もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2022年前半 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
99,500ftの再試験から、半年ほどが過ぎていた。キャサリンが当局との調整を終え、会議室でその結果を告げた。
「100,000ft挑戦の凍結、解除されました」
その報告に、部屋の空気がわずかに動いた。だが、誰も声を上げなかった。マギーが真っ先に口を開いた。
「解除されたからといって、手順を急ぐ理由にはならない」
「もちろんです」
キャサリンがそう答えると、マギーは頷いた。
「99,500から先は、これまでと同じ500フィート刻みで進める。次は100,000ft、ちょうど五百フィート上だ」
「ちょうど、という言葉を使うには、大きすぎる五百フィートだがな」
エリヤがそう言うと、マギーは珍しく小さく笑った。
「数字の意味は、俺たちが決めることじゃない。手順どおりに進めた結果、その数字に届くだけだ」
マギーの言葉に、ケンは頷いた。
会議の後、ネイトとミリが最後のデータを並べて確認していた。
「99,500から100,000まで、FBWとRCSのモデルに変更は必要か」
ケンが尋ねると、ネイトは首を振った。
「ありません。前回の再試験で、このモデルが設計どおりに動くことは確認済みです。五百フィート分、同じ前提を延長するだけです」
「延長するだけ、という言い方は好きだな」
エリヤがそう言うと、ネイトは少し照れたように笑った。
「大きく変えないことが、今の一番安全な進め方だと思っています」
ミリも頷いた。
「推定重心とRCS圧力の表示も、そのままです。見える形にしたものを、今さら隠す理由がありません」
その言葉に、ケンは満足そうに頷いた。
地上での確認作業は、これまでのどの回とも変わらなかった。燃料系統、RCS、FBW、翼端ロケット、ドラッグシュート。テオとオーウェンの班が、一つずつ点検表に印をつけていく。
「特別なことは、何もしていない」
点検を終えたテオがそう言うと、オーウェンが頷いた。
「特別なことをしないために、これだけの準備をしてきた」
その言葉に、テオも頷いた。
点検の様子を見ていた若手整備士の一人が、点検表を運びながら、隣のソフィアに小声で尋ねた。
「今日、十万フィートに届くんですよね」
「届くかどうかは、終わってから言う話だ」
ソフィアがそう答えると、若手整備士は少し恥ずかしそうに頷いた。
「すみません。浮かれすぎました」
「浮かれるな、というのは、この会社に入って最初に覚える言葉だろう」
ソフィアの言葉に、若手整備士は苦笑しながら、もう一度点検表に目を落とした。
飛行の日、前席にケン、後席にエリヤ、チェイスはライアンがLightningで随伴する。79,000ft台に差しかかる頃、後席でエリヤが小さく息を吐いた。
「今日も、近いな」
「毎回、同じことを言う」
ケンがそう返すと、エリヤは短く笑った。
「毎回、同じものを感じるからだ。慣れるものじゃない」
その声には、これまでの飛行と変わらない静かな確信があった。十万フィートという数字を前にしても、その感覚だけは変わらないらしい。
80,000ftで、ライアンの声が無線に入った。
「ケベック・タンゴ、Lightning離脱。以後はテレメトリーと地上からの情報に切り替える」
「了解した」
機体はそこから先、いつもと同じ静けさの中を上昇していった。エリヤはすぐに、いつもの平坦な報告口調へ戻っていた。90,000ft手前で、ケンは翼端ロケットの点火を指令する。
「点火」
両翼端で閃光が走り、機体を押し出す衝撃が座席を通じて伝わった。燃焼音が機体全体を満たし、加速度表示が跳ね上がる。高度計の針が、見る間に速さを増していった。
「両側、推力立ち上がり確認。対称」
エリヤの声が揺れの中で響く。
「推力、対称。良好」
