もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2022年後半〜2023年前半 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
100,000ft到達から、更新の歩みはまた、いつもの静かな速度に戻っていた。100,500。101,000。500フィートずつ、間隔を空けながら、記録が一枚また一枚と積み重なっていく。格納庫の承認高度表示板は、少しずつ、しかし確実に数字を書き換え続けていた。
「また一枚、増えましたね」
記録棚を整理していたプリヤがそう言うと、隣のソフィアが笑った。
「その台詞、もう何度目でしょうか」
ソフィアがそう茶化すと、プリヤは少し考えてから答えた。
「数えたら負けのような気がします」
「数えていません。数えなくていいように、記録してありますから」
プリヤの答えに、ソフィアは頷いた。地味な繰り返しが、この会社のあらゆる現場を支えていることを、二人ともよく理解していた。
101,500ftの承認が下りた日、会議室ではキャサリンとマイケルが、今後の計画について短く確認を交わしていた。
「当局への定期報告は、変わらず続けます」
キャサリンがそう言うと、マイケルは頷いた。
「数字が大きくなるほど、外からの関心も増える。問い合わせの件数は、去年の倍近い」
「件数が増えても、答え方は変えません。事実だけを、丁寧に」
キャサリンの言葉に、マイケルは小さく笑った。
「お前のその姿勢だけは、十年経っても変わらないな」
「変える理由がありません」
キャサリンの答えに、マイケルは頷いた。資料を片付けながら、マイケルはふと付け加えた。
「数字が大きくなるほど、浮かれたくなる気持ちも分かるんだがな」
「浮かれた瞬間に、一番最初に気づくのが私の仕事です」
キャサリンの答えに、マイケルは声を上げて笑った。
103,000ftを過ぎたあたりで、ネイトとミリが新しい発見を報告した。
「翼端ロケット燃焼終了直後の重心変化、推定モデルとの誤差がさらに縮まっています」
ネイトがそう言うと、ケンは頷いた。
「数字が良くなるのは、慣れてきたからか、モデルが良くなったからか」
「両方です。ですが、慣れに頼っている部分は、毎回モデルの数字で裏を取っています」
ネイトの答えに、ケンは満足そうに頷いた。慣れを言い訳にしない姿勢は、十年以上前からこの会社に根付いていた。
104,000ft到達の飛行では、Lightningが80,000ftで離脱する直前、後席のエリヤがいつものように小さく息を吐いた。
「今日も、近いな」
「毎回、同じことを言う」
ケンがそう返すと、エリヤは短く笑った。
「毎回、同じものを感じるからだ」
その短いやり取りを最後に、エリヤはすぐにいつもの報告口調へ戻った。十万フィートを超えても、そこだけは変わらない儀式だった。
105,000ft到達の日、格納庫にラッチから思いがけない電話が入った。
「見に行っていいか。ハビエルも連れていく」
ラッチの声に、エリヤは一瞬黙ってから答えた。
「いつでも歓迎する」
「十万は聞いていたが、もう十万五千か。置いていかれる気分だ」
ラッチがそう漏らすと、エリヤは笑った。その声には、呆れと、それを隠しきれない興味が半分ずつ混じっていた。
「置いていくつもりはない。見てから決めてくれ。悪いようにはしない」
二週間後、ラッチとハビエルが本社を訪れた。ハビエルは終始無口だったが、白い機体の周りを一周する間、その目は一度も機体から離れなかった。
「どう思う」
ラッチがそう尋ねると、ハビエルは短く答えた。
「よく整備されている」
その一言だけだったが、ラッチにはそれで十分だった。テオが構成管理の記録を手渡すと、ハビエルは無言でページをめくり続けた。
「お前のところの記録と、似た几帳面さだ」
ラッチがそう言うと、テオは頷いた。
「一人でやっていた頃の几帳面さを、組織でやる几帳面さに変えただけです」
その言葉に、ハビエルは初めて小さく笑った。
機体の点検を終えたあと、ラッチはしばらく、格納庫の隅でテオとオーウェンの作業を眺めていた。
「昔は、こういう光景を一人で全部背負っていた」
ラッチがそう漏らすと、ハビエルは頷いた。
「今も、背負っている」
「お前の場合は、な」
ラッチの答えに、ハビエルは何も言わず、また機体へ視線を戻した。
その夜、ケンの自宅の庭では、恒例の集まりが開かれた。ラッチとハビエルも加わり、テオ・オーウェン・メイ・ネイト・ミリ・ライアン・プリヤ・ソフィアらと言葉を交わした。
「初めてお前らの格納庫を覗いた頃は、こんな庭に呼ばれる日が来るとは思わなかった」
ラッチがそう呟くと、ケンは肉をひっくり返しながら答えた。
「俺たちも、こんな数字まで来るとは思っていなかった」
「次は、いくつまで行くつもりだ」
ラッチが尋ねると、ケンは少し考えてから答えた。
「十一万。それが、今の目標だ」
「それが、今の、か」
ラッチがそう聞き返すと、ケンは短く笑っただけで、それ以上は答えなかった。その言い回しの含みを、ラッチはあえて追及しなかった。この男たちが、まだ何か次を考えていることくらい、聞かなくても分かっていた。
106,000ft到達の夜、ラッチとハビエルを交えた庭の集まりで、メイがハビエルに声をかけた。
「HFAで働く気はありませんか」
メイがそう尋ねると、ハビエルは首を振った。
「ラッチの機体を見る人間が、俺以外にいない」
「それも、いつか誰かに引き継ぐ必要があるのでは」
メイが重ねて尋ねると、ハビエルはしばらく黙ってから答えた。
