もう少し上   作:自動車好き/飛行機も好き

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再び飛ぶ

2015年から2016年 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社

 

2015年6月、一人の若いパイロットがHFAの門をくぐった。ライアン・マーサー。軍歴はなく、幼い頃からピッツ系列機でアクロバット飛行に親しんできた、生え抜きの民間パイロットだった。超音速旅客機と退役軍用機がすっかり定着したこの時代、ライアンは入社前からすでに超音速機のレーティングを持っていた。見た目や私生活はいかにも軽薄なプレイボーイで、恋人より飛行機を優先してはすぐに振られる。それでも、操縦席に座った瞬間だけは別人のように規律を守り、感触と数値、事実と推測を厳密に分けて語る。採用面接でその切り替わりを目にしたケンとエリヤは、二人そろって頷いた。

 

「口は軽いが、腕と頭は軽くない」

 

面接のあと、エリヤがそう評すると、ケンも同意した。履歴書には書かれない部分、特に非常時を想定した質問への答え方に、二人は特に注目していた。

 

「操縦席の外でどれだけふざけていても構わない。中でそれができるなら、それでいい」

 

ライアンはまず、F-104系機体での実機訓練と実地評価を受け、機体別の操縦資格を取得した。退役機とはいえ、多数生産されたこの系列機は民間でも普通に飛んでいる機種であり、特別な区分の証明を取る必要はなかった。続けて、N1047QTとなる原型機固有の差異教育を受け、テスト飛行の担い手として少しずつ現場に溶け込んでいった。教育を担当したのは、空軍時代から整備畑を歩んできた退役将校、エリヤ自身だった。操縦の技量については口を出さなかったが、機体の癖や整備記録の読み方については、細部まで徹底的に叩き込んだ。

 

「お前が感じる違和感は、たいてい記録のどこかに理由がある。先に記録を疑え」

 

エリヤがそう繰り返すたび、ライアンは面倒くさそうな顔をしながらも、ノートに書き留めた。半年もすると、その癖はすっかり身についていた。

 

同じ年、第三格納庫では地上作動試験が進んでいた。油圧、電気、燃料、それぞれの系統を単体ごとに動かし、記録と照らし合わせる。異常が出れば、その場で止めて原因を探る。大きな問題は出なかったが、小さな引っかかりは随所にあった。

 

「ガンベイタンクからの移送順序が、記録と少しずれている」

 

燃料系統を担当するソフィアがそう報告すると、エリヤはすぐに確認を指示した。五系統あるタンクのうち、一つの移送弁の応答が、仕様よりわずかに遅れている。原因は、長年の保管中にわずかに硬化していたシール材だった。交換すれば済む話だったが、見つけるまでには数日を要した。

 

「地味な作業の積み重ねだな」

 

ケンがそう漏らすと、エリヤは頷いた。

 

「地味だからこそ、飛ばしてから気づくわけにはいかない」

 

似たような小さな引っかかりは、他の系統でもいくつか見つかった。電気系統では、経年劣化したコネクタの接触不良が一か所、油圧系統では、圧力計の指示にわずかな個体差が見られた。どれも致命的なものではなかったが、一つずつ丁寧に潰していく作業は、地味である分だけ、根気を要した。

 

秋にはエンジンの試運転が始まった。五基の予備J79のうち、状態の良かった二基の整備が完了し、まず一基を機体に搭載しての試運転となった。長期保管を経たエンジンが轟音とともに息を吹き返す瞬間、立ち会った整備士たちの間に、小さな拍手が起きた。その輪の中には、買収時からの古参であるオーウェン・キーツの姿もあった。

 

「音は、昔とそう変わらない」

 

オーウェンがそう呟くと、隣のエリヤが頷いた。長年この業界に身を置いてきた者にとって、エンジンの始動音には、言葉では説明しきれない安心がある。沈黙していた機体が、再び生きた機械として動き出す瞬間だった。

 

