もう少し上   作:自動車好き/飛行機も好き

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2014年後半 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社

 

三機のTF-104Gのうち、状態が最良だった一機は、既に第三格納庫へ搬入されていた。分解輸送のために外された主翼と尾翼が、専用の架台に並べて置かれている。エンジンを含めた機体各部の受け入れ検査は、思っていたよりも順調に進んでいた。

 

「予定通り、来月には機体各部の受け入れ検査が終わる」

 

エリヤがそう報告すると、ケンは頷いた。会議室の壁には、新しく採用が決まった技術者の名前が書き足されていた。ミリアム・ルーク。姿勢制御と推進剤系統を専門とする博士号持ちの技術者だという。

 

「ミリという女性だ。姿勢制御、弁、推進剤系統、地上安全設備が専門らしい」

 

ケンがそう紹介すると、エリヤは片方の眉を上げた。

 

「推進剤、というと」

 

「ロケットの制御弁や噴射系統に近い分野だ。詳しい話は、本人から聞いた方が早い」

 

数日後、ミリはHFA本社に着任した。企業買収に伴う移籍組が多いこの会社の中で、ミリは珍しく、個人としてヘッドハンティングされてきた人材だった。メイやネイトと同様、まだ何のための採用なのか、正確には知らされていない。

 

出社初日、人事担当から渡されたオレンジの作業服に、ミリは少し戸惑った様子を見せた。研究職として招かれたはずなのに、渡されたのは現場の整備員と同じ色の服だったからだ。

 

「デザインの意味が分からなくて」

 

ミリがそう漏らすと、案内に立ったメイが答えた。

 

「異物混入を防ぐためです。機体の中に繊維や布切れが落ちたとき、オレンジなら一番見つけやすい。役職に関係なく、全員が同じ色を着ます」

 

「見た目の統一感の話じゃなかったんですね」

 

「ここは、そういう理由のない習慣がない会社です」

 

メイの答えに、ミリは納得したように頷き、渡された作業服に袖を通した。中央食堂で昼食を取ったときも、ミリは経営陣専用の席がないことに、もう一度小さく驚いていた。同じ列に並び、同じトレイを持ち、同じ料理を取る。ケンとエリヤの姿も、その列の中に自然に混じっていた。

 

「歓迎する。まずは、今の計画を説明したい」

 

ケンがそう切り出すと、ミリは静かに頷いた。物静かな態度の中に、専門分野への確かな自負がにじんでいた。

 

会議室には、メイとネイトも同席していた。壁のホワイトボードには、TF-104Gの三面図と、これまでの調達経緯が簡単にまとめられている。

 

「うちが買った機体は、いずれ高高度域の研究機として改修する。そのための技術は、これから少しずつ積み上げていく」

 

ケンの説明に、ミリは資料をめくりながら尋ねた。

 

「改修の内容は、もう固まっているんですか」

 

「まだだ。今の段階で決まっているのは、目指す方向だけだ」

 

その答えに、ミリは小さく頷いた。曖昧な段階からのスタートには慣れているらしい。前職の小規模な研究チームでも、明確な仕様が最初から与えられることは、ほとんどなかった。

 

ネイトも資料を手元に引き寄せながら、ケンの説明に耳を傾けていた。J79の整備基盤とFBW化事業、この二つを軸に会社を大きくしてきた道のりの先に、ようやく形になろうとしている計画だった。

 

「では、最初の作業は」

 

ネイトがそう切り出した。

 

「機体を、まず原型状態に戻す。高高度用の改修から、いきなり始めるつもりはない」

 

その言葉に、ミリはわずかに意外そうな表情を見せた。

 

「なぜですか。改修が目的なら、最初から改修設計に取りかかった方が早いのでは」

 

もっともな疑問だった。ケンが答えるより先に、メイが口を開いた。

 

「比べる基準がなければ、何を変えたのか分からなくなるからです」

 

「基準」

 