「考えていない、とは言わない。だが、今すぐの話でもない」
その短い答えに、メイはそれ以上踏み込まなかった。すぐ隣で聞いていたラッチが、小さく笑った。
「あいつが考えていない、と言わなかっただけでも、大した進歩だ」
その言葉に、メイも小さく笑った。十五年前、ケンとエリヤがラッチの格納庫で見た光景が、形を変えて今、また別の場所で繰り返されているようだった。
107,000ftを過ぎた頃、若手の整備士たちの間にも、新しい空気が生まれていた。
「もう十一万まで、あと三千です」
ある日の点検中、若い整備士がそう呟くと、オーウェンがすぐに言葉を挟んだ。
「あと三千、で片付けるな。一回ごとに、五百だ」
「すみません」
若手整備士がそう謝ると、オーウェンは小さく笑った。
「謝ることじゃない。ただ、数え方を間違えると、気持ちが先に行き過ぎる」
その言葉に、若手整備士は頷いた。十五年前にテオが同じようなことを言われていたのを、オーウェンはまだ覚えていた。
108,000ft到達を前に、ソフィアが燃料系統の最終確認を担当するチームの筆頭に立った。
「私が最終確認をしていいんですか」
ソフィアがそう尋ねると、エリヤは頷いた。
「お前は、あの日からずっとこの系統を見てきた。誰よりも、任せていい理由がある」
「あの日の反省を、忘れたことはありません」
ソフィアの答えに、エリヤは満足そうに頷いた。燃料移送の表示、推定重心、RCS圧力。それぞれの数字を、ソフィアは一つずつ丁寧に読み上げ、記録へ残していった。
108,000ft到達の夜、エリヤは自宅の居間で、静かに聖書を読んでいた。
「また、読んでいるのか」
ケンがそう声をかけると、エリヤは顔も上げずに答えた。
「毎晩だ。今に始まったことじゃない」
「十一万が近づくと、読む量が増える気がする」
ケンがそう言うと、エリヤは初めて顔を上げた。窓の外では、月明かりが庭のグリルの跡を静かに照らしていた。
「お前の目には、そう見えるか」
「俺の目には、そう見える」
ケンの答えに、エリヤは何も言わず、小さく笑っただけだった。聖書を閉じ、しばらく黙って庭のほうを見ていたが、やがて口を開いた。
「高くなるほど、感謝することが増えるだけだ。怖さが増えるわけじゃない」
「怖くないのか」
ケンが尋ねると、エリヤは首を振った。
「怖くない日は、一日もない。それでも、感謝のほうが先に来る」
その言葉に、ケンはそれ以上何も聞かなかった。
109,000ft到達の日、ネイトとミリが、これまで積み上げてきたデータをまとめた資料を会議室に広げた。
「百回を超える飛行データが、すべて一つのモデルで説明できます」
ネイトがそう報告すると、マギーは頷いた。
「それは、モデルが正しいという意味か、それとも、まだ試されていない何かがあるという意味か」
マギーの問いに、ネイトは一瞬言葉を詰まらせた。
「後者の可能性を、消せたことは一度もありません」
「それでいい。消せたと思った瞬間が、一番危ない」
マギーの言葉に、ミリも頷いた。資料の束を閉じながら、ネイトは小さく息を吐いた。百回を超える飛行データという重みは、安心のためではなく、むしろ次の疑いを探すための材料として積み上げられていた。あの日の教訓は、数字が積み上がるほど、むしろ重みを増しているようだった。
109,000ft到達を経て、次の目標として109,500ftへの飛行承認が下りたのは、2023年の春先のことだった。会議室でマギーがその結果を告げると、集まった誰もがいつもと変わらない静かな表情で頷いた。
「次で、十一万まであと五百」
プリヤがそう呟くと、マギーはすぐに釘を刺した。
「あと五百、という言い方はしない。次は109,500だ。それ以上でも以下でもない」
マギーの言葉に、プリヤは頷いた。創業からずっと変わらない、この会社の数え方だった。
会議の後、キャサリンがマギーに小さく尋ねた。
「109,500の承認が下りれば、次は本当に十一万だけになりますね」
「数字の話はしない。いつも通り、次の一回を確実にするだけだ」
マギーの答えに、キャサリンは頷いた。この会社で何年働いても、この人の答え方だけは変わらないのだと、改めて感じていた。
格納庫では、オレンジの作業服がまた何着か新しいものに替えられていた。古参の顔ぶれにも、少しずつ年輪が刻まれている。それでも、ケンが肉を焼き、エリヤがガンボを作るという習慣だけは、十五年経っても変わっていなかった。
その夜、ケンとエリヤは庭で、いつものように短い会話を交わした。
エリヤはグラスを一口傾けてから、静かに口を開いた。
「十一万、見えてきたな」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「見えてきた。だが、見えてきたことと、届くことは別だ」
「分かっている」
エリヤの答えに、ケンは小さく笑った。
「あと少し、か」
ケンがそう呟くと、エリヤは頷いた。
「あと少し、はいつも同じ重さだ。最初の六万も、今の十一万手前も、重さは変わらない」
エリヤの言葉に、ケンは頷いた。
「ラッチとハビエルが来たのも、良かったな」
ケンがそう言うと、エリヤは頷いた。
「ハビエルが、メイの誘いに即答しなかったのも、良かった」
「即答しない男だ、あれは」
ケンの言葉に、エリヤは小さく笑った。
「即答しない人間のほうが、長く続く仕事では信用できる。俺たちも、そうやって十五年やってきた」
エリヤの答えに、ケンは頷いた。グリルの火が、静かに揺れていた。創業から十五年の歳月を経た今も、「もう少し上」を求める気持ちは、二人の中でまったく色褪せていなかった。