もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2019年後半 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
六万フィート。数字だけを見れば、現役時代の二人にとって、決して未知の領域ではなかった。それでも、機体がTF-104G改となってから初めて挑むその高度は、これまでとはまったく違う重みを持っていた。基準飛行、高高度仕様への改修、地上での統合試験。積み上げてきた全ての工程が、ようやくこの一回の飛行に結実しようとしていた。
試験前日のブリーフィングには、マギーをはじめ、メイ、ネイト、ミリ、プリヤ、ソフィアが顔を揃えていた。壁には、飛行経路、天候条件、中止基準、緊急時の帰投経路が、何枚もの図面にまとめられて貼り出されている。
「中止基準から確認する」
マギーがそう切り出すと、各担当が順に読み上げていった。エンジン、APU、与圧、酸素、FBW、油圧、電源。どれか一つでも異常の兆候が出れば、その時点で上昇を中止し、安全な高度まで降りる。欲を出して無理に高度を稼ぐことは、誰にも許されていなかった。
「中止基準に達したら、迷わず従う。現場の判断より、基準が優先される」
ケンがそう念を押すと、全員が頷いた。十一年かけて積み上げてきたこの会社の流儀が、ここでも徹底されていた。
「目標高度六万フィート。前席ケン、後席エリヤ。チェイスはライアン、Lightningで随伴」
マギーが淡々と読み上げると、ケンとエリヤは頷いた。
「今回は、翼端ロケットは使わない。純粋にJ79の性能だけで到達する高度だ」
ネイトがそう付け加えると、ミリも頷いた。
「ロケットの出番は、もっと上です。今回はまず、機体とAPU、FBW、与圧、酸素系統が、設計通りに働くかを確かめる段階になります」
「地上でどれだけ確認しても、実際に空へ出してみないと分からないことがある」
ケンがそう言うと、マギーは頷いた。
「だからこそ、今回は六万で止める。欲を出さない」
ブリーフィングのあと、ケンとエリヤは圧力服への着替えに向かった。高高度生理、低酸素症状の自己認識、急減圧対応。これまで繰り返し受けてきた訓練の一つひとつが、いよいよ実際の飛行として試される日だった。
圧力服は、現役時代に着慣れていた装備とは、また違う種類の緊張感を伴うものだった。ヘルメットのバイザーを下ろし、酸素マスクの密着を確かめる。地上クルーが一つひとつの接続を丁寧に確認していく様子を、エリヤは黙って見つめていた。
「装具の確認、問題ありません」
地上クルーの一人がそう報告すると、エリヤは小さく頷いた。
「この一手間を疎かにした人間を、俺は何人も見てきた。お前たちの仕事に感謝する」
エリヤの言葉に、若い地上クルーは少し照れたように頷いた。
「緊張しているか」
着替えながら、エリヤが尋ねると、ケンは小さく笑った。
「している。だが、悪い緊張じゃない」
「ラッチの格納庫を見てから、十一年か」
「長かったような、あっという間だったような」
二人のそんなやり取りに、傍らで準備を手伝っていたプリヤが、思わず耳を傾けていた。まだ入社して数年の彼女にとって、この会社の歴史は、ほとんど伝聞でしか知らないものだった。
離陸は、早朝だった。N1047QTが滑走路へ向かう後方には、Lightningを駆るライアンの機体が続いた。管制塔との交信のあと、二機は相次いで上昇を開始した。
「エンジン、各系統、正常」
ケンの報告に、エリヤが応じた。
「APU、電力、油圧、境界層制御、正常。与圧、酸素系統、正常」
高度が上がるにつれ、空の色が少しずつ濃くなっていく。三万、四万、五万フィートと、機体は着実に高度を稼いでいった。
「三万、全系統正常」
「四万、変化なし」
ケンとエリヤは、高度を一段上がるたびに、短く状態を読み上げては地上へ伝えた。地上の管制室では、プリヤがテレメトリーの数値を見ながら、その一つひとつを記録していく。グラフ上の線は、地上試験で得られた予測値とほぼ重なっていた。
「予測通りです」
プリヤがそう報告すると、ネイトは画面を見ながら小さく息をついた。
「予測通りというのが、こんなに安心できることだとは思わなかった」
隣で聞いていたメイが、笑いながら頷いた。基準飛行から積み上げてきた数字の土台が、ここで初めて、実際の飛行という形で裏付けられていた。
「五万五千」
ケンがそう告げると、エリヤは計器を一つずつ確認した。
「エンジン、APUとも安定。与圧も問題なし」
「六万まで、あと少しだ」
地上との交信では、プリヤが淡々と数値を読み上げ、マギーがその報告を基に、進行の可否を判断していた。
「地上、六万フィート到達を確認。すべての系統、正常範囲」
プリヤの声に、格納庫の管制室では、小さなどよめきが起きた。だが、マギーはすぐにそれを抑えた。
「まだ喜ぶ段階じゃない。これから、きちんとした巡航と降下が残っている」
Lightningを駆るライアンは、少し離れた位置から機体の様子を見守っていた。
「外観、異常なし。脚、フラップ、翼端ユニット、すべて正常な位置にある」
ライアンの報告に、地上は静かに頷いた。随伴限界の八万フィートには、まだ余裕がある高度だった。
六万フィートでの巡航は、予定の時間だけ続けられた。眼下に広がる景色は、現役時代に何度も目にしてきたものと、どこか似ていながらも、まったく違って見えた。あの頃は与えられた任務として見ていた景色を、今は自分たちで積み上げてきた機体から、自分たちの意志で見ている。その違いを、ケンは言葉にはしなかったが、確かに感じ取っていた。
