もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2023年前半 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
109,500ftへの飛行は、拍子抜けするほど静かに終わった。90,000ft手前での翼端ロケット点火、燃焼終了、108,500ft突破、そして109,500ft到達。前回の100,000ft到達と同じように、全系統正常のまま、淡々と記録が一枚増えただけだった。
「拍子抜けするくらい、あっさりしていましたね」
着陸後、ライアンがそう言うと、マギーは短く答えた。
「拍子抜けするくらいでいい。それが、今の俺たちの実力だ」
その言葉に、集まった誰もが頷いた。地上での確認作業と記録解析を経て、次の目標として110,000ftへの飛行承認が下りたのは、それから一月ほど後のことだった。
「十一万」
会議室でマギーがその数字を告げると、部屋の空気がわずかに動いた。整備会社を一つ買っただけだった二人が、やがて掲げるようになった最終目標が、ようやく手の届く距離まで来ていた。
「最後だからといって、手順を変える理由はない」
マギーがそう続けると、ケンは頷いた。
「変える理由がないのは、いつものことだ。最後だから変えるというのは、一番信用できない理由だ」
「それでも、聞いておきたい。最後だからといって、気持ちが先に行っていないか」
マギーの問いに、ケンは少し考えてから答えた。
「行っていない、とは言わない。だが、行かせるつもりはない」
その答えに、マギーは頷いた。十五年かけて積み上げてきた流儀が、今日もまた、同じ強度で保たれていた。会議室を見渡すと、集まった顔ぶれの多くが、創業当初を知らない世代になっていた。それでも、この流儀だけは、誰からも異を唱えられることなく受け継がれていた。
会議の後、ネイトとミリが最後の技術確認をケンとエリヤに報告した。
「109,500から110,000まで、モデルに変更は必要ありません」
ネイトがそう言うと、ミリも頷いた。
「推定重心、RCS指令、FBW配分、どれも同じ前提をあと500フィート延長するだけです」
「延長するだけ、という言い方が好きなやつだな」
エリヤがそう言うと、ネイトは少し照れたように笑った。
「大きく変えないことが、今の一番安全な進め方だと思っています」
その言葉に、ケンは満足そうに頷いた。
地上での点検は、これまでのどの回とも変わらなかった。テオとオーウェンの班が、燃料系統、RCS、FBW、翼端ロケット、ドラッグシュート、構成管理の記録を一つずつ確認していく。
「最後の一回だから、何か特別なことをするか」
オーウェンがそう尋ねると、テオは首を振った。
「特別なことは、一切しない。いつもと同じ点検を、いつもと同じ丁寧さでやる」
「それが、一番難しい」
オーウェンの言葉に、テオは頷いた。十五年前、二人がまだ何も知らなかった頃から、この難しさだけは変わっていなかった。
点検の様子を見ていた若手整備士の一人が、ソフィアに小声で尋ねた。
「今日が最後の目標到達、ってことですよね」
「最後、という言葉は、終わってから使う」
ソフィアがそう答えると、若手整備士は苦笑した。
「すみません。また浮かれました」
「浮かれるな、というのは、この会社に入って最初に覚える言葉だろう」
ソフィアの言葉に、若手整備士は頷き、もう一度点検表に目を落とした。
格納庫の隅では、マイケルとキャサリンが短く言葉を交わしていた。
「今日の結果次第で、投資家への説明もずいぶん変わる」
マイケルがそう言うと、キャサリンは頷いた。
「結果が出てからにしましょう。先に喜ぶのは、私たちの流儀じゃありません」
「分かっている。分かっているから、お前に先に言っているだけだ」
マイケルの答えに、キャサリンは小さく笑った。
