もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2021年 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
インシデントから半年以上が過ぎていた。会議室の壁には、時刻同期された機上記録と地上テレメトリーの波形が、何枚ものグラフとして貼り出されている。メイが最後のページをめくり、集まった面々を見渡した。
「結論が出ました」
その一言に、部屋の空気が変わった。ケン、エリヤ、マギー、ネイト、ミリ、プリヤ、テオ。全員が、半年間この結論を待っていた。
「単独の故障ではありません。高高度で翼端ロケット燃焼終了前後に重量と慣性が変化する局面で、左右アフトタンクの燃料移送ポンプの作動がわずかに不安定になり、計画された順序より燃料の移送が遅れていました」
メイが続けると、ネイトがグラフの一点を指した。
「共通供給系統の燃料圧力は、その間ずっと正常範囲に見えていました。だから誰も気づけなかった。実際には、ガンベイタンクの燃料が計画どおり先に減り、アフトタンクの燃料が相対的に残り続けて、機体の重心が少しずつ後ろへ動いていたんです」
「テイルヘビーに、気づかないまま」
ケンが低く呟くと、ミリが頷いた。
「はい。そこにRCS供給圧力のわずかな変動が重なりました。FBWの制御則は、規定範囲内の重心とRCS圧力を前提に組まれています。実機はその前提から外れていたのに、FBWはまだ前提どおりだと信じて指令を計算し続けていた」
「信じて、という言い方は正確じゃないな」
エリヤがそう言うと、ミリは小さく笑って言い直した。
「失礼しました。前提から外れていたことを、FBWには検知する手段がなかった、ということです」
「それでいい」
エリヤの答えに、ミリは頷いた。
「後方重心と低い動圧が重なった状態で、FBWが補正を積み増したあとにRCS圧力が回復し、姿勢応答が想定を外れました。テイルヘビーな機体は高迎角側へ逸脱し、空力操縦面だけでは戻しきれなかった。その吸入条件の悪化で、J79がフレームアウトしています」
「どの系統も、単独試験では合格していた」
マギーがそう言うと、メイは頷いた。
「はい。燃料移送ポンプの不安定作動、後方重心、RCS圧力変動、FBW制御則の前提外れ。この四つが同時に重なったときにだけ、あの挙動が再現されます。一つずつ見れば、どれも通常の試験条件には収まっていました」
その説明を、ケンはしばらく黙って聞いていた。
「つまり、境界条件の組み合わせを見落としていた」
「そうです。個々の系統の境界は、全部確認していました。ですが、境界と境界が重なる領域までは、試験計画に入っていませんでした」
メイの言葉に、ケンは頷いた。十二年かけて積み上げてきた慎重さの、それでも届かなかった一点だった。
法務のキャサリンも、資料をめくりながら発言した。
「当局への報告は、この結論に基づいて作成します。100,000ft挑戦の凍結は維持したまま、改修と再試験の計画を添えて提出します。原因が複合的だったことは、むしろ丁寧に説明する必要があります」
「単純な話にはできない、ということだな」
ケンがそう言うと、キャサリンは頷いた。
「単純化すれば、どこかで嘘になります。四つの系統が重なって初めて起きたことを、一つのせいにはできません」
その言葉に、ケンは小さく頷いた。十二年間、この会社が守ってきた流儀と、同じ姿勢だった。
「直す場所は」
エリヤが尋ねると、ネイトが答えた。
「三つです。燃料消費と移送の管理を見直して、計画値と実残量の差、推定重心を飛行中に継続計算します。RCS側は、圧力そのものだけでなく、推定重心と動圧に応じて指令上限を変えるよう改めます。FBWは、固定された前提を捨てて、RCS圧力、推定重心、動圧、アクチュエーターの余裕に応じて制御配分を変える制御則に書き換えます」
「地上では」
マギーが尋ねると、ミリが答えた。
「後方重心、低動圧、RCS低圧とその回復、ロケット燃焼終了を組み合わせた再現試験を、地上の模擬装置で繰り返します。そのあとシミュレーターで、搭乗員の操作を含めた統合試験です」
「それから、確認飛行だ」
ケンがそう言うと、部屋の視線が一斉にライアンへ向いた。
「俺ですか」
ライアンが少し驚いた顔をすると、エリヤが頷いた。
「高高度試験はケンと俺の役目だ。だが、改修後の機体が設計どおり応答するかを確かめる開発試験飛行は、お前の役目だ」
「分かりました」
ライアンはそう答えながら、どこか引き締まった表情を見せた。
それから数か月、格納庫では燃料系統の配管とポンプ制御盤が組み替えられ、RCSの制御盤には新しい圧力・重心連動のロジックが組み込まれていった。
テオとオーウェンは、取り外された旧式のポンプユニットを並べ、交換前と交換後の部品を一つずつ記録に残していった。
「このポンプ自体は、壊れていたわけじゃないんだな」
オーウェンがそう言うと、テオは頷いた。
「壊れてはいない。高高度での挙動が、想定より不安定だっただけだ。だが、壊れていないことと、信頼できることは違う」
「交換する理由としては、十分だ」
オーウェンの言葉に、テオも頷いた。構成管理の記録には、交換の理由と根拠が一行ずつ、丁寧に書き加えられていった。
地上の模擬装置では、ミリとネイトが同じ条件を何十回と再現し、そのたびに新しいFBW制御則の応答を確認した。
「また同じ結果か」
ある日、ネイトがそう呟くと、ミリが答えた。
「同じ結果が出ることが、今は一番いい結果です」
