もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2020年前半 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
試験系列の確立をラッチに見せてから、また時間が経っていた。六万フィートから八万フィートまでは、思っていたよりも早く過ぎていった。一千フィートずつの更新は、数週間おきに淡々と重ねられ、春が終わる頃には、八万フィートに手が届いていた。
格納庫の壁に掲げられた承認高度の表示板は、その数字を書き換えるたびに、少しずつ上へとずれていった。飛行のたびに積み上がっていく飛行カードの束は、事務所の棚で分厚さを増し、ケンとエリヤの手帳にも、同じような短い記録が、淡々と並んでいった。
「また一枚、増えましたね」
ある日、記録棚を整理していたプリヤがそう言うと、隣にいたソフィアが笑った。
「これだけ同じ手順を繰り返していると、さすがに数えるのも億劫になってきます」
「数えなくていいように、ちゃんと記録してあります」
プリヤがそう返すと、ソフィアは頷いた。地味な作業の積み重ねが、この計画全体を支えていることを、二人ともよく理解していた。
「八万、到達」
プリヤの声が管制室に響いた瞬間、マギーはすぐに次の方針を告げた。
「ここからは、五百フィート刻みに切り替える。間隔も、少しずつ空けていく。これまでと同じ、焦らないやり方だ」
「Lightningの随伴限界だな」
エリヤが確認すると、マギーは頷いた。
「ああ。これより上は、ライアンの目が届かない。一回ごとの検証を、より丁寧にする必要がある」
その方針どおり、八万フィートを過ぎてからの飛行は、間隔が目に見えて広がっていった。数週間に一度だった更新が、月に一度になり、やがて数週間から一月の幅で、慎重に間隔を取りながら進められるようになっていった。
「焦れったくないのか」
ある日、見学に訪れたマイケルがそう尋ねると、ケンは首を振った。
「焦れったいと思った瞬間が、一番危ない。急ぐ理由は、どこにもない」
「経営の数字で言えば、投資回収はゆっくりになる一方ですが」
マイケルがそう続けると、ケンは笑った。
「それを承知で、それでもお前が予算をつけてくれているんだろう」
「もちろんです。安全を削ってまで急がせるつもりは、最初からありません」
マイケルの答えに、ケンは満足そうに頷いた。経営と現場、双方が同じ速度で足並みを揃えていることが、この計画を支える土台の一つになっていた。十二年前、給与の遅配に苦しんでいた会社からは、想像もできない光景だった。
その間、機体は着実に、いくつもの確認事項を一つずつ片付けていった。
「RCSの応答、設計通りです」
ある飛行のあと、ミリがそう報告すると、ケンは頷いた。
「空力操縦面との協調も、問題ないか」
「はい。高高度域で空力操縦面の効きが落ちる分を、RCSが補っています。想定していた通りの分担です」
ミリの声には、確かな手応えが滲んでいた。入社した当初はまだ概念上の話でしかなかった系統が、今や実際の飛行の中で、設計通りに働いていた。
「片側だけ推力が出る、という状況は」
エリヤが尋ねると、ミリは首を振った。
「これまでの飛行では、一度も発生していません。ですが、発生した場合の自動停止手順は、地上試験の通りに機能するはずです」
「はず、で終わらせるな」
エリヤがそう返すと、ミリは頷いた。
「次の便で、片側だけをわずかに絞った模擬条件を試します。実機でも手順が機能することを、確かめておきたいので」
その提案に、エリヤは満足そうに頷いた。起きていない事態への備えを怠らない姿勢は、この会社のどの部署でも共通していた。
数週間後、実際にその模擬試験が行われた。片側の推力をわずかに絞り、自動停止手順が正しく作動するかを確認する。結果は、設計通りだった。