「原型状態でのTF-104Gが、どんな飛び方をするのか。どんな癖があり、どこに余裕があり、どこに限界があるのか。それを、まず自分たちの手で確かめておく必要があります。改修後の数字だけを見ても、それが改修の効果なのか、単に個体差なのか、判断できません」

 

メイの説明に、ネイトも付け加えた。

 

「制御則の設計でも同じです。基準となる素の挙動が分かっていなければ、どこにFBWの介入を入れるべきか、判断のしようがありません」

 

その説明に、ミリはしばらく考え込んでいたが、やがて納得したように頷いた。

 

「つまり、まっさらな地図がないまま、道を描き足していくようなものだということですね」

 

「そういうことだ」

 

ケンがそう応じると、ミリは資料の余白に何かを書き込みながら続けた。

 

「RCSの検討でも、同じ考え方は使えます。まず機体側の基本特性が分かっていないと、どこにスラスターを配置すべきか、どれだけの推力が必要か、正確な見積もりができません」

 

「RCS、というのは」

 

エリヤが尋ねると、ミリは説明を続けた。

 

「姿勢制御用の小型スラスターです。主操縦系統が効きにくい領域で、機体の姿勢を保つための補助系統になります。まだ具体的な設計に入れる段階ではありませんが、将来的には、そういう系統が必要になるはずです」

 

その説明に、ケンとエリヤは顔を見合わせた。まだ言葉にしていない構想の輪郭を、ミリはすでに専門知識の側から言い当てていた。

 

「今の段階で、完成した開発組織や専用の試験設備があるわけではない。あるのは、まだ人と考え方だけだ」

 

ケンがそう釘を刺すと、ミリは頷いた。

 

「承知しています。今はまず、概念としての要求整理と、系統間の成立条件を詰めるところからで構いません」

 

「地上安全設備についても、同じですか」

 

エリヤが尋ねると、ミリは頷いた。

 

「誤噴射、片側噴射、弁の固着、漏洩。どれも、起きてからでは遅い種類の危険です。設備も手順も、開発の初期段階から組み込んでおく必要があります」

 

その言葉に、エリヤは深く頷いた。安全に関する話には、この六年、二人とも人一倍慎重になる理由があった。

 

「具体的には、どんな設備が要る」

 

エリヤが尋ねると、ミリは資料に目を落としながら答えた。

 

「推進剤の漏洩検知器、遠隔での系統遮断機構、作業区画の隔離手順。まだ機体側の設計が固まっていない段階でも、これらの考え方だけは早めに用意しておいた方がいいと思います」

 

「後回しにできない種類の話だな」

 

「はい。設備は、いつでも後から足せるものではありません。建物の配置や配管の取り回しに関わってくるものもありますから」

 

ミリの答えに、エリヤはメモを取りながら頷いた。まだ影も形もない改修計画の輪郭が、少しずつ、具体的な言葉で埋まり始めていた。

 

「復元作業の進め方は」

 

メイがそう切り出すと、エリヤが答えた。

 

「機体各部の受け入れ検査を終えたら、まず地上での動作確認から始める。油圧、電気、燃料の各系統を、単体ごとに確かめる。エンジンの試運転は、その後だ」

 

「走行試験と初飛行は」

 

「来年に入ってからになる。焦らない。順番を守る」

 

エリヤの答えに、メイとネイトは頷いた。ラッチの格納庫から始まった教訓は、この会社の隅々にまで染み込んでいた。

 

「基準データというのは、具体的にどこまでを指すんですか」

 

ミリが改めて尋ねると、ケンが答えた。

 

「速度域ごとの操縦特性、燃料消費、エンジンの応答、機体の振動特性。飛べる範囲で、できる限り丁寧に洗い出す。地味な作業になるが、これが土台になる」

 

「地味というより、むしろ本質的な作業だと思います」

 

ミリがそう言うと、ケンは小さく笑った。

 

「そう思ってもらえるなら、ありがたい」

 

会議の終わりに、ケンは全員を見回して言った。

 

