もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2018年 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
本社の大格納庫は、その日だけ機体が隅に寄せられ、代わりに長いテーブルと簡素な演台が据えられていた。壁には、創業からの十年を写した写真が、何枚も引き伸ばされて貼られている。色褪せた制服姿の数人が肉を焼いている写真、ラッチの格納庫を思わせる一人きりの整備士の後ろ姿、そして今の、オレンジの制服を着た無数の社員たちの集合写真。
社員数は、気づけば米英独日の四か国で約千七百人に達していた。本社の格納庫に入りきらない分は、各拠点の食堂やホールに設けられた中継画面を通じて、同じ時刻に同じ映像を見ていた。日本法人のHFA JAPANからも、現地の夜更けにもかかわらず、営業所の一室に数十人が集まっているという報告が、開始直前に届いていた。
「向こうは真夜中だろう」
ケンがそう言うと、広報担当のデイナが苦笑しながら答えた。
「本人たちが、どうしても生で見たいと言って聞かなかったそうです」
「律儀なことだ」
ケンはそう言うと、少しだけ表情を緩めた。顔も知らない遠い拠点の社員たちが、わざわざ夜更かしをしてまで画面の前に集まっている。その事実だけで、十年という歳月の重みが、改めて実感された。
「十年で、ここまで来るとはな」
控室で、エリヤがぽつりと言った。ケンは鏡の前で襟を直しながら答えた。
「予想していなかったわけじゃない。ただ、思っていたより早かった」
窓の外には、各国から届いた祝いの花や記念品が、控室の一角に並べられていた。英国支社からはLightningを模した小さな模型、日本法人からは丁寧な手書きの寄せ書きが届いていた。どれも、ケンとエリヤが直接顔を合わせたことのない社員たちからの贈り物だった。
「顔も知らない連中から、こんなに気持ちを示されるとはな」
エリヤがその寄せ書きを手に取りながら言うと、ケンも小さく頷いた。会社が大きくなるということは、自分たちの知らないところで、こうして人の気持ちが積み重なっていくということでもあった。
会場には、創業当初からの顔ぶれも混じっていた。整備主任のテオは、今も変わらず現場の整備服のまま、壇上近くに立っていた。隣には、デザート・エッジ時代からの古参、オーウェンの姿もある。
「お前がまだここにいるとは、正直思っていなかった」
テオがそう軽口を叩くと、オーウェンは肩をすくめた。
「給料の心配をしなくていい職場を、わざわざ探す理由がなかっただけだ」
二人の会話に、通りがかった若い整備士が小さく笑った。その整備士は、三年前に買収された部品メーカーから異動してきたばかりで、創業当初の話は噂でしか知らない世代だった。それでも、同じオレンジの制服を着て、同じ列に並んでいることに、違和感はないようだった。
「昔は、本当にこの会社、潰れかけてたんですか」
若い整備士がそう尋ねると、オーウェンは少し考えてから答えた。
「潰れかけてた、というより、潰れる寸前で止まっていた、という方が近い。給料が遅れるのが当たり前で、辞めていく人間の方が多かった」
「今からは、ちょっと想像がつきません」
「想像がつかないくらいでいい。それだけ、今がまともだということだ」
テオがそう付け加えると、若い整備士は神妙な顔で頷いた。
燃料系統を担当するソフィアと、計測・テレメトリー担当のプリヤも、会場の一角で顔を合わせていた。二人とも、創業初期を知らない世代の中核を担う存在になっていた。
「千七百人、ですか」
プリヤがそう呟くと、ソフィアは頷いた。
「数字だけ聞くと実感が湧きませんが、こうして実際に集まると、さすがに圧倒されますね」
「それでも、やっていることは変わらないみたいですよ。燃料系統の仕事も、十年前からずっと同じ理屈です」
ソフィアがそう言うと、プリヤは小さく笑った。
会場の隅では、メイ、ネイト、ミリが並んで立っていた。
「今日は、会社の話であって、機体の話じゃないんですよね」
ミリがそう確認すると、ネイトが頷いた。
「今日はな。だが、たぶん、誰かが聞いてくるぞ」
その予想通り、挨拶に回っていたマギーが通りかかりざまに尋ねた。
「進捗は」
「順調です。ただ、今日だけはそちらの話は保留で」
メイがそう答えると、マギーは声を立てて笑った。
英国支社からは、アル・ワイクリフとグレアム・ペンローズが中継画面越しに姿を見せていた。画面の向こうで、アルは手にしたグラスを軽く掲げた。
「十周年おめでとう。こちらはこちらで、別件が山ほど進んでいる」
「TSR-2の話か」
ケンが尋ねると、グレアムが画面の端から顔を出した。
「まだ、飛べるとは言いません。ですが、確実に近づいています」
その答えに、会場からは控えめな笑い声が起きた。アルは画面越しにグラスを掲げ直し、付け加えた。
「Lightningの方は、もう手の内に入っている。チェイス運用も問題ない。次は、お前たちの番だろう」
その言葉に、ケンは小さく頷いただけで、多くを語らなかった。まだ、口にできる段階ではなかった。
法務のキャサリンと会計のマイケルは、揃って会場の後方に立ち、集まった人々を静かに見渡していた。
「十年分の契約書を思えば、よくここまで大きな問題もなく来たものです」
マイケルがそう言うと、キャサリンも頷いた。
「大きな問題がなかったわけじゃありません。大きくなる前に、潰してきただけです」
定刻になり、ケンが演台に立った。長い前置きはせず、集まった顔ぶれを一通り見渡してから、口を開いた。
