もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2023年前半 アリゾナ州ツーソン近郊 ケン・ハラダ邸
110,000ft到達の夜から数日を置いて、改めてホームパーティーが開かれた。記録解析と所見照合がすべて済み、マギーが「正式な評価として、問題なし」と告げたのを受けての集まりだった。庭の芝生には、いつもより多くの椅子が並べられている。
「今日は、特別な集まりか」
ライアンがそう尋ねると、マギーは首を振った。
「特別な集まりという言葉は使わない。評価が終わった、ということを祝うだけだ」
「結局、特別なんじゃないですか」
ソフィアが横から混ぜっ返すと、マギーはわずかに口の端を上げた。
「言葉の使い方の話だ。中身は、否定しない」
グリルの前では、ケンが肉を並べながら、隣のテオと話していた。
「今日の肉は、少し多いな」
「人数が多いからです」
テオの答えに、ケンは頷いた。キッチンでは、エリヤが大鍋をかき混ぜながら、プリヤと言葉を交わしていた。
「ガンボの量も、今日は多いですね」
プリヤがそう言うと、エリヤは頷いた。
「十五年分の約束事だ。量を減らす理由がない」
庭には、テオ、オーウェン、メイ、ネイト、ミリ、プリヤ、ソフィア、ライアン、マギー、キャサリン、マイケルがすでに集まっていた。少し遅れて、ラッチとハビエルの車が到着した。
「十一万フィート、おめでとう、と言っていいんだろうな」
ラッチがそう言うと、ケンはグリルの火を調整しながら答えた。
「言っていい。今回は、ちゃんと届いた数字だ」
「ハビエルも、一言ぐらい言うかもしれないぞ」
ラッチがそう茶化すと、ハビエルは短く頷いた。
「よくやった」
それだけだったが、ラッチにはそれで十分な量だと分かっていた。
若手の整備士が、手にした紙皿を置きながら、隣のソフィアに小声で尋ねた。
「今日は、浮かれていいんですよね」
「今日くらいは、いいだろう」
ソフィアがそう答えると、若手整備士は少し驚いた顔をした。
「珍しいことを言いますね」
「珍しいことが起きた日だからだ。毎日浮かれていい、という意味じゃない」
ソフィアの言葉に、若手整備士は頷き、グラスを少し掲げた。
プリヤは記録棚の整理の合間を縫って参加していたが、エリヤの鍋のそばから離れなかった。
「今日の所見は、もう固定済みですか」
プリヤがそう尋ねると、エリヤは笑った。
「パーティーの最中に、仕事の話をするのか」
「癖になっています」
プリヤの答えに、エリヤは頷いた。
「固定済みだ。お前が確認した通りの内容だ」
「安心しました」
その短いやり取りを最後に、プリヤはようやくグラスを手に取った。
食事が一段落すると、マギーが短く手を叩き、皆の注意を集めた。
「評価が終わったついでに、もう一つ伝えておくことがある」
その言葉に、庭の空気がわずかに変わった。ケンが続けた。
「十一万フィートは、最初に掲げた目標だった。届いたからといって、会社が止まる理由はない」
「次は、何なんですか」
若手の整備士が思わずそう尋ねると、ケンとエリヤは互いに目を合わせてから、オーウェンに合図した。オーウェンが格納庫の方へ向かい、しばらくしてシートを被せた大きな輪郭の資料写真を持って戻ってきた。
「SR-71だ」
ケンがそう告げると、庭に小さなどよめきが起きた。
「三機、確保している。今はどれも飛行不能状態だ」
エリヤが続けると、テオが真っ先に反応した。
「三機とも、ですか」
「三機とも。状態はそれぞれ違う。復元には、今回の機体以上の時間がかかるだろう」
ケンの答えに、テオは小さく息を吐いた。
「また、ゼロからの仕事になりますね」
「ゼロからの仕事が、お前の得意分野だろう」
ケンがそう言うと、テオは苦笑しながらも頷いた。
「浮かれるな、と言いたいところだが」
オーウェンがそう漏らすと、ソフィアが先に言葉を継いだ。