「改修は、いずれやる。だが、今はまだその段階じゃない。まず、この機体をよく知ることから始める」

 

その言葉に、異論を挟む者はいなかった。ミリはノートを閉じながら、隣に座るメイに小声で尋ねた。

 

「この会社は、いつもこういう進め方なんですか」

 

「いつも、そうです」

 

メイの答えに、ミリはわずかに口元を緩めた。

 

会議のあと、エリヤはミリを第三格納庫へ案内した。分解された主翼と尾翼が架台に並び、胴体部分には検査用の足場が組まれている。整備士たちが油圧配管の点検表と照らし合わせながら、一つひとつの継手を確認していた。

 

「これが、うちが買った三機のうちの一機だ」

 

エリヤがそう言うと、ミリは足場に近づき、胴体の内部をのぞき込んだ。配管や配線が整然と束ねられ、識別タグが一つひとつ丁寧に取り付けられている。

 

「思っていたより、整理されていますね」

 

「機体そのものより、付属してきた資料と工具が良かった。図面と記録さえあれば、どこに何が通っているか、いちいち推測せずに済む」

 

エリヤの答えに、ミリは頷いた。前の職場では、記録の不備に何度も苦しめられた経験があるらしい。

 

「将来、この機体にRCSを積むとしたら、どのあたりに配置することになりそうですか」

 

ミリがそう尋ねると、エリヤは少し考えてから答えた。

 

「まだ、こちらから答えを出す段階じゃない。むしろ、そこはお前たちの領分だ。今は、機体の素の姿を知ることが先だ」

 

「そうでした」

 

ミリはそう言って、小さく苦笑した。専門分野への意欲が、つい前のめりになってしまう。それは悪いことではないと、エリヤは思っていた。

 

「意欲があるのはいいことだ。ただ、この会社では、順番を飛ばすと、あとで必ずどこかにしわが寄る」

 

エリヤの言葉に、ミリは頷き、もう一度機体の内部へ目を戻した。まだ何も積まれていない、ただの骨組みだけの機体。それでも、その先にある可能性を、ミリはすでに感じ取り始めているようだった。

 

会議室を出たあと、ケンとエリヤは並んで格納庫へ向かった。窓の外には、分解されたTF-104Gの機体が、架台の上で静かに次の作業を待っていた。

 

「新しい仲間が、また一人増えたな」

 

エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。

 

「まだ、何を作ることになるのかも、はっきりとは分かっていない。それでも、必要になる技術は、少しずつ揃ってきている」

 

「急がば回れ、か」

 

「そうだ。原型を知らずに改修はできない。それを飛ばせば、いずれどこかで代償を払うことになる」

 

ケンの言葉に、エリヤは深く頷いた。

 

「メイとネイトだけでなく、ミリまで揃った。人は、少しずつ形になってきている」

 

「まだ足りない専門もあるだろうがな」

 

「いずれ、必要になれば探す。今は、今いる人間で進められるところまで進む」

 

「あとは、機体の方だ。年明けには、地上での動作確認に入れる」

 

エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。

 

「焦る理由はない。むしろ、ここでじっくり時間をかけることが、後々の近道になる」

 

その言葉に、エリヤは小さく笑った。

 

「六年前は、そんな余裕、どこにもなかったな」

 

「ラッチの格納庫を出たときは、な。今は、少なくとも順番を選べる立場にはなった」

 

ケンの答えに、エリヤは頷いた。給与の遅配に苦しんでいたデザート・エッジの現場から、ここまで歩いてきた道のりを思えば、順番を選べるということ自体が、決して当たり前のことではなかった。

 

格納庫の中では、受け入れ検査を担当する整備士たちが、静かに作業を続けていた。まだ何者でもない機体が、少しずつ、確かな一歩を積み重ねていく。その先にどんな機体が生まれるのか、今はまだ誰にも分からなかった。それでも、急がずに積み上げていくことの意味だけは、この会社に関わる誰もが、もう十分に理解していた。

 

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