もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2021年後半 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
ライアンの確認飛行から、半年近くが過ぎていた。燃料管理、RCS、FBWの改修は、その後も何度となく地上とシミュレーターで検証を重ねられ、ようやく一つの区切りを迎えようとしていた。
「九万九千五百フィートへの再試験、計画書がまとまりました」
会議室で、マギーがそう切り出すと、集まった誰もが、一度言葉を止めた。目標高度の数字は、誰もが忘れていない数字だった。
「同じ高度へ、もう一度行く」
ケンがそう呟くと、エリヤが頷いた。
「逃げても、意味がない数字だ」
「逃げるつもりはない」
ケンの答えに、エリヤは小さく笑った。
キャサリンが資料を手に発言した。
「当局への報告は、改修内容と地上・シミュレーター試験の結果をすべて添えています。100,000ft挑戦の凍結解除は、この再試験の結果を見てから判断します」
「順番は変えない」
マギーがそう言うと、キャサリンは頷いた。
メイも手元の資料をめくりながら付け加えた。
「地上再現試験は、最終的に百二十回を超えました。同じ条件で、同じ結果が出ることを、何度も確認しています」
「それだけの回数が必要だった、ということだな」
ケンがそう言うと、メイは頷いた。
「はい。一度や二度の成功では、信頼する材料にはなりません」
その言葉に、ケンは満足そうに頷いた。
ミリが続けた。
「今回は、推定重心とRCS圧力の表示を、後席のコンソールに常時並べて出します。偏りの兆候が出た瞬間、エリヤさんの目にも入るようにしました」
「見える形にした、ということだな」
エリヤが尋ねると、ミリは頷いた。
「見えなかったことが、あの日の一番の問題でしたから」
その言葉に、エリヤは満足そうに頷いた。
ネイトも資料を見ながら付け加えた。
「シミュレーターでは、同じ条件を百回以上やりました。ケンさんにも、何度か付き合ってもらっています」
「付き合わされた、の間違いだろう」
ケンがそう混ぜっ返すと、ネイトは笑った。
「お陰で、同じ失敗をしなくなりました」
「それが目的だ」
ケンの短い返しに、ネイトは頷いた。
会議の後、マイケルが一人、ケンのもとへ近づいてきた。
「保険会社への説明は、僕の方で引き受ける。原因が複合的だったことも、改修の中身も、丁寧に説明する」
「数字の話にはするなよ」
ケンがそう言うと、マイケルは首を振った。
「数字の話にするつもりはない。ただ、投資家にも保険会社にも、嘘はつけない。本当のことを、きちんと説明するだけだ」
「それでいい」
ケンの答えに、マイケルは頷いた。経営の側でも、現場と同じ速度で、同じ誠実さを保とうとしていた。
飛行の日、前席にケン、後席にエリヤ、チェイスはライアンがLightningで随伴する。60,000ft挑戦の初回以来、高高度実験のたびに繰り返されてきた、見慣れた組み合わせだった。
離陸前、格納庫ではテオとオーウェンが最終点検の一覧に一つずつ印をつけていた。
「燃料系統の新しい配管、全部確認したな」
オーウェンが尋ねると、テオは頷いた。
「三回確認した。四回目はケンたちが乗る前に、もう一度やる」
「念には念を、か」
「念を入れ過ぎて困ることは、この仕事ではない」
テオの答えに、オーウェンは小さく笑った。
「ケベック・タンゴ、地上。テレメトリー受信良好」
プリヤの声が無線に入る。管制卓にはマギーをはじめ、メイ、ネイトが並び、画面を見つめていた。
高度計が79,000ft台を示す頃、後席でエリヤが小さく息を吐いた。窓の外の青は、もう地上で見る青とは別のものになり始めている。
「近いな」
報告の口調ではなかった。ケンにはそれだけで、何が近いのか分かった。この高さはいつも、エリヤを同じ場所へ連れていく。
「今日も来たか」