「今日は、浮かれていい日だ、と自分で言っていましたよね」
「言ったのは、十一万フィートの評価が終わったことについてだ。次の機体の話は、また別だ」
オーウェンの答えに、ソフィアは笑った。
ネイトとミリは、資料写真を覗き込みながら、小声で話し込んでいた。
「マッハ3級の機体だぞ」
「推定重心とRCSの計算を、また最初からやる羽目になる」
「最初からやるのが、俺たちの仕事だ」
ネイトの言葉に、ミリは頷いた。その声には、疲れよりも、むしろ張りのようなものが滲んでいた。
「燃料系統も、全く別物になります」
ミリがそう付け加えると、ネイトは頷いた。
「JP-7だ。常温では燃えにくい燃料だと聞いている」
「聞いているだけですか」
「これから、聞いているだけじゃなくなる」
ネイトの答えに、ミリは小さく笑った。すぐそばで聞いていたオーウェンが、口を挟んだ。
「構造も違う。チタン合金の扱いは、俺たちにとっても初めての領域だ」
「初めての領域、という言葉を、この会社はもう何度使ったでしょう」
テオがそう混ぜっ返すと、オーウェンは肩をすくめた。
「数えていない。数える意味もない」
その答えに、テオは頷いた。
キャサリンとマイケルは、少し離れた場所でグラスを片手に話していた。
「投資家への説明は、僕がやる」
マイケルがそう言うと、キャサリンは頷いた。
「飛行不能状態で確保済み、という表現を変えないでください。期待値を上げすぎないように」
「分かっている。十一万フィートのときと、同じやり方だ」
マイケルの答えに、キャサリンは小さく笑った。
「英国支社には、もう伝えましたか」
キャサリンがそう尋ねると、マイケルは頷いた。
「アルには伝えた。グレアムにも、じきに伝わるだろう」
「向こうは、何か言っていましたか」
「SR-71の名前を出した途端、妙に静かになったらしい。アルの言葉を借りれば、『悪い意味での静かさじゃない』そうだ」
マイケルの答えに、キャサリンは小さく笑った。
「向こうがどう騒ぐかまでは、こちらの管轄じゃありません」
「前にも、同じことを言っていたな」
「同じことしか、言う理由がありませんから」
キャサリンの答えに、マイケルは声を上げて笑った。
夜が更け、グリルの火が落ち着いた頃、マイケルはいつもより少しグラスを重ねていた。その赤くなった顔のまま、ふとケンとエリヤのほうを向いた。
「SR-71の次は、どこまで行くつもりなんだ」
「次は、まだ決めていない」
ケンがそう答えると、マイケルはグラスを軽く揺らしながら続けた。
「決めていないなら、提案させてくれ。その先、サブオービタルまで行けないのか」
その一言に、庭が一瞬静かになった。ネイトが思わず笑い、ミリも口元を押さえた。
「サブオービタル、ですか」
ライアンが半分呆れたように繰り返すと、マイケルは自分の言葉に少し照れたように肩をすくめた。
「酔いに任せて言っているだけだ。本気にしなくていい」
「本気にはしていない」
エリヤがそう答えると、ケンも頷いた。
「まずは、SR-71を飛ばしてからだ。順番を変える理由がない」
「順番は変えない、か。十五年、聞き続けた言葉だな」
マイケルがそう言って笑うと、周りの何人かも小さく笑った。マギーは何も言わず、その様子を眺めていたが、口元にはわずかな緩みがあった。
「サブオービタルの話は、今夜はこれで終わりだ」
マギーがそう締めると、マイケルは素直に頷いた。
「分かった、分かった。今夜は、これで終わりだ」
マギーはグラスを置き、少し離れた場所にいたメイに声をかけた。
「お前のところの誘いは、どうなった」
「ハビエルのことですか」
メイがそう尋ね返すと、マギーは頷いた。
「今日、少し考えが変わったようだ」
「それは、いい兆候です」
メイの答えに、マギーは小さく頷いた。
「焦って聞き出すな。向こうのペースに合わせろ」
「分かっています。十五年、この会社でそれを学びましたから」
メイの言葉に、マギーはわずかに口元を緩めた。