冬になる頃には、走行試験の段階に進んだ。滑走路上で機体を実際に走らせ、ブレーキ、方向舵、計器類の反応を確かめる。最初は低速での直進のみ、次第に速度を上げ、最後には離陸滑走に近い速度域まで試す。ライアンがコックピットに座り、ケンとエリヤ、そしてテストディレクターのマギーが地上から見守った。

 

「ブレーキの効きに、左右でわずかな差があります」

 

初回の走行試験のあと、ライアンがそう報告すると、エリヤはすぐに整備士を手配した。原因は片側の油圧配管に残っていたわずかな空気だった。エア抜きをやり直し、二回目の走行試験では差は解消された。こうした小さな修正を一つずつ重ねながら、機体は少しずつ、飛行へ向けた準備を整えていった。

 

「感触は良好。癖は多少あるが、想定の範囲内です」

 

試験後、ライアンはそう報告した。マギーはその言葉を記録しながら、短く付け加えた。

 

「感触だけでなく、数値もそう言っているなら、次へ進める」

 

2016年春、ついに復元後初飛行の日を迎えた。機体はまだ、高高度仕様に改修される前の、ただのTF-104Gだった。それでも、この一機がいずれ辿る先を知る者にとっては、特別な一日だった。ライアンの操縦で、機体は滑らかに浮き上がり、場周経路を一周してから着陸した。

 

「問題なし。拍子抜けするくらいに、素直な機体です」

 

着陸後、ライアンがそう報告すると、格納庫に集まった社員たちから歓声が上がった。整備記録の束を抱えたまま駆け寄るソフィアの姿や、機体の脚回りを真っ先に確かめに走るオーウェンの姿が見えた。長い年月、誰にも見向きもされなかった機体が、再び自分の意志で空へ上がった瞬間だった。ケンとエリヤは、少し離れた場所でその様子を見ていた。

 

「ラッチの機体は、結局あのまま飛ばずじまいだった」

 

エリヤがぽつりと言うと、ケンは頷いた。

 

「今度は、違う」

 

その言葉には、八年前にラッチの格納庫で見た光景への、静かな決着が込められていた。部品があっても、扱える人間がいなければ機体は飛ばない。あの日の教訓を、二人は一度も忘れたことがなかった。今、自分たちの手元には、機体を飛ばし続けるだけの人と仕組みが、確かに揃っていた。

 

初飛行のあとも、試験飛行は慎重に重ねられた。速度域を一段ずつ広げ、そのたびに操縦特性、燃料消費、エンジンの応答、機体の振動特性を記録していく。メイとネイトは、その数字を一つずつ積み上げながら、制御則設計の土台を固めていった。

 

「ライアンの所見だけで判断は決めない。必ず計測データと照合する」

 

ネイトがそう繰り返すたび、ライアンは笑いながら言い返した。

 

「俺の感触を信じないのか」

 

「信じていないわけじゃない。確かめているだけだ」

 

そんなやり取りを重ねながら、試験は秋まで続いた。速度域が一段上がるたびに、ライアンは慎重に機体の反応を確かめ、地上に戻ってはプリヤの記録と照らし合わせる。その繰り返しが、少しずつ機体への信頼を積み上げていった。その途中、一度だけ、原因のはっきりしない振動が高速域で記録されたことがあった。ライアン自身は「気づく程度のものだった」としか言わなかったが、プリヤが整理したテレメトリーには、明確な周期的な振れが残っていた。

 

「無視できる振れじゃない」

 

ケンがそう判断すると、試験飛行はただちに一時中断された。原因究明には数週間を要した。最終的に、外板の一部に、長期保管中のわずかな歪みが残っていたことが分かった。該当箇所を修正し、再度同じ速度域で試験を行うと、振動は記録されなくなった。

 

「焦って飛ばし続けていたら、見逃していたかもしれない」

 

エリヤがそう言うと、マギーも頷いた。

 

「止める判断が遅れていたら、の話ですね」

 