ケンが復唱し、機体は薄くなる空気の中を押し上げられていった。窓の外の青は、もう地上で見る青とは別のものになっている。
98,000ft台で、翼端ロケットの推力表示が予定どおりゼロへ落ちた。
「ロケット、両側とも燃焼終了。予定どおり」
燃焼の余韻が機体を通じて伝わってくるのを、ケンは視界の端に置きながら、計器の並びから目を離さなかった。慣性で押し上げられていく感覚は、何度経験しても、いつも同じ重さで座席に残る。
「推定重心、RCS指令、FBW配分、すべて設計どおり」
エリヤが続けて報告する。半年前にこの高度帯を越えたときと、同じ確かさがそこにあった。
99,500ft。前回の到達高度を超える。
「99,500突破。以後は未到達域」
ケンが短く告げると、エリヤは記録装置の作動を確認し、無言でうなずいた。
「ケベック・タンゴ、地上。テレメトリー受信良好、全系統正常」
プリヤの声が届く。管制卓には、マギー、メイ、ネイト、ミリが並び、画面の数字を見つめていた。プリヤは自分の手元の記録装置にも目を落とし、受信が一秒も途切れていないことを確かめた。あの日、彼女が守り続けたものと、今日守っているものは、同じ一つの習慣だった。
99,600。99,700ft。
「全系統、正常範囲を維持」
エリヤの報告が、一定の間隔で繰り返されていく。地上ではプリヤが、その数字を一つずつ自分の表示と照合し続けていた。
99,700。99,800。99,900。数字は、これまでのどの更新よりも静かに積み上がっていく。
「99,900」
エリヤの声に、いつもの平坦さは変わらなかった。だが、ケンにはそれだけで、何が近づいているのかが分かった。
高度計の針が、100,000の数字をまたいだ。
「100,000ft、通過」
ケンの声も、やはり平坦だった。機体はまだ、惰性と推力の両方で上昇を続けている。所定の保持時間を経て、ケンは機首を下げた。
「機首下げ、応答良好」
エリヤの報告に、ケンは頷いた。何も特別なことは起きなかった。それこそが、この日の答えだった。
降下し、Lightningと再合流して帰投するまで、二人はほとんど言葉を交わさなかった。着陸後、個別所見を固定してから、ようやく二人は顔を見合わせた。
「十万、超えたな」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「超えた。だが、浮かれるのはまだ早い」
「分かっている。それでも、今日くらいは、少し噛みしめさせてくれ」
エリヤの答えに、ケンは小さく笑った。
格納庫に戻ると、マギー、メイ、ネイト、ミリ、プリヤ、テオ、オーウェンが迎えた。大きな拍手も、歓声もなかった。それでも、誰の顔にも、これまでとは違う何かが浮かんでいた。
「記録は、全部一致しているか」
ケンが尋ねると、プリヤが頷いた。
「はい。差はありません」
マギーが続けた。
「次の目標は、承認を得てから決める。今日はまだ、通過点の一つだ」
「いつも通りに」
ケンの答えに、マギーは頷いた。
格納庫の隅で、その様子を見ていたマイケルが、少し離れた場所からキャサリンに話しかけた。
「外には、どう発表する」
「発表しません。少なくとも、今は」
キャサリンの答えに、マイケルは意外そうな顔をした。
「十万フィートだぞ。黙っていてもいいのか」
「黙っているわけじゃありません。問い合わせがあれば、事実を答えます。ただ、こちらから発信して、浮かれた扱いをされる必要はないと思っています」
キャサリンがそう言うと、マイケルは少し考えてから頷いた。
「お前の言う通りだろうな。この会社は、そういう発表の仕方をしてこなかった」
「ずっと、そうでした」
キャサリンの答えに、マイケルは小さく笑った。
「英国支社にも、結果だけは共有しておく。アルが知れば、グレアムにも伝わるだろうが、それは向こうの流儀だ」
「向こうがどう騒ぐかまでは、こちらの管轄じゃありません」