「毎回来る。慣れるものじゃない」
エリヤの声に、笑いも照れもなかった。ただ静かな確信だけがある。
「高山病だとは言わせない」
「言ってない」
ケンは短く返し、口の端をわずかに緩めた。高度計が80,000ftに触れる。
「ケベック・タンゴ、Lightning離脱。以後はテレメトリーと地上からの情報に切り替える」
ライアンの声に、ケンは短く応じた。
「了解した」
Lightningが離れていくと、機内にはいつもの静けさが戻った。エリヤはすぐにいつもの平坦な報告口調へ戻り、後席のコンソールへ向き直った。90,000ftを過ぎたところで、ケンは翼端ロケットの点火を指令した。
「点火」
両翼端で閃光が走り、機体を押し出す衝撃が座席を通じて伝わる。燃焼音は低く太く、振動が機体全体を満たした。計器盤の加速度表示が跳ね上がり、高度計の針の動きが速くなっていく。
「両側、推力立ち上がり確認。対称」
エリヤの声が、揺れの中ではっきりと響いた。
「推力、対称。良好」
ケンが復唱する。機体は加速しながら上昇角を保ち、薄くなっていく空気の中を押し上げられていった。窓の外の青は、見る間に濃さを失っていく。前回と同じ景色のはずだったが、後席のコンソールに並んだ新しい表示が、今回は違う何かを伝えていた。
「推定重心、ガンベイ消費に伴い前方へ移動中。計画どおり」
エリヤの声には、確かな手応えがあった。数字が、これまで見えなかったものを見せてくれている。
98,000ft台で、翼端ロケットの推力表示が予定どおりゼロへ落ちた。
「ロケット、両側とも燃焼終了。予定どおり」
エリヤの報告のあと、二人は黙って計器を見つめた。99,000ft。前回、上昇を止めた高さだ。
「99,000突破」
ケンが短く告げる。ここから先は、前回、誰も帰ってこられなかった領域だ。
「推定重心、わずかに後方へ移動を表示」
エリヤの声に、ケンはすぐに応じた。
「RCS、FBWの応答は」
「指令配分、切り替わっています。推定重心と動圧に応じて、RCS指令上限が自動的に下がっています」
エリヤの報告に、わずかな緊張と、それ以上の確信が滲んでいた。これが、半年かけて作り直してきたものの答えだった。
「ケベック・タンゴ、地上。テレメトリー、推定重心・RCS指令、FBW配分とも設計どおりの挙動」
プリヤの声が届くと、管制卓でマギーが小さく息を吐いた。だが、まだ気を緩めない。隣で記録装置を見つめていたプリヤも、画面から目を離さなかった。あの日、何が起きたのかを後から読み解けたのは、途切れなかった記録のおかげだった。その教訓を、彼女は誰よりも体で覚えていた。
99,100ft。前回、プリヤの報告のすぐあとにエリヤの目がエンジン計器の並びで止まった高度だ。
「EGT、回転数、燃料流量、すべて正常範囲」
エリヤの声は平坦だった。だが、その平坦さの裏にあるものを、ケンは聞き分けていた。
99,200ft。前回、ケンが背中を押す感触の軽さに気づいた高度だ。
「推力、安定」
ケンがそう告げると、エリヤは頷いた。前回との違いを、二人は声には出さなかった。出す必要がなかった。
99,300ft。前回、EGTが下がり始めた高度だ。
「EGT、回転数、ともに正常範囲」
エリヤの報告に、ケンは頷いた。今回、何も起きていない。それ自体が、これまでのどの報告よりも重い意味を持っていた。
99,500ft。
高度計がその数字に触れた瞬間、無線にマギーの声が入った。
「ケベック・タンゴ、地上。99,500ft、到達を確認」
その声は、いつもと変わらず抑揚が少ないままだった。だが、管制卓の誰もが、一瞬だけ画面から顔を上げた。
「継続するか」
ケンが尋ねると、マギーはわずかな間を置いてから答えた。
「試験カードどおり、99,600までの保持を認める」
「了解」
ケンは短く答え、姿勢と速度を保ったまま、数十秒の保持時間を数えた。エリヤは計器から目を離さず、推定重心、RCS圧力、FBWの配分を、一つずつ読み上げ続けた。
