もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2020年初頭 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
白い機体が完成し、六万フィートへの到達から、数か月が経っていた。六万一千、六万二千、六万三千。一千フィートずつの更新は、当初の緊張感こそ薄れつつあったが、その分、手順としての確かさを増していた。飛行のたびに、同じ手順で準備し、同じ厳密さで評価し、同じように次の承認を待つ。その繰り返しが、もはや特別な出来事ではなく、この会社の日常の一部になりつつあった。
「これでもう、五回目の更新か」
会議室で飛行記録を整理しながら、マギーがそう呟いた。メイが頷いた。
「毎回、同じ手順で進められています。属人的な勘に頼らず、誰が見ても同じ判断に行き着く。これはもう、できあがった試験系列だと言っていいと思います」
ネイトも頷いた。
「FBWの応答も、毎回ほぼ予測通りです。想定外の挙動は、今のところ一度も出ていません」
「それでも、油断はしない」
マギーがすぐに釘を刺すと、ネイトも頷いた。
「もちろんです。想定通りに進んでいるからこそ、逆に慎重になります」
プリヤも記録の束を抱えながら付け加えた。
「テレメトリーと機上記録の照合も、毎回きれいに一致しています。異常があれば、すぐに拾える体制です」
その報告の一つひとつが、積み重ねてきた年月の確かさを物語っていた。
その報告を受けて、ケンはしばらく黙っていた。
「成立した、ということだな」
「はい。まだ目標高度にはほど遠いですが、ここから先を進めるための土台は、確かにできています」
マギーの言葉に、ケンは小さく頷いた。そして、エリヤへ目をやった。
「そろそろ、いいんじゃないか」
エリヤは、すぐにその意味を理解した。
「ラッチにか」
「ああ。飛んで、無事に戻ってきて、それを何度も繰り返せる形になった。もう、見せても恥ずかしくない」
その言葉に、エリヤは深く頷いた。
数日後、ケンは自ら電話をかけた。短い呼び出し音のあと、聞き覚えのある、ぶっきらぼうな声が応えた。
「ケンか。珍しいな、お前から電話してくるとは」
「見せたいものがある。アリゾナまで来てくれないか」
「見せたいもの、ね。お前が十一年前、ふらっとうちの格納庫に来たときも、似たようなことを言っていたな」
ラッチの声には、懐かしさと、わずかな警戒が入り混じっていた。
「あのときの礼を、ようやく形にできた。見てもらいたい」
ケンがそう言うと、電話の向こうでしばらく沈黙があった。
「分かった。行く」
ラッチが本社を訪れたのは、それから二週間後のことだった。飛行機嫌いを公言してはばからない男が、わざわざ長時間のフライトを経てツーソンまで来たこと自体が、ケンにとっては一つの驚きだった。
「お前が飛行機で来るとは、思わなかった」
空港まで迎えに出たケンがそう言うと、ラッチは顔をしかめた。
「お前が呼ぶからだろう。それに、お前が本気で見せたいと言うなら、文句を言っている場合じゃない」
本社に着き、出迎えたエリヤを見るなり、ラッチは開口一番、軽口を叩いた。
「ずいぶん、立派な制服を着るようになったじゃないか」
「お前も、あのオレンジが似合うと思うぞ」
エリヤがそう返すと、ラッチは鼻で笑った。それでも、格納庫へ案内される道すがら、その表情は少しずつ変わっていった。整然と並んだ建屋、行き交う社員たち、掲示された安全記録。十一年前、埃をかぶった一機のF-15を一人きりで支えていた男の目に、その光景がどう映っているのか、ケンにもエリヤにも、はっきりとは分からなかった。
