もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2015年 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation本社
TF-104Gの一括購入に伴って運び込まれた予備エンジン、交換部品、工具、資料、地上支援機材は、格納庫の棚を半分近く埋めていた。その棚の整理を任されたテオとオーウェンは、ある日、作業の合間にふと手を止めた。
「この油圧系統の試験治具、うちの機体専用じゃないな」
オーウェンがそう言うと、テオは治具の型式表示を確かめた。
「規格品だ。接続規格が合えば、他の機体にも使える」
「他の機体、というと」
「例えば、ラッチのF-15だ」
テオがそう言うと、オーウェンは少し考えてから頷いた。
「あの人の格納庫には、こういう治具を揃える金がないだろうな」
その会話は、そのまま会議室でのケンへの報告に持ち込まれた。
「地上支援機材の棚卸しをしていて、気づいたことがあります」
テオがそう切り出すと、ケンは資料から顔を上げた。
「規格品の試験治具やNDT機材の中には、ラッチの機体の点検にも使えるものがあります」
「使えるからといって、使わせるかどうかは別の話だ」
ケンがそう言うと、テオは頷いた。
「分かっています。社長たちから聞いた話では、あの人は七年前、お二人に現実を見せてくれたそうですから」
その言葉に、ケンは少し黙った。会社を買う前、ラッチの格納庫で、飛ばない一機の戦闘機を前にして思い知らされた日のことは、今も鮮明に覚えている。
「エリヤにも話す」
ケンがそう言うと、テオは頷いた。
エリヤに話が伝わると、答えは早かった。
「やるべきだ。ただし、善意だけでやると、どこかで歪む」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「歪む、というのは」
「無償で何でもやる、というのは、長続きしない。向こうの誇りも傷つける」
エリヤの言葉に、ケンは考え込んだ。
キャサリンとマイケルにも相談が持ち込まれた。
「個人所有の機体への支援は、会社としてどう扱えばいいですか」
マイケルがそう尋ねると、キャサリンは資料を確認しながら答えた。
「無償の善意ではなく、正式な契約にします。簡易点検・試験機材の提供という業務契約を結び、対価は名目上のものでいい。記録に残らない支援は、この会社ではやりません」
「名目上の対価、というのは」
「一ドルでも構いません。契約として成立していることが重要です」
キャサリンの言葉に、マイケルは頷いた。
「ラッチは、それで納得するか」
マイケルがそう漏らすと、ケンが答えた。
「納得させる。あいつは、タダで何かを受け取る男じゃない」
話が固まる前に、マギーにも意見を求めた。前年にHFAへ加わったばかりの彼女は、資料に目を通しながら、まず懸念を口にした。
「個人所有の機体に、うちの試験機材を使わせる前例を作ることになる。他の個人所有者からも、同じ要望が来るかもしれない」
マギーがそう指摘すると、ケンは頷いた。
「その懸念は正しい。だから、誰にでも適用する一般的な契約にはしない」
「では、どう線を引く」
「ラッチは、特別な理由がある相手だ。俺たちに現実を見せてくれた、最初の一人だ。そういう個別の事情を、契約書にも明記する」
ケンの答えに、マギーはしばらく資料を見つめていたが、やがて頷いた。
「それなら、一般的な前例としては扱われない。分かった」
「反対しないのか」
ケンが尋ねると、マギーは首を振った。
「反対はしない。ただ、次に似たような話が持ち込まれたときは、同じ基準で判断する。そこだけは、崩さないでほしい」
マギーの言葉に、ケンは頷いた。
記録を任されたプリヤも、この話を聞いて一つだけ確認を入れた。
「ラッチさんの機体に関する記録は、どこまで残しますか」
プリヤがそう尋ねると、キャサリンが答えた。
「通常の業務契約と同じ扱いにします。点検内容、使用機材、部品の出所、すべて記録に残してください」
「個人の機体だからといって、簡略化はしないということですね」
「簡略化した記録は、いつか必ず裏目に出ます」
キャサリンの答えに、プリヤは頷き、早速新しい記録簿を用意し始めた。
数日後、ケンとエリヤ、テオが、ラッチの格納庫を訪ねた。ラッチは一人で、古びたF-15の主脚周りの部品を外していた。当時のラッチには、まだ助手はいなかった。
「わざわざ三人で来るとは、穏やかな用件じゃなさそうだな」
ラッチがそう言うと、ケンは首を振った。
「穏やかな用件だ。お前の機体の点検に、うちの試験機材を使わせてくれないか」
「使わせてくれ、だと」
ラッチが意外そうな顔をすると、エリヤが補足した。
「正確には、業務契約だ。うちがお前に機材と技術を提供し、お前はその対価を払う」
「対価、いくらだ」
ラッチが尋ねると、キャサリンが用意した書面をテオが差し出した。
「年間一ドルです」
テオがそう答えると、ラッチは書面を一度読み、もう一度読んだ。
「一ドルの契約書に、こんなに細かい条項が並ぶとは思わなかった」
ラッチがそう漏らすと、ケンは頷いた。
「細かいのは、慈善事業として扱わないためだ。記録に残る取引にする」
「お前らしい理屈だな」
ラッチの言葉に、ケンは小さく笑った。
「受けるか、受けないか」
ケンがそう尋ねると、ラッチはしばらく黙っていたが、やがて書面に署名した。
「受ける。だが、俺にできることがあれば、こっちからも返す」
「その言葉を、待っていた」
ケンの答えに、ラッチは頷いた。
