役員専用の食堂は作らない。ケンもエリヤも、他の社員と同じ列に並び、同じトレーを持ち、同じメニューから食事を選ぶ。それは、二人にとって当然のことだった。
「今日はパンケーキか」
ある朝、列に並びながらエリヤが言うと、ケンは苦い顔をした。
「好物じゃない。だが、これを求める社員が多いなら、置いておく理由は十分だ」
その答えに、エリヤは笑った。自分の好みより、現場の声を優先する。その姿勢は、機体を整備するときの判断とよく似ていた。数字と記録を丁寧に確かめ、そこから見えてくる事実に従う。パンケーキ一枚の話であっても、その姿勢だけはぶれることがなかった。
食堂には、旧デザート・エッジの整備士も、部品メーカーから移ってきた技術者も、工場から加わった作業員も、皆同じオレンジの制服を着て、同じ列に並んでいた。国籍も出身も違う人間たちが、同じ食事を前に、同じテーブルを囲んでいる。数年前には想像もできなかった光景が、今では日常の一部になっていた。
所属章の意匠も、この頃には定着していた。部門ごとに色分けされた小さな章が、胸元で識別の役目を果たす。氏名と資格は、章とは別に管理される。誰がどの部門の、どの資格を持つ人間なのかが、遠目にも一目で分かるようになっていた。買収前のそれぞれの会社では、こうした仕組み自体が存在しないところも多かった。それだけでも、現場の安全と効率は、目に見えて改善されていた。
2013年、財務と買収評価を専門に担う人材として、マイケル・ドノバンという若い会計士がHFAに加わった。デザート・エッジの頃から手探りで続けてきた財務精査は、この年を境に、はるかに体系立ったものへ変わっていく。マイケルが最初に手がけた大きな案件が、まさにその年の初め、英国の航空整備企業をめぐる話だった。
2013年2月、成長はさらに国境を越えた。英国のある航空整備企業が、経営者の高齢化を理由に事業譲渡を検討しているという話が、マイケルの調査を通じてケンとエリヤの元に届いた。現地を訪れた二人を迎えたのは、アリステア・“アル”・ワイクリフという初老の技術者と、グレアム・ペンローズという若い整備士だった。
応接室に通された二人を、アルは意外にも歓迎するような表情で迎えた。
「あなた方の会社のことは、噂に聞いています。給与を遅配しない会社だと」
アルがそう言うと、ケンは短く頷いた。
「それだけじゃない。休みも取れる。腕のある人間には、腕に見合った仕事を任せる」
その言葉に、グレアムが横から口を挟んだ。
「試しに、聞いてもいいですか。うちの制服は、どうなるんです」
その質問に、エリヤは笑った。
「オレンジになる。ただし、理由がある。安全上、意味のある色だ」
グレアムは意外そうな顔をしたが、エリヤが理由を説明すると、納得したように頷いた。見た目の統一ではなく、実務上の理由に基づいた選択だという点が、彼には響いたらしかった。
「アメリカの会社に買われる、というのは、正直複雑な気分です」
アルがそう漏らすと、ケンは静かに答えた。
「買うつもりはない。加わってもらうつもりだ。給与、勤務管理、安全基準は共通にする。だが、あなた方の技術と文化まで消すつもりはない」
その言葉に、アルはしばらく黙り、それからゆっくりと頷いた。長年この業界で生きてきた人間として、口先だけの約束と、実際に守られる約束の違いは、嫌というほど見分けがつく。ケンの言葉には、これまで聞いてきたどの買収話とも違う響きがあった。
英国企業の買収は、その年のうちに正式にまとまった。アルとグレアムは、そのままHFA英国支社の中心人物として残った。買収のたびに社員が入れ替わるのではなく、買収元にいた人間がそのまま加わっていく。その積み重ねが、HFAという会社の形を、少しずつ作り上げていた。
「増えたな」
ある夜、ケンが決算資料の束を眺めながら言った。2008年、二人が最初に買った会社は、従業員数十名の小さな整備会社だった。今、HFAの社員数は、複数の国にまたがり、数百名を超えている。資料の厚みも、この数年で何倍にもなっていた。かつては二人だけで確認できていた数字が、今ではマイケルのチームを通さなければ、全体を把握することすら難しくなっている。
「増えた。だが、増えただけじゃない」
エリヤは資料から目を上げ、窓の外へ視線をやった。
エリヤがそう付け加えた。数字の大きさよりも、彼が見ていたのは、その中身だった。給与の遅配に苦しんでいた技術者たちが、今は同じ食堂で同じ食事を取り、同じ制服を着て、それぞれの持ち場で働いている。買収元も国籍も違う人間たちが、一つの組織として少しずつ馴染んでいく様子を、エリヤはこの数年、現場で見続けてきた。
「次は、何を買う」
ケンが尋ねると、エリヤは笑って答えた。
「まだ決めていない。だが、決める時が来れば、また同じことをするだけだ。給与を正しく払い、休みを取らせ、腕のある人間を大事にする」
その言葉に、ケンは深く頷いた。始まりはラッチの格納庫で見た、一人の整備士の疲れた背中だった。それから五年、二人が積み重ねてきたものは、確かにその背中を、少しずつ楽にしてきたはずだった。
「あの頃は、これほど大きくなるとは思っていなかったな」
ケンがふと漏らすと、エリヤは頷いた。
「思っていなかった。それでも、やっていることは、あの頃とそう変わらない。一つずつ、目の前の現場を良くしていく。それだけだ」
規模が大きくなるほど、単純だったはずの理屈は、複雑に見られがちになる。だが、エリヤの言葉どおり、根っこにあるものは、デザート・エッジで給与を正常化したあの日から、何一つ変わっていなかった。
窓の外には、オレンジの制服を着た社員たちが、交代の時間に合わせて格納庫から出てくる姿が見えた。かつては別々の会社の別々の制服を着ていた人間たちが、今は同じ色を纏い、同じ方向へ歩いていく。その光景こそが、二人が五年かけて手に入れたものの、何よりの証だった。
その列の中に、テオとオーウェンの姿もあった。二人は何か軽口を交わしながら、駐車場の方へ歩いていく。買収された側だった彼らが、今ではこの会社の古参として、新しく加わる社員たちを迎える立場になっている。その巡り合わせを、ケンとエリヤは、どこか誇らしい気持ちで見送っていた。
まだ、この会社が向かう先の全てが見えているわけではない。それでも、一つだけ確かなことがあった。飛ばすことよりも先に、飛ばし続ける人間を大事にする。その一点だけは、会社がどれだけ大きくなっても、変えるつもりのないことだった。