「十年前、俺とエリヤは、整備会社を一つ買うところから始めた。社員は数十人、給料の支払いさえ、まともにできていない会社だった」
会場が静まり返った。
「あれから十年で、ここまで大きくなった。だが、やっていることの中身は、実はそれほど変わっていない。機体を飛ばし続けるために、必要な仕組みを整える。それだけだ」
ケンはそこで一度言葉を切り、エリヤへ目をやった。
「飛ばせることと、飛ばし続けられることは違う。十年前にここで学んだことを、俺たちはまだ忘れていない。これからも、それは変わらない」
その言葉に、集まった社員たちが拍手を送った。派手な演出も、長々とした美辞麗句もない、短い言葉だった。それでも、十年この会社を見てきた者にとっては、むしろその短さこそが、二人らしいと感じられた。
会場の後方で、メイがネイトに小声で言った。
「もっと長い話をするものかと思っていました」
「ケンは、長く話すのが得意な人間じゃない。知ってのとおりだ」
ネイトがそう答えると、ミリも頷いた。
「短くても、言いたいことは全部伝わってきました」
拍手が収まると、エリヤが短く続けた。
「乾杯の前に、一つだけ言っておく。今日、この会場にいる全員の仕事があったから、今日がある。誰か一人の手柄じゃない」
その一言に、テオとオーウェンが顔を見合わせ、小さく頷き合った。買収当初、給与の遅配に苦しんでいた頃の記憶は、もう二人の中でも薄れかけていた。それでも、こうして改めて言葉にされると、あの頃の記憶が、不意に鮮やかに蘇った。
式典のあと、格納庫の片隅では、簡単な立食が始まった。役員も現場の整備士も、同じ列に並び、同じ皿を受け取る。十年前から変わらない光景だった。給仕を担当する社員も、普段のオレンジの作業服のまま、忙しく立ち働いていた。
「他の会社だと、こういう日はもっと格式張った食事になるものらしいですね」
今年入社したばかりの事務職員がそう漏らすと、近くにいたデイナが笑って答えた。
「格式張ったところで、美味しくなるわけじゃありません。それに、特別扱いの食事を用意した瞬間、誰かのための会社じゃなくなる気がします」
その言葉に、事務職員は納得したように頷いた。
「役員席がないのは、相変わらずなんですね」
今年入社したばかりの若い社員が、隣にいたデイナにそう尋ねた。デイナは笑いながら答えた。
「この会社に、そういう発想自体がないんです。慣れると、むしろ居心地がいいですよ」
立食の席では、壁に貼られた古い写真の前に、人だかりができていた。色褪せた一枚の写真には、まだ若いテオとオーウェンが、買収したばかりの格納庫の前で、ぎこちない笑顔を浮かべて写っていた。
「この頃は、まさか自分がこんな大きな会社の一員になるとは思っていなかった」
オーウェンがその写真を指差しながら言うと、周りに集まった若手社員たちが興味深そうに耳を傾けた。
「給料が遅れなくなったとき、何を思いましたか」
誰かがそう尋ねると、テオは少し笑って答えた。
「ほっとした、それだけだ。だが、ほっとできる日が本当に来るとは、正直あの頃は信じていなかった」
その答えに、若手社員たちは神妙な顔で頷いた。数字や規模だけでは伝わらない何かが、古い写真の前では、確かに語られていた。
別の一角では、マイケルとキャサリンが、十年分の決算書類と契約書の束を懐かしそうに眺めていた。
「最初の数年は、本当に薄氷を踏むような経営でしたね」
キャサリンがそう言うと、マイケルは頷いた。
「それでも、一度も無理な拡大はしなかった。買収のたびに、きちんと時間をかけて精査してきた。それが、今につながっている」
「ケンとエリヤの、あの性急に進めない流儀のおかげです」
キャサリンがそう言うと、マイケルも笑いながら同意した。
夜が更ける頃、ケンとエリヤは格納庫の外に出て、並んで夜空を見上げていた。
「来年の今頃、何を見せられるかな」
エリヤがそう言うと、ケンは小さく笑った。
「まだ言わない。だが、見せられるものがあることだけは、約束する」
「相変わらずだな、その言い方」
エリヤが呆れたように言うと、ケンも笑った。
「十年前、お前と二人で宝くじの当選を確かめたときは、まさかこんな規模になるとは思っていなかった」
ケンがそう続けると、エリヤも頷いた。
「金の使い道を考えていただけだったはずだ。会社を育てるつもりなんて、最初はなかった」
「ラッチの格納庫を見るまでは、な」
その名前が出た瞬間、二人とも少し黙った。一人きりの整備士の背中から始まった歩みが、今、千七百人の規模にまで育っていた。
「あいつは、今どうしているんだろうな」
エリヤがぽつりと言うと、ケンは夜空を見上げたまま答えた。
「元気にしているはずだ。いずれ、ちゃんと顔を見せに行く」
「見せたいものが、できたときにか」
「そうだ」
ケンの答えに、エリヤは小さく頷いた。まだ果たされていない約束が、一つ、確かに二人の間に残っていた。
格納庫の奥では、まだ白くない一機の機体が、静かに次の工程を待っていた。十年という歳月をかけて積み上げてきたものが、ようやくその機体一つに収斂しようとしていた。まだ誰も、その先に何が待っているかを、正確には知らなかった。
控室に戻る廊下で、エリヤがふと足を止めた。
「千七百人、か。給与の遅配に苦しんでいた頃の社員数とは、桁が違う」
「桁が違っても、やることは変わらない。飛ばし続けるための仕組みを、守り続けるだけだ」
ケンの答えに、エリヤは頷いた。格納庫の明かりが、少しずつ落とされていく。十年という節目の夜は、静かに、しかし確かな手応えとともに、更けていった。