その日のうちに、ラッチの主脚の部品がHFAの格納庫へ運ばれた。NDT機材での検査を担当したのは、オーウェンだった。
「亀裂は見つかりません。ただ、腐食が進んでいる箇所があります」
オーウェンがそう報告すると、ラッチは頷いた。
「分かっている。見た目で、ある程度は察していた」
「察していただけで、飛ばしていたのか」
テオが思わず尋ねると、ラッチは苦笑した。
「察するだけの材料しか、持っていなかった。だから、お前らの機材はありがたい」
その言葉に、テオは何も言わなかった。
オーウェンが渦電流探傷の結果を図面に書き写しながら、ラッチに尋ねた。
「この腐食の進み方だと、次の点検周期まで、本当は持たせたくない」
「正直に言ってくれて助かる」
ラッチの答えに、オーウェンは頷いた。
「持たせたくない、で終わらせません。交換できる部品があるかどうか、ミリに確認を頼みます」
「頼めるのか」
「頼むのが、今回結んだ契約そのものの目的です」
オーウェンの言葉に、ラッチは何も言わず、ただ頷いた。その日のうちに、ミリから部品確保の見込みを伝える連絡が入り、作業の順番が一つずつ具体的に決まっていった。
部品の交換が必要になった際、HFAの調達網が役に立った。ミリが、TF-104Gの購入時に築いた供給元の一つに、ラッチの機体に合う規格部品がないか問い合わせた。
「見つかりました。在庫は少ないですが、確保できます」
ミリがそう報告すると、ケンは頷いた。
「値段は」
「通常の商取引どおりです。特別扱いはしていません」
ミリの答えに、ケンは満足そうに頷いた。特別扱いをしないことこそが、この支援を正しく保つ条件だと、誰もが理解していた。
「向こうの供給元は、個人の注文には応じないことが多いんです。会社としての注文実績があったから、応じてもらえました」
ミリがそう補足すると、ネイトが隣で頷いた。
「会社の規模が、個人の手の届かないところに届く。そういう使い方は、悪くない」
「悪くない、どころじゃない。あいつが一人でやっていたら、この部品には一生出会えなかった」
テオがそう言うと、ネイトも頷いた。
「会社として取引実績を積んできたのは、ラッチさんのためじゃない。でも、結果としてこうやって役に立つこともある」
ネイトがそう付け加えると、ミリも頷いた。
マイケルとキャサリンも、その後の経過を気にかけていた。
「対外的に、どう見られるでしょうか」
マイケルがそう尋ねると、キャサリンは少し考えてから答えた。
「公表するつもりはありません。個人間の契約の延長として処理しますし、誰かに自慢するための話でもありません」
「それでいいのか。良い話のはずだが」
マイケルがそう漏らすと、キャサリンは首を振った。
「良い話を宣伝に使った瞬間に、善意ではなくなります。ラッチさんにも、それは失礼です」
キャサリンの言葉に、マイケルは頷いた。資料を片付けながら、マイケルは付け加えた。
「それでも、いつか誰かがこの話を知ったら、悪い印象は持たれないだろうな」
「印象のために、やっているわけではありません」
キャサリンの答えに、マイケルは苦笑しながら頷いた。「分かっている、分かっている」と、彼はそれ以上は食い込まずに、静かに資料を閉じた。
点検と部品交換が一通り終わった日、ラッチは約束どおり、何かを返しに来た。古い工具箱を一つ、格納庫の隅に置いていった。
「これは」
オーウェンが尋ねると、ラッチは答えた。
「俺の師匠が使っていた工具だ。もう俺には使い切れない特殊な治具もある。お前らの若い連中に使わせてやれ」
「貰っていいんですか」
「返す、と言ったはずだ」
ラッチの言葉に、オーウェンは工具箱を受け取った。中には、年季の入ったトルクレンチや、見たことのない形状の治具が並んでいた。
「これ、使い方が分からない工具もあります」
テオがそう言うと、ラッチは珍しく機嫌よく笑った。
「使い方なら、俺が教えてやる。その代わり、次にうちの機体を見るときは、お前らにも少し付き合ってもらう」
「付き合う、というのは」
「お前らの若い連中を、何人か寄越せ。古い機体の扱いを、体で覚えさせてやる」
ラッチの提案に、テオとオーウェンは互いに顔を見合わせてから頷いた。
「それは、ありがたい話です」
「ありがたいと思うなら、ちゃんと働かせろ。見学気分で来るような奴は要らない」
ラッチの言葉に、テオは頷いた。こうして、部品と機材の提供だけでなく、技術と経験の行き来も、双方向のものになっていった。
その夜、ケンとエリヤは、報告を兼ねてラッチの格納庫に残っていた。
「あいつの機体、まだしばらく飛ぶな」
エリヤがそう言うと、ケンは頷いた。
「飛ばし続けるための仕組みを、あいつにも少し持たせてやれた。それだけで、十分だ」
「俺たちが七年前に教わったことを、少しだけ返せたか」
エリヤの言葉に、ケンは小さく笑った。
「少しだけだ。全部を返すには、まだ時間がかかる」
ケンの答えに、エリヤは頷いた。
「一ドルの契約書、か」
エリヤがふと言うと、ケンは笑った。
「キャサリンらしい発想だ。善意を善意のままにしておくと、どこかで形が崩れる」
「崩れないようにする、という考え方は、俺たちがこの会社でずっとやってきたことと同じだな」
エリヤの言葉に、ケンは頷いた。
「ラッチの若い連中が、ここに研修に来る日も、そう遠くないかもしれない」
ケンがそう言うと、エリヤは夜空を見上げた。
「あいつにも、いつか手が足りなくなる日が来るはずだ。そのときに、頼れる相手が増えていればいい」
エリヤの言葉に、ケンは何も答えず、ただ頷いた。格納庫の明かりの下で、古いF-15が静かに佇んでいた。飛ばし続けるという約束は、機体だけでなく、人と人の間にも、同じように積み重ねられていくものだった。