修正と再試験のやり取りは、この一件だけでは終わらなかった。似た規模の小さな異常が、その後も二度ほど見つかった。そのたびに試験は中断され、記録が洗い直され、修正され、同じ条件で再試験が行われた。遠回りに見える手順だったが、誰もそれを急かそうとはしなかった。

 

「急かされて困るのは、いつも現場の人間だ」

 

ある夜、エリヤがそう言うと、ケンも頷いた。デザート・エッジで学んだ教訓は、形を変えながら、この会社のあらゆる現場に根を張っていた。

 

2016年の終わりには、原型状態での基準飛行データが一通り出揃った。速度域ごとの挙動、燃料消費、エンジン応答、振動特性。まだ何も足されていない、素のTF-104Gの姿が、数字という形で記録に残された。プリヤが整理した記録は、分厚いファイルにまとめられ、格納庫の事務所の棚に並んだ。

 

「この数字がなければ、改修後に何が変わったのかさえ、正しく語れなかった」

 

ネイトがそのファイルを手に取りながら言うと、メイも頷いた。

 

「地味な一年でしたが、必要な一年でした」

 

「これで、ようやく土台ができた」

 

ケンがそう言うと、メイとネイトは頷いた。

 

「ここから先は、何を足すかの話になります」

 

メイの言葉に、ケンは頷いた。

 

同じ頃、英国支社からはもう一つの動きがあった。アル・ワイクリフが長年探し続けてきたイングリッシュ・エレクトリック・ライトニングが、ついに米国への搬入準備を終えたという報告だった。分解輸送された機体の組立確認、受入試験飛行、整備後確認飛行のため、ライアンは急遽、転換訓練を受けることになった。

 

「Lightningか。評判は聞いている」

 

ライアンがそう言うと、英国からの電話越しにアルが応じた。

 

「評判以上だ。乗ればわかる」

 

ライアンの転換訓練は、年をまたいで続いた。英国から来た教官は、Lightningの癖の強さを繰り返し説いた。燃料消費の速さ、独特の上昇力、そして一癖も二癖もある着陸特性。ライアンはそのたびに悪態をつきながらも、着実に技量を積み上げていった。組立確認飛行、受入試験飛行、整備後確認飛行と、一つずつ段階を踏むうちに、ライアンはこの機体への理解を深めていった。この経験が、後にN1047QTのチェイスパイロットとしてライアンが指名される下地になることを、この時はまだ誰も知らなかった。

 

2017年に入る頃、ケンはエリヤとメイ、ネイトを集めて告げた。

 

「原型の基準は確定した。ここからは、高高度仕様への改修に正式に着手する」

 

その一言に、集まった全員が頷いた。ラッチの格納庫で一人きりの整備士を見てから、九年。デザート・エッジの給与遅配から立て直した日々から、九年。遠回りに見えた道のりの先に、ようやく本当の目的地への入口が開かれようとしていた。

 

「どこまで行くつもりなのか、そろそろ教えてもらえますか」

 

メイがそう尋ねると、ケンは少し考えてから答えた。

 

「高度の話だ。まだ、具体的な数字は言わない。ただ、低いところを狙う計画じゃないことだけは、前にも言った通りだ」

 

「楽しみにしています、と前にも言いましたよね」

 

メイがそう言って笑うと、ネイトも頷いた。ミリも隣で小さく頷いていた。姿勢制御の専門家として、自分の出番がいよいよ近づいていることを、彼女は誰よりも感じ取っていた。

 

会議室を出たあと、ケンとエリヤは並んで格納庫へ向かった。分解輸送されたばかりのLightningの機体が、まだ梱包を解かれないまま、隅に置かれていた。

 

「あれも、いずれ飛ばす」

 

エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。

 

「ああ。だが、順番がある」

 

窓の外には、基準飛行を終えたTF-104Gが、夕日を受けて静かに佇んでいた。まだ何も積まれていない、ただの機体。それでも、そこから始まる物語の輪郭は、この二年で確かな形を帯び始めていた。

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