もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2019年 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社 第三格納庫
二年にわたる改修作業の最終段階、第三格納庫には連日、各分野の担当者が入れ替わり立ち替わり出入りしていた。機体はすでに足場で囲われ、全体の輪郭さえ外からは見えにくくなっている。その足場の内側で、最後の仕上げ作業が静かに進んでいた。2017年の正式着手から、すでに二年近くが経っていた。
「APUの地上試運転、問題なし」
整備班からの報告に、エリヤは頷いた。火器管制装置を撤去した跡に収まった小型の補助動力装置は、名ばかりの「APU」ではなく、発電、油圧、境界層制御用の圧縮空気を一手に担う、事実上の第二の心臓だった。
「推進力は出さない。それだけは、誰にも誤解させるな」
エリヤがそう念を押すと、報告に来た整備士は頷いた。離陸から着陸まで連続運転し、主エンジンが止まっても電力と油圧と圧縮空気を保ち続ける装置だが、機体を押し進める力そのものは、どこまでも主エンジンの役目だった。その線引きを曖昧にしないことに、エリヤは人一倍こだわっていた。
「名前がAPUだからといって、ただの補助装置だと思われると困る。かといって、こいつが推進力を出していると誤解されるのも困る」
エリヤがそう整備士に説明すると、相手は少し戸惑いながらも頷いた。
「地上での主エンジン始動にも使いますし、空中では発電と油圧と圧縮空気の供給元になります。ですが、機体を前へ進める力は、あくまでJ79だけです」
「その通りだ。記録にも、報告にも、その区別だけは絶対に崩すな」
エリヤの念の押しように、整備士は神妙な顔で頷き、点検表の該当欄に改めて印をつけた。防火隔壁、吸排気、燃料、潤滑、冷却、振動、火災検知・消火、整備口。搭載にあたって必要だったすべての項目が、一つずつ確認済みの印で埋まっていった。
同じ頃、格納庫の反対側では、ネイトがFBWの地上試験を進めていた。操縦桿への入力が、電気信号に変換され、計算機を経て操縦翼面へ伝わる。機械的な連結を持たない系統が、設計通りに応答するかどうかを、一つずつ確認していく作業だった。
「応答遅延、許容範囲内。次、異常系統への切り替え試験」
ネイトがそう指示すると、技術者たちは手分けして、わざと系統の一部を模擬的に遮断し、残った系統がどう振る舞うかを確かめていった。
「これが落ちたら、本番ではただでは済まない」
ネイトが呟くと、隣でメイが頷いた。
「だからこそ、ここで何度でも落としておくんです。空の上で初めて気づくよりは、ずっといい」
試験は何日にも及んだ。正常系統の確認が終わると、今度は様々な組み合わせの異常を模擬的に注入し、FBWがどこまで飛行を継続できるかを一つずつ確かめていく。応答が遅れた箇所は原因を特定し、計算機の設定を調整しては、また同じ試験をやり直す。地味で根気のいる作業だったが、ネイトもメイも、手を抜こうとはしなかった。
「空力操縦面とRCSの協調制御は」
ケンが様子を見に来て尋ねると、ネイトが答えた。
「地上では模擬信号での確認までです。実際の高高度環境での挙動は、飛んでみないと分かりません」
「それは、承知の上だ」
ケンがそう応じると、ネイトは頷いた。地上でできることと、空でしか確かめられないことの境界線を、誰もが正しく理解していた。
ミリは、翼端のロケット補助推進装置の周りで、別の試験に立ち会っていた。推進剤系統、弁、配管、漏洩検知器。地上での低温流体試験と、慎重に管理された小規模な燃焼試験を重ね、異常が起きた際の遮断手順を、何度も反復していた。
「片側だけが燃焼を続けた場合の自動停止、確認できました」
ミリがそう報告すると、ケンは頷いた。
「それが一番怖い故障モードだ。両側を同時に止められないなら、この装置は積む価値がない」