その言葉を最後に、話題は自然とSR-71の復元計画の細部へ戻っていった。テオとオーウェンは、三機の状態をどの順番で手がけるべきか、早速意見を交わし始めていた。
ラッチとハビエルは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
「また、ゼロから始めるのか」
ラッチがそう漏らすと、ハビエルは頷いた。
「ゼロから始める会社だ、ここは」
「十五年前も、そうだった」
ラッチの言葉に、ハビエルは何も言わず、ただ庭の明かりを見つめていた。しばらくして、ハビエルが口を開いた。
「SR-71の整備記録は、見せてもらえるのか」
「見たいのか」
ラッチが意外そうに尋ねると、ハビエルは短く頷いた。
「俺の知らない機体だ。知らない機体の記録は、見ておきたい」
「お前らしい理由だ」
ラッチがそう言って笑うと、ハビエルは何も答えず、ただ庭の向こうの格納庫のほうへ目を向けた。その視線の先に、まだシートに包まれたままの資料写真が、オーウェンの手の中で揺れていた。
「メイの誘いは、まだ答えを出していないのか」
ラッチがふと尋ねると、ハビエルはしばらく黙ってから答えた。
「出していない。だが、今日、少し考えが変わった」
「どう変わった」
「知らない機体を前にすると、知らない場所で働くことも、悪くないように思えてくる」
ハビエルの答えに、ラッチは珍しく驚いた顔をした。
「お前がそんなことを言うとは思わなかった」
「俺も、思っていなかった」
その短い答えを最後に、ハビエルはまた口を閉じ、庭の明かりを見つめ続けた。
ライアンは、資料写真をもう一度手に取り、ケンのもとへ近づいた。
「俺は、この機体に乗れますか」
ライアンがそう尋ねると、ケンは少し考えてから答えた。
「飛べる状態になってから、また同じ質問をしろ。今、答えを出す意味がない」
「分かっています。それでも、聞いておきたかった」
ライアンの答えに、ケンは小さく笑った。
「お前が聞いてくる前に、俺たちが頼むことになるだろうな」
その言葉に、ライアンは少し驚いた顔をしたが、やがて頷いた。
「Lightningの次は、こいつか」
「Lightningの次が、こいつになるかどうかも、まだ決めていない」
ケンの答えに、ライアンは苦笑しながら資料写真をオーウェンへ返した。
パーティーが終わりに近づき、庭に人の数が減っていく頃、ケンとエリヤは二人だけで火の前に残った。
「サブオービタル、か」
エリヤがそう呟くと、ケンは小さく笑った。
「マイケルの酔った思いつきだ。本気で考える段階じゃない」
「本気で考える段階じゃない、とは言ったが、否定もしていないな」
エリヤの指摘に、ケンは少し黙ってから答えた。
「否定する理由もない。それだけだ」
その答えに、エリヤは頷いた。グリルの火はもう消えていたが、庭にはまだ、人の気配の名残が温かく残っていた。
「SR-71を飛ばすのに、どれくらいかかると思う」
ケンがそう尋ねると、エリヤは夜空を見上げてから答えた。
「分からない。十五年前、十一万フィートまでどれくらいかかるか、誰にも分からなかったのと同じだ」
「それでも、届いた」
「それでも、届いた」
エリヤの答えを、ケンがそのまま繰り返した。二人はしばらく、何も言わずに夜空を見つめていた。
「怖くないか、まだゼロから始めることが」
ケンがふと尋ねると、エリヤは首を振った。
「怖くない日は、一日もなかった。十五年前も、今も」
「それでも、やめなかった」
「それでも、やめる理由がなかった」
エリヤの答えに、ケンは小さく笑った。グリルの跡には、まだ炭の熱がわずかに残っていたが、火そのものはもう消えていた。遠くで、犬の鳴き声が一度だけ聞こえ、また夜の静けさに戻っていった。もう少し上へ、という気持ちだけが、今夜もまだ、二人の中で静かに形を変え続けていた。シートに包まれたままの資料写真は、格納庫の片隅で、次の朝を待っていた。