格納庫へ向かう道すがら、ラッチはすれ違う社員の一人ひとりに、何気なく目を向けていた。整備服姿の若手が、笑いながら部品を運んでいく。別の一角では、年配の技術者が、真剣な表情で図面を確認している。どの顔にも、追い詰められたような疲労の色はなかった。
「お前らの会社は、どこを見ても、誰一人、死んだ目をしていないな」
ラッチがぽつりと言うと、エリヤが頷いた。
「死んだ目をさせないために、十二年かけて少しずつ仕組みを作ってきた。簡単なことじゃなかった」
「簡単なことだとは、言っていない」
ラッチの返しに、エリヤは小さく笑った。
第三格納庫の扉が開かれ、白い機体が姿を現した瞬間、ラッチは思わず足を止めた。
「これは」
「TF-104G改。登録はN1047QT」
ケンがそう告げると、ラッチはしばらく言葉を失っていた。セラミックホワイトの機体、翼端のロケット付き増槽、尾部の二基のドラッグシュート。見慣れたTF-104Gの面影を残しながら、どこか異質な気配をまとったその機体を、ラッチは食い入るように見つめていた。
「高度を取るための機体だ。まだ、六万フィートちょっとまでしか行っていないが」
エリヤがそう説明すると、ラッチは首を振った。
「ちょっとどころか、とんでもない話だ。お前ら、本気でどこまで行くつもりだ」
「それは、まだ言えない」
ケンがそう答えると、ラッチは呆れたように笑った。
「相変わらずだな」
機体の周りを一周しながら、ラッチは整備記録の束にも目を通した。構成管理の徹底ぶり、部品番号と図面の照合、技術者たちの説明の的確さ。かつて自分が一人で抱えきれなかったものの全てが、ここでは当たり前のこととして機能していた。
案内役を買って出たテオが、記録の一冊を手渡しながら説明を加えた。
「改修のどの段階で、どの部品が入って、誰が確認したか。全部ここに残っています」
「お前は」
ラッチがそう尋ねると、テオは答えた。
「マテオ・イバラ。買収前からこの会社にいます」
「給料の遅配で、みんな苦しんでいた頃からか」
「ご存じでしたか」
テオが驚いた顔をすると、ラッチは肩をすくめた。
「ケンとエリヤから、昔話として聞いた程度だ」
その短いやり取りに、テオは小さく頭を下げた。この白い機体の土台には、自分たちが乗り越えてきた日々も確かに含まれている。その実感が、改めてテオの中に蘇っていた。給与の遅配に苦しんでいたあの頃の自分に、今の光景を見せてやれたら、と思わずにはいられなかった。
「お前らがうちの格納庫を見て、何に気づいたのかは、あの日聞いた」
ラッチがぽつりと言うと、エリヤが頷いた。
「飛ばせることと、飛ばし続けられることは違う。あの日、お前が教えてくれたことだ」
「教えたつもりはなかったがな」
ラッチはそう言って、肩をすくめた。それでも、その声には、かすかな誇らしさが滲んでいた。
その日の夕方、ケンの自宅では、恒例の集まりが準備されていた。庭には大きなグリルが据えられ、ケンが肉を焼く横で、エリヤが大鍋でガンボを煮込んでいる。十二年前、まだ小さな会社だった頃から変わらない組み合わせだった。
テオとオーウェンは、すっかり勝手知ったる様子で庭の隅に陣取り、メイ、ネイト、ミリ、ライアン、プリヤ、ソフィアといった面々も、思い思いに会話を交わしていた。マギーがビール片手に、マイケルとキャサリンに何か話しかけている。千七百人の会社になった今も、この庭に集まる顔ぶれは、どこか家族的な気安さを保っていた。
ライアンが早速、ラッチのもとへ近づいていった。
「あなたが、全ての始まりだと聞きました」
「大げさだな。俺はただ、自分の機体を飛ばせずに困っていただけだ」
ラッチがそう答えると、ライアンは笑った。
「その『困っていた』が、今のこの会社につながっているわけです」
「若いのは、物事を大きく言いたがる」