飛行の日、前席にケン、後席にエリヤ、チェイスはライアンがLightningで随伴する。80,000ft手前、後席のエリヤがいつものように小さく息を吐いた。
「今日も、近いな」
「今日は、いつもより近い気がするか」
ケンがそう尋ねると、エリヤは少し考えてから答えた。
「いつもと同じだ。近さに、段階はない」
その答えに、ケンは小さく頷いた。高度計が80,000ftに触れる。
「ケベック・タンゴ、Lightning離脱。以後はテレメトリーと地上からの情報に切り替える」
ライアンの声に、ケンは短く応じた。
「了解した」
Lightningが離れていくと、機内にはいつもの静けさが戻った。エリヤはすぐに平坦な報告口調へ戻り、後席のコンソールへ向き直った。
90,000ft手前、ケンは翼端ロケットの点火を指令した。
「点火」
両翼端で閃光が走り、機体を押し出す衝撃が座席を通じて伝わった。燃焼音が機体全体を満たし、加速度表示が跳ね上がる。高度計の針の動きが、見る間に速さを増していった。
「両側、推力立ち上がり確認。対称」
エリヤの声が揺れの中で響く。
「推力、対称。良好」
ケンが復唱し、機体は薄くなる空気の中を押し上げられていった。窓の外の青は、もう地上で見る青とは別のものになっている。
98,000ft台で、翼端ロケットの推力表示が予定どおりゼロへ落ちた。
「ロケット、両側とも燃焼終了。予定どおり」
「推定重心、RCS指令、FBW配分、すべて設計どおり」
エリヤが続けて報告する。燃焼の余韻が機体を通じて伝わってくるのを、ケンは視界の端に置きながら、計器の並びから目を離さなかった。
99,500ft。前回の事故が起きた高度帯を、今回も静かに通過する。
「99,500突破。異常なし」
ケンの声は平坦だった。その平坦さの裏にある意味を、エリヤは誰よりも理解していた。
100,000ft。105,000ft。108,000ft。これまで何度となく積み上げてきた高度を、機体はただ惰性で通り過ぎていく。
「全系統、正常範囲を維持」
エリヤの報告が、一定の間隔で繰り返されていく。地上ではプリヤが、その数字を一つずつ自分の表示と照合し続けていた。
109,500ft。前回の到達高度に並ぶ。
「109,500、前回同値。ここから先が、未到達域だ」
ケンが短く告げると、エリヤは記録装置の作動を確認し、無言でうなずいた。
109,900ft。
「ケベック・タンゴ、地上。テレメトリー受信良好、全系統正常」
プリヤの声が届く。管制卓には、マギー、メイ、ネイト、ミリが並び、画面の数字を見つめていた。プリヤは自分の記録装置にも目を落とし、受信が一秒も途切れていないことを確かめた。何年繰り返しても、その確認だけは怠らなかった。
高度計の針が、110,000の数字をまたいだ。
「110,000ft、通過」
ケンの声は、やはり平坦だった。機体はまだ、惰性と推力の両方で上昇を続けている。所定の保持時間が始まると、後席でエリヤが一度だけ、小さく息を吐いた。
「どうした」
ケンが尋ねると、エリヤはしばらく黙ってから答えた。
「ここまで来ると、近いとか遠いとかじゃなくなる。ただ、近くにいる、としか言えない」
「毎回、言葉が変わるな」
「毎回、見えるものが変わるからだ」
エリヤの声は平坦だったが、その奥にあるものを、ケンは聞き分けていた。保持時間が終わり、ケンは機首を下げた。
「機首下げ、応答良好」
エリヤの報告に、ケンは頷いた。整備会社を一つ買っただけだった二人が、いつしか掲げるようになった数字に、機体は今、確かに届いていた。
降下し、Lightningと再合流して帰投するまで、二人はほとんど言葉を交わさなかった。着陸後、個別所見を固定してから、ようやく二人は顔を見合わせた。
「十一万、超えたな」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「超えた。だが、浮かれるのはまだ早い。記録解析が済むまでは」