キャサリンの答えに、マイケルは頷いた。
先に点検を終えたテオとオーウェンも、白い機体の周りをもう一度見回っていた。
「今日の飛行で、どこかに負担が残っていないか」
オーウェンがそう尋ねると、テオは機体を一通り見てから答えた。
「表面上は、何も変わっていない。詳しい点検は、これからだ。構成管理の記録も、今日の分を一行ずつ埋めていく」
「変わっていないように見える機体ほど、丁寧に見る必要がある」
オーウェンの言葉に、テオは頷いた。あの日の反省を、二人とも忘れたことはなかった。異常がないという報告自体が、確認を怠らなかった結果であるという順序を、今もこの会社の誰もが守っていた。
その夜、ケンの自宅には珍しく、電話をかけるための時間が設けられていた。ケンが番号を回すと、聞き覚えのあるぶっきらぼうな声が応えた。
「ケンか。何の用だ」
「約束していたことがある。十万フィートを超えたら、知らせると言った」
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。
「超えたのか」
「超えた。今日だ。無事に戻ってきた」
ラッチの声には、驚きと、それを隠そうとする素っ気なさが半分ずつ混じっていた。
「十万フィート、か」電話の向こうで、ラッチは小さく息を吐いた。
ラッチがそう呟くと、ケンは短く「ああ」と応じた。
「お前らの第三格納庫で、あの白い機体を見たときから、どこかでこうなる気はしていた」
「見せた機体が、ちゃんと仕事をしただけだ」
ケンの答えに、ラッチは鼻で笑った。
「仕事をした、で片付けるには、ずいぶん大層な数字だと思うが」
「それでも、片付け方は、最初から変えていない」
ケンの言葉に、ラッチはしばらく黙っていた。十一年前、埃をかぶった一機のF-15を一人きりで支えていた男にとって、十万フィートという数字がどれほどの距離を意味するのか、ケンにははっきりと分からなかった。それでも、電話の向こうの沈黙には、確かな重みがあった。
「ハビエルにも伝えておく。あいつも、聞きたがるだろう」
「機会があれば、また二人で来てくれ」
ケンがそう言うと、ラッチは短く笑った。
「気が向いたらな。お前らの会社は、呼ばれるたびに何かが変わっている」
「変わっていないものも、ある」
ケンの答えに、ラッチは何も言わず、電話を切った。短いやり取りだったが、それで十分だった。
電話を終えたケンのもとへ、エリヤがグラスを二つ持って庭に現れた。
「ラッチは、何と言っていた」
「ハビエルに伝える、と」
「それだけか」
「それだけで、十分な男だ」
ケンの答えに、エリヤは頷いた。グラスを軽く合わせる音が、静かな庭に響いた。
「次は」
エリヤが尋ねると、ケンは夜空を見上げた。
「まだ、承認を待つ段階だ。焦らない」
「いつも通りだ」
その言葉に、二人は小さく笑った。
エリヤはグラスを一口傾けてから、口を開いた。
「あの日のことを、もう考えなくなったわけじゃない」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「俺も同じだ。だが、考えながらでも、前には進める。今日、それが分かった」
「十二年前は、そんなことすら、分からなかったな。給料の遅配に苦しんでいた頃だ」
エリヤの言葉に、ケンは小さく笑った。
「十二年前は、整備会社を一つ買っただけだった。十万フィートなんて、誰も口にしていなかった。宝くじの話をする方が、まだ現実味があったくらいだ」
「今は、口にしている」
「口にして、実際に届いた。それも、誰かを失わずに」
ケンの答えに、エリヤは頷いた。十万フィートという数字の向こうに、まだ見えない一万フィートが待っている。それでも、今夜はただ、ここまで歩いてきた道のりを、静かに噛みしめるだけで十分だった。グリルの火はもう消えていたが、庭にはまだ、二人分の静かな気配が残っていた。遠くで、犬の鳴き声が一度だけ聞こえ、また夜の静けさに戻っていった。