その間、エリヤは後席のコンソールで、APU、FBW、与圧、酸素、各系統の数値を一つずつ記録していった。
「何か、違和感は」
ケンが尋ねると、エリヤは少し考えてから答えた。
「ない。むしろ、拍子抜けするくらい素直だ。地上での試験通りに動いている」
「それが、一番いい知らせだ」
やがて、降下の時間になった。慎重に高度を落としながら、機体は通常の飛行高度へと戻っていく。着陸後、滑走路を降りた二人を、格納庫前で待ち受けていた面々が迎えた。
「お疲れさまでした」
メイがそう声をかけると、ケンはヘルメットを外しながら答えた。額には、圧力服の下で流した汗が浮かんでいた。久しぶりに味わう種類の疲労だったが、悪い感触ではなかった。
「問題なし。だが、課題は山ほど残っている」
マギーがすぐにその言葉を引き取った。
「飛行後評価、記録解析、操縦士所見の照合。それが全部終わるまで、今日の飛行は『成功』じゃない。『異常なく完了した』というだけだ」
その厳密な線引きに、集まった若手社員の何人かは、少し驚いた顔をしていた。だが、テオやオーウェンのような古参は、むしろ当然のことのように頷いていた。この会社では、昔からそうだった。
着陸後の飛行後評価は、何日もかけて丁寧に行われた。機体各部の点検、記録媒体の回収、数値解析、そしてケンとエリヤそれぞれの所見聴取。ソフィアは燃料系統の消費パターンを、ミリは翼端ユニットの温度変化を、ネイトはFBWの応答記録を、それぞれ個別に洗い直した。
「所見は、お互いにまだ見せ合っていませんよね」
聴取の場で、マギーがそう確認すると、ケンとエリヤはそれぞれ頷いた。搭乗員の所見は、互いの発言に影響されないよう、必ず個別に固定してから照合する。これは、2008年の創業当初から変わらない、この会社のやり方だった。
「エリヤの所見では、違和感はゼロだったそうだな」
照合の場で、ケンがそう言うと、エリヤも頷いた。
「お前の所見も同じだったと聞いている。珍しく、意見が合ったな」
「珍しくはない。いつも大体合っている」
ケンがそう言い返すと、マギーが二人の会話を遮った。
「所見が合っているのは良い傾向だが、それだけで安心材料にはしない。数値側の解析が終わるまでは、判断を保留する」
その言葉に、二人は素直に頷いた。所見の一致は、あくまで一つの参考情報でしかない。最終的な判断は、常に数字と記録が握っていた。
数日後、記録解析と所見照合が完了し、ようやく六万フィートの到達が正式に承認された。会議室で、マギーがケンとエリヤに次の方針を告げた。
「次の目標は、六万一千。しばらくは、この一千フィート刻みを繰り返すことになる」
マギーがそう告げると、ライアンが肩をすくめながら言った。
「刻み幅が小さいと、記録する飛行カードばかり増えていきますね」
「文句を言うな。その積み重ねが、いずれお前自身の身を守ることになる」
エリヤにそう返されると、ライアンは素直に頷いた。口は軽くても、肝心なところでは引かない。その性分は、入社から四年経った今も変わっていなかった。
「性急に上げない、ということだな」
エリヤがそう確認すると、マギーは頷いた。
「ああ。欲を出した瞬間に、足元をすくわれる。それは、この十一年でみんなが学んできたことのはずだ」
「一千フィートずつ、八万まで。その先は、承認高度から五百フィートずつに切り替える。飛行間隔も、年を追うごとに広げていく」
マギーがそう続けると、ネイトが尋ねた。
「なぜ、八万を境に刻みを変えるんですか」
「Lightningの随伴限界が八万フィートだからだ。それより上は、チェイス機の目がなくなる。より慎重に進める必要がある」
マギーの答えに、ネイトは納得したように頷いた。チェイス機という、もう一つの目が届く範囲とそうでない範囲で、試験の進め方そのものが変わる。そうした線引きの一つひとつが、この計画の根底にはあった。英国から運用を任されたLightningが、この先も重要な役割を担い続けることになる。
「最終的には、どこまで行くつもりなんですか」
ミリがそう尋ねると、ケンはしばらく黙ってから答えた。
「まだ、具体的な数字は言わない。ただ、六万で満足するつもりがないことだけは、約束する」
その答えに、ミリは小さく笑った。複座の候補を検討していた頃から、ケンはずっとこの言い方を崩していなかった。
その言葉に、会議室の誰もが頷いた。六万フィートという、一つの小さな、しかし確かな一歩。その先に、まだ見ぬ五万フィート分の道のりが、静かに続いていた。
式典のような大げさな祝い方はしない。それは、十年目の式典のときから変わらない、この会社の流儀だった。その夜、ケンとエリヤは自宅で、短い祝杯を交わした。大げさな祝賀はせず、ただグラスを軽く合わせるだけの、二人らしいささやかな乾杯だった。
「今日のことを、ラッチに話したいな」
エリヤがそう言うと、ケンは首を振った。
「まだだ。もっと上まで行って、ちゃんと形になってからにする」
「分かっている。言ってみただけだ」
エリヤはそう言って笑った。
「それにしても、六万で満足しないと、よくあの場で言い切ったな」
「噓は言っていない。ただ、具体的な数字はまだ誰にも教えるつもりはない」
ケンの答えに、エリヤは呆れたように笑った。
「相変わらずだ」
「お前だって、同じ性分だろう」
ケンがそう返すと、エリヤも否定しなかった。六万フィートの空の色を、二人はまだ、はっきりと覚えていた。まだ見ぬ高みへの道のりは長かったが、確かに一歩、前へ進んでいた。