地味な繰り返しの先に、ようやく安定した数字が積み上がっていった。シミュレーターでは、ライアン自身が操縦桿を握り、何度も同じ異常事態を体験しては、改修後の機体がどう応えるかを確かめていった。
「前のFBWなら、ここで応答が落ちていた」
ある日のシミュレーター試験のあと、ライアンがそう言うと、ネイトが頷いた。
「今のFBWは、重心とRCS圧力の推定値を見て、先に指令配分を変える。同じ条件でも、起きることが違う」
確認飛行の日、ライアンは前席に座り、後席にはミリが乗った。目標はあの日の高度ではない。すでに何度も安全に到達してきた七万フィート付近で、改修後の燃料管理、RCS、FBWが設計どおりに働くかどうかを、意図的に厳しい条件のもとで確かめることだった。
「ケベック・タンゴ、地上。テレメトリー受信良好」
プリヤの声が無線に入る。管制卓にはケン、エリヤ、マギーが並び、画面の数字を見つめていた。
「了解。上昇開始」
ライアンが応じ、J79がゆっくりと機体を押し上げていく。高度計の針が着実に上がっていった。
七万フィート手前、ライアンは手順どおり、翼端ロケットの点火スイッチへ指を伸ばした。
「点火」
その声とともに、両翼端で短い閃光が走り、直後に機体全体を押し出すような衝撃が座席を通じて伝わった。燃焼音は低く太く、機体の振動が座席の背もたれまで届く。計器盤の加速度表示が一気に跳ね上がり、高度計の針の動きが目に見えて速くなった。
「両側、推力立ち上がり確認。対称」
ミリの声が、揺れの中でもはっきりと響いた。
「推力、対称。良好」
ライアンが短く復唱する。機体は加速しながら上昇角を保ち、薄くなっていく空気の中を押し上げられていく。窓の外の青は、見る間に濃さを失い始めていた。座席を通じて伝わる燃焼の振動は、これまで記録でしか知らなかったものだった。推進剤を焼く匂いまでは与圧服の中には届かないはずだったが、ライアンは体の奥でそれを感じているような錯覚を覚えた。
「上昇率、計画値どおり」
ミリの声が後席から届く。ライアンは計器の並びを一つずつなぞりながら、燃焼の余韻がまだ機体全体に残っていることを感じ取っていた。
「意図的に、左アフトタンクの移送を一段遅らせます」
ミリがそう告げると、ライアンは短く「了解」と返した。これは事故の再現ではなく、改修した系統が、あの日と同じ種類の偏りをどう扱うかを確かめるための、計画された一手だった。
「燃料移送、偏り検知。推定重心、後方へ移動を表示」
ミリの報告に、ライアンは頷いた。
「FBW、応答は」
「指令配分、切り替わっています。アクチュエーター余裕を再計算、RCS指令上限も連動して変化」
ミリの声には、確かな手応えがあった。
翼端ロケットの推力表示が、予定どおりゼロへ落ちた。
「ロケット、両側とも燃焼終了。予定どおり」
ミリの報告のあと、機体はわずかに機首が浮く兆候を見せた。だが今回は、その兆候が始まった瞬間から、FBWがすでに対応を始めていた。
「機首上げ傾向、検知。RCS、推定重心に応じた補正配分」
「姿勢、保持されています」
ライアンの声に、安堵よりも確信が滲んでいた。計器の針は、あの日とは違う動きを見せている。
「ケベック・タンゴ、地上。テレメトリー、姿勢正常。偏り検知からの補正、設計どおり」
プリヤの声が届くと、管制卓でマギーが小さく息を吐いた。ケンとエリヤは、何も言わずに画面を見つめ続けていた。
ライアンは予定の高度まで機体を保持し、所定の時間を経てから降下を開始した。着陸後、機体から降りたライアンは、ヘルメットを脱ぎながら短く言った。
「同じ条件で、違うことが起きた」
その報告に、ミリが頷いた。
「違うことが起きるように、直しましたから」
格納庫に集まった全員の表情には、まだ完全な安堵はなかった。だが、半年間止まっていた何かが、確かに一歩動き出していた。
「次は」
エリヤが尋ねると、マギーが答えた。
「今日のデータを解析してからだ」
プリヤが、積み上がった記録の束を胸に抱えたまま付け加えた。
「テレメトリーと機上記録、今のところ差は出ていません。細部の照合は、これから詰めます」
マギーはその報告に頷き、続けた。
「それが済めば、九万九千五百フィートへの再試験を検討する」
「いつも通りに」
ケンがそう言うと、マギーは頷いた。
「いつも通りにしか、進めない」
その言葉に、集まった誰もが頷いた。白い機体は、次の出番を待つように、格納庫の明かりの下で静かに佇んでいた。
その夜、ケンとエリヤは自宅の庭で、グリルの火を眺めながら、いつものように短い会話を交わした。
「半年、止まっていたな」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「止まっていたんじゃない。確かめていた」
「同じことに聞こえるが」
「違う。止まっていたら、何も進んでいない。確かめていたから、今日、ライアンが点火できた」
ケンの答えに、エリヤは小さく笑った。
「ライアンも、ずいぶん落ち着いたものだったな」
「あいつも、もう十年近くここにいる。慌てる理由を持たない人間に育った。入社した頃は、まだ随分と肩に力が入っていたものだが」
その言葉に、エリヤは頷いた。十二年前、整備会社を一つ買っただけの二人から始まった何かが、今はもう、ケンとエリヤだけのものではなくなっている。確かめる人間が増えるたびに、この計画は少しずつ、二人の手から世界へ広がっていた。
「次は、九万九千五百、か」
エリヤがそう呟くと、ケンは夜空を見上げた。
「焦らない。いつも通り、確かめながらだ」
その言葉に、エリヤは頷いた。グリルの火が、静かに揺れていた。