「手順通り、両側とも正常に停止しました」
ミリがそう報告すると、エリヤは頷いた。
「これで、一つ安心材料が増えた」
「はい。ただ、安心はしても、油断はしません」
ミリの答えに、エリヤは満足そうに笑った。
翼端ロケットの燃焼終了直後にも、いくつかの発見があった。
「ロケット燃焼終了の瞬間、わずかに機首が下がる傾向があります」
ネイトがそう報告すると、エリヤが応じた。
「推進剤を使い切った分、重量と重心が変わる。想定の範囲内か」
「はい。FBWの補正も、その範囲内で収まっています」
その報告に、ケンは頷いた。燃焼終了という節目のたびに生じる小さな姿勢変化は、毎回きちんと記録され、次の飛行へ反映されていった。
高度が上がるにつれ、燃焼終了直後の姿勢変化は、わずかずつではあるが大きくなっていった。推進剤を使い切った分の重量変化が、高度を追うごとに無視できない要素になっていく。ネイトとミリは、そのたびに新しいデータを計算モデルへ組み込み、次の飛行に備えた。
「モデルの精度は、上がっているか」
ある日、ケンがそう尋ねると、ネイトは頷いた。
「実測値との誤差は、毎回縮まっています。このペースなら、もっと上の高度でも、十分な精度で予測できるはずです」
「予測はあくまで予測だ。過信はするな」
ケンがそう釘を刺すと、ネイトは頷いた。
「もちろんです。予測と実測がずれた瞬間が、一番危ない瞬間だということは、忘れていません」
その言葉に、ケンは頷いた。この会社で働く人間は、誰もがどこかで、同じ教訓を体に刻み込んでいた。
Lightningとの運用も、回を重ねるごとに洗練されていった。八万フィートで随伴を打ち切ったライアンは、そこから先はテレメトリーと地上追跡に徹し、N1047QTが降下してくるのを待つ。
「降下中の機体、視認」
ある飛行で、ライアンがそう報告すると、地上はすぐにその声を記録した。
「脚、フラップ、翼端ユニット、すべて正常な位置にある。外板にも異常なし」
ライアンの報告は、いつも変わらず、断定を避ける具体的な言い回しだった。「正常」ではなく「正常な位置にある」。その細かな言い回しの違いを、この会社はずっと大事にしてきた。
降下してきたN1047QTとLightningが編隊を組み直し、揃って帰投する光景は、回を重ねるごとに板についていった。管制室の一角で、その様子をモニター越しに見ていた若手整備士が、感心したように呟いた。
「二機編隊、絵になりますね」
「絵になるかどうかより、無事に帰ってくることの方が大事だ」
隣にいたオーウェンがそう返すと、若手整備士は素直に頷いた。見た目の格好よさに浮かれず、地に足のついた見方をする。その姿勢は、古参から若手へ、少しずつ受け継がれていくものだった。
その道のりの途中、八万五千フィートを過ぎたあたりで、一度だけ飛行が延期になったことがあった。原因は、翼端ロケットの推進剤タンクの圧力計に、わずかな指示の揺らぎが見つかったことだった。
「致命的な異常には見えないが」
点検結果を見ながら、ミリがそう言うと、エリヤはすぐに応じた。
「見えない、で済ませるな。原因が分かるまで、次の便は飛ばさない」
エリヤの判断に、誰も異を唱えなかった。原因究明には二週間を要した。最終的に、圧力センサー自体の経年劣化が見つかり、交換することで解決した。
「結局、機体の問題じゃなかったな」
原因が判明したあと、ケンがそう言うと、ミリは頷いた。
「はい。ですが、センサー一つの異常も、見逃していい理由にはなりません」
ミリの答えに、ケンは満足そうに頷いた。小さな異常ほど、丁寧に扱う。それが、この会社の変わらない流儀だった。
九万フィートを突破した日、格納庫には珍しく、静かな高揚感が漂っていた。だが、マギーはいつものように、その空気をそっと引き締めた。
