もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2014年前半 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
会議室の窓から、格納庫の列がまっすぐに見渡せた。オレンジの制服を着た社員たちが、機体の間を行き来している。ケンはその光景をしばらく眺めてから、テーブルに広げた資料へ視線を戻した。壁には、買収を重ねるたびに増えていった拠点の地図が貼られている。ツーソンから始まった小さな点は、今では大陸をまたいでいくつも並んでいた。
「そろそろ、いいんじゃないか」
エリヤがそう切り出したのは、四半期の決算報告が終わった直後のことだった。ケンは資料から顔を上げた。
「何がだ」
「六年前、お前が言っていたことだ。戦闘機を買う話。あの時、順番を変えただけで、やめるとは言っていなかったはずだ」
その言葉に、ケンはしばらく黙っていた。デザート・エッジの買収から六年、HFAは英米独をまたぐ企業へ成長していた。ウォーバーズの新造・再製造事業も軌道に乗り、旧世代ジェットエンジンのオーバーホールと新造を一貫して扱える体制も整っている。かつて二人が持っていなかったものを、今はほとんど持っていた。
決算報告の数字は、毎年着実に伸びていた。だが、数字が伸びるたびに、ケンの中では別の感覚も育っていた。会社を立て直し、大きくすることには、確かな手応えがある。それでも、どこかで、自分自身が空へ向かって何かを試すという感覚からは、少しずつ遠ざかっているようにも感じていた。
「忘れていたわけじゃない。ただ、個人の道楽として買う話とは、もう違う形にしたい」
ケンがそう言うと、エリヤは興味深そうに先を促した。
「違う形とは」
「うちには、J79を新造からオーバーホールまで一貫して扱える体制がある。旧世代機の復元技術もある。それを使って、ただ自分たちが飛ぶための機体を買うんじゃなく、会社として意味のある研究機を持ちたい」
「研究機、か」
エリヤはその言葉を繰り返し、しばらく考え込んだ。
「高度の話か」
「そうだ。どこまで上へ行けるのか、まだ誰もちゃんと確かめていない領域がある。うちにはそれを調べるだけの技術がある。やらない理由がない」
その答えに、エリヤは小さく笑った。ラッチの格納庫で見た、一人きりの整備士の背中から始まった歩みが、六年かけてここまで来た。今なら、あの頃には想像もできなかった規模のことに挑める。
エリヤはしばらく黙って、その言葉を頭の中で反芻していた。
「金儲けのためじゃない、ということだな」
エリヤが確かめるように言うと、ケンは頷いた。
「金儲けなら、もっと確実なやり方がいくらでもある。これは、それとは別の話だ」
「別の話、というのは」
「うちが積み上げてきた技術を、まだ誰も試していない場所で使ってみたい。それだけだ」
その答えに、エリヤはしばらく黙っていたが、やがて深く頷いた。理屈としては単純だったが、単純だからこそ、それがケンの本音であることが、エリヤにはよく分かった。
「母体になる機体が要る」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「複座機がいい。前と後ろ、両方に役目を持たせられる」
その一言に、エリヤは片方の眉を上げた。
「お前が操縦して、後ろに誰を乗せるつもりだ」
「もう決まっている。だが、今はまだ言わない」
その答えに、エリヤはそれ以上何も聞かなかった。ただ、口元にわずかな笑みを浮かべていた。単座機の方が、選択肢も価格も有利になる場面は多いはずだった。それでも、ケンがあえて複座にこだわる理由を、エリヤはよく分かっていた。
六年前、免許を取る気があるのかとケンにからかい半分で聞かれたことを、エリヤは覚えていた。あの時は、まだ言わないでおくと答えただけだった。あれから、エリヤは誰にも大きく吹聴することなく、少しずつ段階を踏んで資格を積み重ねてきた。初等単発機から始め、計器飛行、多発機、高性能機、複雑機、初期ジェット、高速ジェットへと進み、去年にはついに超音速機のレーティングまで取得していた。会社を育てる仕事の合間を縫っての、決して速くはない歩みだったが、着実な歩みだった。
その事実を、ケンはもちろん知っている。だからこそ、複座であることにこだわる理由を、あえて口にしなかった。誰が後ろに乗るかは、もう二人の間では、とっくに答えの出ていることだった。
翌日、ケンとエリヤは技術部門のメイとネイトを会議室へ呼んだ。メイは元SSTO研究者で、機体システム統合を専門とする博士。かつて自ら志願してHFAへ加わった変わり種でもある。ネイトはFBW化事業の拡大に伴って前年に加わった、制御則を専門とする博士だった。二人とも、まだ入社して日の浅い部類に入るが、すでに社内では信頼の厚い技術者として知られていた。
「複座の超音速機を探している。予算は無制限じゃない。むしろ、安く抑えられる機種が望ましい」
ケンがそう切り出すと、メイはすぐにノートを開いた。
「用途は」
「まだ詳しくは話せない。ただ、高高度域での長期的な試験運用に耐えられる機体であること。それと、うちが持っているJ79の整備・新造基盤を活かせること」
その条件に、ネイトが即座に反応した。
「J79を使う機種となると、候補はかなり絞られます。F-4、F-104系列、あとは一部の輸出機くらいでしょう」