ラッチはそう言いながらも、まんざらでもなさそうな表情を浮かべていた。
ミリとネイトも、興味津々でラッチの周りに集まってきた。
「元のF-15は、今も飛んでいるんですか」
ミリがそう尋ねると、ラッチは頷いた。
「飛んでいる。昔よりは、ずっと状態がいい。整備の融通が利くようになったのも、こいつらのおかげだ」
ラッチがケンとエリヤを顎で示すと、二人は揃って肩をすくめた。
「あの頃と、変わらないんだな」
庭の様子を眺めながら、ラッチがそう言うと、ケンは肉をひっくり返しながら答えた。
「会社は大きくなった。だが、こういう場所でやることは、最初から変えるつもりがない」
「ガンボの味も、相変わらずか」
ラッチがそう尋ねると、エリヤは鍋をかき混ぜながら笑った。
「味だけは、十二年間ずっと同じだ。レシピを変える理由がない」
一口味わったラッチは、少し驚いた顔をした。
「これは、うまいな」
「驚くことか」
エリヤがそう返すと、ラッチは首を振った。
「驚くさ。お前らみたいな連中は、味より効率を優先しそうなものだと思っていた」
「効率だけを追いかけていたら、とっくにこの会社は駄目になっていた」
エリヤの答えに、ラッチはしばらく黙ってガンボを味わっていた。
「お世辞はいらない」
「お世辞で言っているわけじゃない」
ラッチの素っ気ない言葉に、エリヤは満足そうに頷いた。
庭の片隅では、オーウェンがラッチに昔話を振っていた。
「あんたの話は、テオからも何度か聞いたことがあるよ」
「どんな話だ」
ラッチが尋ねると、オーウェンは笑いながら答えた。
「一人で戦闘機を抱え込んで苦労していた話さ。おかげで、俺たちの待遇が今みたいになった、という流れでな」
「俺のおかげ、というのは言いすぎだ。気づいたのは、こいつらだ」
ラッチがケンとエリヤを指差すと、オーウェンは頷いた。
「それでも、きっかけがなければ、気づきもしなかったでしょう」
その言葉に、ラッチは何も言わず、ただグラスを傾けた。
夜が更ける頃、ケンとラッチは庭の端で、グラスを片手に並んで立っていた。
「ハビエルは、元気か」
ケンが尋ねると、ラッチは頷いた。
「相変わらず、一人であの機体を見てくれている。腕は落ちていない」
「機会があれば、ハビエルにも一度、ここを見せてやりたい」
ケンがそう言うと、ラッチは少し考えてから答えた。
「気が向いたら、誘ってみる。あいつは、口数は少ないが、見る目は確かだ」
その言葉に、ケンは頷いた。ラッチとの間にあった、長年の沈黙のような距離が、今夜、少しずつ埋まっていくのを感じていた。
「まだ、先は長いんだろう」
ラッチがそう言うと、ケンは夜空を見上げながら答えた。グラスの中の氷が、かすかな音を立てて揺れた。
「長い。だが、今日見せたものは、その途中にある確かな一歩だ」
「次に呼ばれるのは、もっと先の話か」
「そうなる。気長に待っていてくれ」
ケンの答えに、ラッチは小さく笑った。十一年越しの約束の、一つの区切りが、この庭で静かに結ばれていた。まだ見ぬ高みへの道のりは、この先も長く続いていく。それでも、確かな一歩を重ねてきたという事実だけは、もう誰にも揺るがせないものになっていた。
グリルの火が小さくなり始めた頃、エリヤが空いた皿を片付けながら、ケンとラッチのもとへやってきた。
「次に呼ぶときは、ガンボのおかわりも用意しておく」
エリヤがそう言うと、ラッチは珍しく、素直に笑った。
「楽しみにしている。次は、ハビエルも連れてくるかもしれない」
「それは、こちらこそ楽しみだ」
エリヤがそう応じると、ラッチは満足そうに頷いた。
庭の明かりの下、三人の影が並んで長く伸びていた。十二年前の小さな集まりから始まった何かが、時間をかけて、今、確かにここまで続いていた。