「九万を越えたからといって、何かが変わるわけじゃない。やることは、これまでと同じだ」
その言葉に、集まった誰もが頷いた。派手な祝い方をしないという流儀は、十二年経った今も、ここに来てまだ変わっていなかった。
月日が過ぎる中で、オレンジの作業服は何着か新しいものに替えられ、格納庫の隅に保管されたままの、まだ一度も使われていない回復専用シュートの予備は、封印シールが貼られたまま、静かに出番を待ち続けていた。
「このシュート、一度も使わずに済んでいるな」
ある日、点検に訪れたオーウェンがそう漏らすと、テオは頷いた。
「使わずに済むのが、一番いい」
その会話には、特別な緊張感はなかった。ただの日常の一コマとして、交わされた言葉だった。
同じ頃、英国支社からはライアンの元へ、定期的な近況が届けられていた。Lightningの整備状況、部品供給の見通し、アルの近況。画面越しのやり取りは、すっかりこの会社の日常に溶け込んでいた。
「そっちのTSR-2は、どうなっている」
ある通話で、ライアンがそう尋ねると、画面の向こうでアルが苦笑した。
「まだ飛んでいない。グレアムは相変わらず、楽観的なことを言っているがな」
「気長に待つしかなさそうですね」
ライアンがそう言うと、アルは頷いた。
「お互い様だ。お前たちの九万フィートも、気が遠くなるような積み重ねの先にあるんだろう」
その言葉に、ライアンは笑って頷いた。大西洋を挟んだ二つの計画が、それぞれのペースで、着実に前へ進んでいた。
九万九千フィートへの到達が承認されたのは、2020年の夏、八月に入ってすぐのことだった。これまでの慎重な積み重ねの延長線上に、ごく自然な形で訪れた承認だった。記録解析を担当したプリヤも、いつもと変わらない淡々とした口調で、その数字を読み上げた。
「次は、九万九千五百」
マギーがそう告げると、ケンとエリヤは頷いた。これまでと変わらない、五百フィート刻みの、ただの一歩のはずだった。
「中止基準は、いつも通りでいいか」
エリヤが確認すると、マギーは頷いた。
「変える理由がない。これまでと同じ基準で進める」
その言葉に、二人は頷いた。何十回と繰り返してきた確認作業が、今回もまた、同じように淡々と進められていった。地上クルーも、整備班も、いつもと変わらない手順で、淡々と準備を整えていった。
「いつも通りに進める」
ケンがそう言うと、エリヤも頷いた。慎重に、一歩ずつ。十二年前にラッチの格納庫で学んだ流儀を、二人はまだ、忠実に守り続けていた。
飛行カードの束は、もうずいぶんと分厚くなっていた。その一枚一枚に刻まれた数字の積み重ねが、二人をここまで連れてきていた。
承認の報告を受けた夜、ケンとエリヤは自宅の庭で、グリルの火を眺めながら、いつものように短い会話を交わした。
「九万九千、か」
エリヤがそう呟くと、ケンは頷いた。
「あと少しで、十万が見えてくる」
「性急にはならないか」
「ならない。いつも通り、五百フィートずつだ」
ケンの答えに、エリヤは頷いた。その言葉に、何か特別な予感が混じっていたわけではなかった。ただ、これまでと同じように、淡々と次の一歩を踏み出すだけのつもりだった。
庭の端で火の始末をしながら、エリヤがぽつりと漏らした。
「九万九千五百か。数字だけ見れば、ただの五百フィートだ」
「ただの五百フィートだ。それ以上でも、それ以下でもない」
ケンの答えに、エリヤは頷いた。十二年という歳月をかけて、二人はずっと、特別な一歩を特別扱いしないことを学んできた。どれほど高くまで来ても、次の一歩を迎える姿勢だけは、最初の頃から変えていなかった。
そして、次の一枚が、まだ誰も知らない何かを記すことになるとは、この時はまだ、誰一人として知らなかった。