ネイトはそう言いながら、手元のタブレットに機種の一覧を呼び出した。画面には、退役機の流通状況や、各国での運用実績がざっと並んでいる。数分前まで別の作業をしていたはずなのに、既にこれだけの資料を揃えていることに、ケンは内心感心していた。
「F-4はどうだ」
エリヤが尋ねると、メイが首を振った。
「機体規模が大きい分、取得も維持も高くつきます。複座型は元々多く出回っていますが、予算を抑えたいという条件とは、あまり噛み合いません」
「F-104系列は」
「候補になります。多数生産された機種なので、退役機、予備部品、J79そのもの、工具、図面まで、民間流通が比較的豊富です。複座型のTF-104Gも一定数存在します」
メイもその説明に頷いた。
「うちのエンジン部門の実績とも噛み合います。J79を新造・オーバーホールできる会社は、そう多くありません。その強みを一番活かせる機種を選ぶなら、これは理にかなった選択です」
ネイトがそう説明すると、ケンとエリヤは思わず顔を見合わせた。数年前、まだ戦闘機を買う計画を立てていた頃に調べた記憶が、そのまま蘇ってくるようだった。
「調達性と価格のバランスで言えば、今の条件に一番近いのはTF-104Gだと思います」
メイがそう続けた。ノートには、すでにいくつかの機種の比較表が書き込まれていた。速度性能、取得コストの目安、複座構成の有無、J79との適合性。数字だけを並べれば、TF-104Gが頭一つ抜けている。
その一枚の表に、ケンはしばらく見入っていた。数字の羅列が、少しずつ一つの機体像へ収束していくのが分かる。
「性能面で、他の候補と比べて見劣りする部分は」
ケンが尋ねると、ネイトが答えた。
「最新の機体と比べれば、当然見劣りします。ですが、超音速域での基礎データを取るという用途であれば、性能そのものより、機体の素性が分かっていることの方が重要です。F-104系列は、運用実績と技術資料が豊富に残っています」
その説明に、ケンは頷いた。派手な性能を追い求めているわけではない。むしろ、素性の知れた機体を、じっくりと自分たちの手で作り込んでいくことにこそ、意味があると考えていた。エリヤはすぐに、いつもの視点で切り込んだ。
「維持の話をしよう。J79の整備基盤は、うちにあるから問題ない。だが、機体そのものの整備性はどうだ。記録は追えるのか」
「そこは、個体ごとに差が大きいでしょう。良い個体を見つけられるかどうかが、鍵になります」
ネイトの答えに、エリヤは頷いた。機体を選ぶ基準は、結局いつもここに戻ってくる。値段の安さだけで飛びつけば、いずれラッチと同じ轍を踏む。
「もう一つ」
エリヤが付け加えた。
「安い理由を、必ず確かめてくれ」
エリヤがそう付け加えると、メイとネイトは顔を見合わせ、頷いた。
「欠品、腐食、記録の欠落。安さの裏には、必ず理由があります。そこを飛ばして選ぶことはしません」
メイの答えに、エリヤは満足そうに頷いた。数字の裏側を疑ってかかる姿勢は、この会社に根付いた習慣そのものだった。デザート・エッジを見たときから、ラッチの格納庫を見たときから、二人はずっとそうやって物事を見てきた。
「候補を絞り込むための調査を、正式に始めよう」
ケンがそう言うと、メイとネイトは頷いた。まだ何のための機体かは伝えていない。それでも、二人とも、この依頼の裏に何か大きな計画が動き始めていることを、薄々感じ取っているようだった。
「一つ、聞いていいですか」
メイが席を立つ前に、そう切り出した。
「なんだ」
「この機体は、最終的に、どこまで行くつもりの機体なんですか」
その問いに、ケンは一瞬だけ黙った。まだ具体的な数字を口にする段階ではない。それでも、頭の中には、すでに一つの方向だけは、はっきりと見えていた。
「まだ言えない。だが、低いところを目指す機体じゃないことだけは、約束する」
その答えに、メイとネイトは顔を見合わせた。多くを語らないケンの言い方が、かえって二人の好奇心を強く刺激したようだった。
「楽しみにしています」
メイがそう言って、ノートを閉じた。元SSTO研究者としての彼女にとって、地上に留まらない何かへ関わる話は、決して他人事ではなかった。ネイトも、静かな声で付け加えた。
「制御則の話になったら、真っ先に呼んでください」
「そのつもりだ」
ケンの答えに、二人は頷き、会議室を後にした。
会議室を出たあと、ケンとエリヤは並んで廊下を歩いた。
「複座、か」
エリヤがふと呟いた。
「後ろの席には、誰を考えている」
「まだ、はっきりとは言わない」
ケンの答えに、エリヤは小さく笑った。それ以上、深くは聞かなかった。ただ、長年の付き合いの中で、ケンが「まだ言わない」と口にするときは、たいてい答えがもう決まっているのだということを、エリヤはよく知っていた。
窓の外には、格納庫から出てくる社員たちの列が、相変わらずオレンジの制服を纏って続いていた。六年前、給与の遅配に苦しんでいた小さな整備会社から始まった歩みが、今、まったく新しい方向へ動き出そうとしていた。
「本当に、やるのか」
エリヤが念を押すように尋ねると、ケンは足を止め、窓の外を見つめたまま答えた。
「やる。ただし、急がない。ラッチのようにはならない」
その言葉に、エリヤは深く頷いた。機体を手に入れることと、それを正しく育てていくことは、まったく別の作業だ。その教訓を、二人はもう誰よりもよく知っていた。焦りは、いつも一番大事なものを見落とさせる。それだけは、この六年で骨身に染みて分かっていることだった。
TF-104Gという名前が、まだ誰も知らない未来の機体の、最初の候補として、この日初めて会議室の空気の中に浮かび上がっていた。