「その通りです。だから、最優先で検証しました」
ミリの答えに、ケンは満足そうに頷いた。彼女が入社したときにはまだ影も形もなかった系統が、今はもう、機体の翼端に実装されている。
翼端のユニットは、推進剤タンク、ジェット燃料用の増槽部、供給系統、点火装置、弁、遮断機構、計測、防火、漏洩検知、整備口までを一つに統合した専用設計品だった。飛行中に投棄する構造は取らず、着陸まで装着したまま運用する方針も、すでに固まっていた。
「左右で推力差が出た場合は」
エリヤが尋ねると、ミリは即答した。
「許容値を超えた時点で、両側とも停止します。片方だけを生かす判断はしません」
「賢明だ」
エリヤの短い評価に、ミリは少しだけ誇らしげな表情を見せた。
後席は、もう元のTF-104Gの複座練習機の面影をほとんど残していなかった。操縦桿、ラダーペダル、訓練用の計器盤は撤去され、代わりにAPU、電力、油圧、境界層制御、翼端ロケット、RCS、与圧、酸素、生命維持、テレメトリー、機上記録、無線、異常時系統隔離を監視・操作するコンソールが、びっしりと並んでいた。
「後ろから直接操縦はできない。代わりに、前が効かなくなったときの最後の砦になる」
エリヤがそのコンソールを見ながら言うと、プリヤが頷いた。
「記録と通信は、こちらで全部拾えます。前席に何かあっても、後ろから機体を落ち着かせて、帰す経路へ乗せられます」
「後ろから直接、舵を切れるわけじゃない。そこは、前の複座練習機とは根本的に違う」
エリヤがそう念を押すと、プリヤは頷いた。
「分かっています。後席が入力するのは操舵量ではなく、FBWとオートパイロットへの目標値です。方位、高度、速度、姿勢保持、帰投経路、自動降下、待機経路、自動進入、RCS姿勢安定モード。どれも間接的な指令になります」
「前が完全に動けなくなったときのための、最後の手段だ。普段使う想定の系統じゃない」
エリヤの言葉に、プリヤは真剣な表情で頷いた。使わずに済むことが一番だと、誰もが理解していた。
尾部には、二基のドラッグシュートが新たに組み込まれていた。高高度でのスピンや制御喪失からの回復専用のものと、着陸時の減速専用のもの。用途も展開手順も異なる、まったく別系統の装備だった。
「回復用と着陸用、絶対に取り違えるな」
格納庫でその取り付けを確認していたエリヤが、整備士にそう念を押した。
「展開手順書にも、色分けして表記してあります。混同しようがない作りです」
整備士がそう答えると、エリヤは実際に手順書を手に取り、隅々まで目を通してから頷いた。
塗装工程は、最後に回された。機体全体がセラミックホワイトに覆われ、レドームと機首上面の防眩部分だけが黒く残された。高高度の熱環境を考えた機能塗装であって、単なる見た目のためではなかったが、それでも、足場が外されて全容が現れた瞬間、立ち会った社員たちから、思わず声が漏れた。
「白いな」
オーウェンがそう呟くと、テオも頷いた。
「ずいぶん、見違えた機体だ」
二人は、かつて自分たちが現地で検分したあの日のことを思い出していた。埃をかぶり、防錆処理だけが施された、ただの退役機だった三機のうちの一機。それが今、白く塗り直され、見たこともない装備を抱えた研究機として、目の前に立っている。
「あの頃の面影は、もうほとんどないな」
オーウェンがそう漏らすと、テオも頷いた。
「中身は、もっと別物になっている。外見より、よっぽど変わった」
二人のやり取りを少し離れた場所で聞いていた若手整備士が、感慨深げに白い機体を見上げていた。この機体がどんな道のりを経てここまで来たのか、記録の上でしか知らない世代だった。それでも、目の前の白さには、言葉にしづらい重みがあった。
機首には、登録記号が新しく書き入れられていた。
N1047QT
その四文字と数字の並びを、ケンはしばらく黙って見つめていた。十一年前、ラッチの格納庫で一人きりの整備士の背中を見た日から、ここまで積み上げてきたものの全てが、この一つの記号に収斂していくような気がした。