「全系統、正常範囲を維持」
保持時間が終わり、ケンは機首を下げ、降下へ転じた。機体は素直にその指令へ応え、高度計の数字が静かに減り始めた。
「機首下げ、応答良好」
エリヤの声に、ケンは頷いた。前回、応えなかった指令に、今回は機体が応えている。それだけで十分だった。
降下しながら、ケンは座席の下に伝わる振動の変化にも意識を向けていた。上昇時の燃焼の名残は、もうどこにもない。機体は、ただ淡々と、指令どおりの姿勢で高度を減らし続けている。
「エリヤ、酸素と与圧は」
ケンが確認を求めると、エリヤはすぐに答えた。
「維持。異状なし」
その短いやり取りにも、二人の間に積み重ねられた十二年分の呼吸が滲んでいた。姿勢の問題とは別に、生命維持系統を確かめておくことは、あの日から二人が欠かさなくなった手順の一つだった。
Lightningと再合流し、降下を続けながら、ケンはしばらく無言だった。
「同じ高度を、通り抜けた」
エリヤがそう言うと、ケンは短く答えた。
「通り抜けただけだ。まだ、終わってはいない」
着陸後、ケンとエリヤは、互いの所見をまだ照らし合わせずに、それぞれ別室で記録を口述した。何十回と繰り返してきた作法どおり、個別の所見を固定してから、初めて二人の記録を突き合わせる。その順序だけは、今日も崩さなかった。
格納庫に戻った二人を、マギー、メイ、ネイト、ミリ、プリヤ、テオ、オーウェンが迎えた。誰も大きな声を上げなかった。それでも、格納庫の空気には、これまでとは違う何かが満ちていた。
「記録、全部一致しているか」
ケンが尋ねると、プリヤが頷いた。
「はい。テレメトリーと機上記録、差はありません」
マギーが続けた。
「100,000ft挑戦の凍結解除は、この結果を踏まえて、キャサリンが当局と調整する」
「それも、いつも通りに進める」
ケンがそう言うと、集まった誰もが頷いた。
マイケルも格納庫に顔を出し、ケンと短く言葉を交わした。
「保険会社にも、これで説明がつく」
「数字のためにやったわけじゃない」
ケンがそう返すと、マイケルは頷いた。
「分かっている。それでも、数字がついてくることは、悪いことじゃない」
テオとオーウェンは、少し離れた場所でその様子を見ていた。
「あの日から、ずいぶんかかったな」
オーウェンがそう漏らすと、テオは頷いた。
「かかるだけの理由があった。急いで済ませる話じゃなかった」
その言葉に、オーウェンも異を唱えなかった。二人はしばらくの間、格納庫の明かりの下で、白い機体を並んで見上げていた。
その夜、ケンとエリヤは庭で、グリルの火を眺めながら、いつものように短い会話を交わした。
「九万九千五百、超えたな」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「超えた。だが、あの日の数字を塗り替えただけだ。十万には、まだ届いていない」
「塗り替えただけ、で片付けるには、ちょっとした道のりだったがな」
エリヤがそう返すと、ケンは苦笑した。
「一年以上かかった」
「かかるだけの理由があった」
テオが昼間言っていたのと同じ言葉を、エリヤも口にした。ケンはそれに気づいて、小さく笑った。
「お前たちは、同じことを考える」
「十二年も一緒にいれば、そうなる。腹が立つくらいにな」
エリヤの答えに、ケンは頷いた。
「ラッチに知らせるか」
ケンがそう尋ねると、エリヤは少し考えてから答えた。
「まだ早い。知らせるのは、十万を超えてからでいい」
「性急にはならない、か」
「いつも通りだ」
エリヤの答えに、ケンは頷いた。
「十万は」
「次の話だ」
ケンの答えに、エリヤは小さく笑った。グリルの火が、静かに揺れていた。十二年前、まだ何も形になっていなかった頃から、二人はずっと同じ速さで、一歩ずつ歩いてきた。あの日に奪われたものを取り戻すだけでも、一年以上かかった。それでも、取り戻せないものは、結局何一つなかった。その歩みは、今夜もまだ、終わってはいなかった。