「分かっている。それでも、今日くらいは、少し噛みしめさせてくれ」
エリヤの答えに、ケンは小さく笑った。
格納庫に戻ると、マギー、メイ、ネイト、ミリ、プリヤ、テオ、オーウェン、ソフィアが迎えた。大きな拍手も、歓声もなかった。それでも、誰の顔にも、これまでとは違う何かが浮かんでいた。
「記録は、全部一致しているか」
ケンが尋ねると、プリヤが頷いた。
「はい。差はありません」
マギーが続けた。
「十一万フィート、到達確認。これで、最初に掲げた目標には届いた。記録解析と所見照合は、これからだ」
「次は」
ライアンが尋ねると、マギーは少し考えてから答えた。
「次のことは、今日決めない。今日はまだ、通過点の一つだ。それでいい」
その言葉に、集まった誰もが頷いた。十五年かけて積み上げてきた流儀は、最後の数字を超えた今日も、何一つ変わっていなかった。
マイケルとキャサリンも、少し離れた場所からその様子を見ていた。
「浮かれなかったな、誰も」
マイケルがそう漏らすと、キャサリンは頷いた。
「浮かれなかったことが、今日一番の成果かもしれません」
その答えに、マイケルは声を上げて笑った。
テオとオーウェンは、白い機体の周りをもう一度見回っていた。
「十一万まで運んだ機体だ。労ってやらないとな」
オーウェンがそう言うと、テオは機体に軽く手を触れた。
「今日もまだ、点検は残っている。労うのは、それが終わってからだ」
その答えに、オーウェンは小さく笑った。
その夜の前に、ケンはもう一つ、電話をかけておくべき相手を思い出していた。番号を回すと、聞き覚えのあるぶっきらぼうな声が応えた。
「ケンか。今度はいくつだ」
「十一万。最初に掲げていた数字に、ようやく届いた」
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。
「十五年前、お前がその数字を口にしたとき、俺は正直、正気を疑った」
ラッチがそう言うと、ケンは小さく笑った。
「俺たちも、半分は正気を疑っていた」
「それでも、届いたわけか」
「届いた」
ケンの短い答えに、ラッチはもう一度沈黙した。
「ハビエルにも伝えておく。あいつも、今度は何か言うかもしれない。十一万フィートだ、無口な男でも黙っていられないだろう」
「機会があれば、また来てくれ」
ケンがそう言うと、ラッチは短く笑った。
「次は、何を目指すつもりだ」
「それは、まだ言えない」
ケンの答えに、ラッチは呆れたように笑い、電話を切った。相変わらずの男だった。それでも、その呆れ方には、確かな温かさが混じっていた。
その夜、ケンの自宅の庭では、グリルの火が静かに燃えていた。エリヤは大鍋でガンボをかき混ぜながら、ケンに声をかけた。
「十一万、か」
「十一万だ」
ケンの短い答えに、エリヤは頷いた。
「初めてお前がこの数字を口にしたとき、俺は正直、半分も信じていなかった。ただの大言壮語だと思っていた」
「俺も、半分も信じていなかった。それでも、口にするのをやめなかった」
ケンの答えに、エリヤは小さく笑った。
「それでも、ここまで来た」
「ここまで来た」
その言葉を最後に、二人はしばらく、何も言わずに火を見つめていた。夜気が少しずつ冷え始めていたが、どちらも庭の椅子から立ち上がろうとはしなかった。
エリヤは鍋をかき混ぜる手を止め、ケンに尋ねた。
「ラッチに電話したのか」
エリヤがふと尋ねると、ケンは頷いた。
「十五年前に約束した数字だ。知らせないわけにはいかない」
「あいつは、何と言っていた」
「正気を疑った、と」
ケンの答えに、エリヤは声を上げて笑った。
「正気を疑われるくらいでなければ、ここまで来られなかっただろうな」
「俺も、そう思う」
ケンの答えに、エリヤは鍋をもう一度かき混ぜた。遠くで、犬の鳴き声が一度だけ聞こえ、また夜の静けさに戻っていった。十五年という歳月の重さが、この短い静寂の中に、確かに溶け込んでいた。