「いい記号だ」
隣に立ったエリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「意味なんて、特にない。それでも、気に入っている」
「意味がないものほど、長く残る」
エリヤの言葉に、ケンは小さく笑った。法務のキャサリンが、登録と特別耐空証明の書類を手に歩み寄ってきた。
キャサリンは手元の書類をめくりながら言った。
「登録、運用制限の範囲、試験目的、機体構成、飛行試験計画。どれも当局との整合は取れています。ただし、それは『この条件なら試験を進めてよい』という許可であって、『この機体が安全に飛ぶ』という保証ではありません。これはあくまで書類上の完成です」
「分かっている」
ケンがそう答えると、キャサリンは続けた。
「完成したことと、飛行試験に合格したことは別物です。特にこの機体は」
「誰よりも、俺たちがそれを分かっている」
ケンの答えに、キャサリンは小さく頷いた。
格納庫に集まった面々を前に、テストディレクターのマギーが淡々と告げた。
「機体各部の構成確認、完了。これで、ようやくスタートラインに立てた。本番はここからだ」
その一言に、浮かれかけていた空気が、少しだけ引き締まった。
「拍子抜けするくらい、あっさりした言い方ですね」
ライアンがそう茶化すと、マギーは笑いながら答えた。
「浮かれるのは、実際に高度を取ってからでいい。今日はまだ、機体が白くなっただけだ」
その言葉に、集まった誰もが頷いた。二年かけて積み上げてきたものは、確かに形になった。だが、それが本当に空へ通用するかどうかは、まだ誰にも証明されていなかった。
マギーは続けて、今後の予定を手短に告げた。
「これから、地上での最終構成確認と、各系統を組み合わせた統合試験に入る。飛行試験そのものは、それが終わってからだ」
「どれくらいかかる」
ライアンが尋ねると、マギーは肩をすくめた。
「急かされて答えを早めるつもりはない。終わるまでかかる、としか言えない」
その答えに、ライアンは苦笑しながらも、それ以上は食い下がらなかった。この会社で働く以上、急かして得をした試しがないことを、彼もすでに十分に学んでいた。入社した頃はまだ、その流儀に半信半疑だったが、今はもう、誰よりも馴染んでいた。
塗装が終わった機体の周りでは、構成管理を担当する班が、最終的な部品番号と図面の照合を進めていた。改修に使われた部品、交換された部品、追加された系統。その全てが、記録として一つ残らず紐付けられていく。
「ここの照合が甘いと、あとで何かあったときに、原因追跡ができなくなる」
テオがそう言うと、若手の整備士たちは一つずつ、慎重にチェックを重ねていった。華やかな瞬間の裏側で、こうした地味な記帳作業が、この会社のあらゆる現場を支えていた。
その夜、ケンとエリヤは誰もいなくなった格納庫で、白くなった機体を並んで見上げていた。
「ラッチに見せるには、ちょうどいい機体になった」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「ああ。だが、見せるのは、もう少し先だ」
「飛んでから、か」
「飛んで、無事に戻ってきてからだ」
ケンの答えに、エリヤは小さく笑った。性急に進めない、という流儀は、ここに来てもまだ変わっていなかった。十一年前、デザート・エッジで学んだその一点だけは、会社がどれほど大きくなっても、揺らぐことがなかった。
白い機体は、静かな格納庫の明かりの下で、次の工程をじっと待っていた。六万フィートという、まだ誰も踏んだことのない目標が、もうすぐそこまで近づいていた。格納庫の明かりを落としながら、エリヤはもう一度、白い機体を振り返った。
「長い二年だったな」
「まだ、終わってもいない」
ケンの答えに、エリヤは苦笑しながら頷いた。格納庫の扉が、静かに閉まっていった。