もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2003年 ネバダ州 砂漠地帯の民間飛行場
強い日差しの下、パイロン上空を抜けるF-15の機影は、他のどの出走機よりも低く、他のどの出走機よりも静かに旋回していた。実況席のアナウンサーが、観客の歓声の合間に声を張った。
「ジェット・アンリミテッド、マッハ0.98クラス。カルダー選手、三周目でさらに差を広げます」
「ラッチ」という呼び名のほうが、観客の誰にとっても馴染んでいた。パイロンぎりぎりの低空を、機体を傾けたまま駆け抜けていく姿に、歓声が追いついていく。
「あの旋回角度、見ているだけで胃が痛くなる」
隣の出走機から降りたばかりの若いパイロットが、ピットでそう漏らすと、年配のクルーチーフが頷いた。
「胃が痛くなる旋回角度で、機体に無理な負荷をかけていないのが、あの男の凄さだ」
「速度に乗せたまま、ぎりぎりのところで切り返す。マッハ0.98ルールの縛りを、誰よりも使いこなしている」
無制限速度クラスの出走機が音速に近づくたびに空気を震わせるのに対し、マッハ0.98クラスは制限の中でどれだけ機体を使い切れるかを競う部門だった。速度で押すのではなく、旋回半径と高度管理の精密さで差をつける。ラッチの強さは、まさにその精密さにあった。
最終周、二番手の機体が内側のラインを奪おうと機体を寄せてきた。観客席からは、接近しすぎているように見える距離だった。
「近い、近すぎる」
実況席の声が緊張を帯びたが、ラッチは速度を落とさず、むしろわずかに旋回を締めて相手の内側へ入り込んだ。二機の距離は縮まったが、接触はなかった。
「カルダー選手、ラインを完全に制圧。そのままゴールです」
実況の声に、観客席から大きな歓声が上がった。
レース後、ラッチ自身のピットでは、クルーが一人、点検結果を手早く報告していた。
「主脚のタイヤ、次のレースまでに替えたほうがいい」
「替える金の計算は、あとでする」
ラッチがそう答えると、クルーは何も言わず、ただ点検表に印をつけた。勝利の余韻の中にも、資金のやりくりという地味な現実が、常に隣り合っていた。
同じ飛行場では、午後からDACT(異機種間空戦訓練)の民間リーグ戦が組まれていた。レーザー・赤外線式の交戦判定ポッドを積んだ出走機が、滑走路脇に並んでいる。
「今日の対戦相手は」
ラッチがそう尋ねると、リーグ運営の担当者が資料を見せた。
「空軍出身の若手だ。シミュレーション・ミサイルの運用成績はトップクラスらしい」
「ミサイルの成績がトップ、か」
ラッチがそう呟くと、担当者は苦笑した。
「お前は、相手がミサイルを持っていても、いつも真正面から距離を詰めにいくな」
「ミサイルで決める勝ちは、面白くない」
ラッチの答えに、担当者は首を振ったが、それ以上は何も言わなかった。
交戦空域、高度一万五千フィート。ラッチの機体と相手機が、無線越しに位置を確認し合う。
「審判機より通告。交戦開始。ハードデッキは五千フィート。それを下回った側は、自動的にキルとする」
審判機からの通告に、両機は短く応答した。
最初の数十秒で、相手機がロックオンの信号を発した。
「シミュレーション・ミサイル、発射。距離八マイル」
その声に、ラッチは機体を横転させ、急旋回でロックを外した。相手の予測コースから大きく外れ、逆に距離を詰めていく。
「外した、だと」
相手パイロットの声に、わずかな動揺が滲んだ。ラッチはそれを聞き流し、さらに高度を落としながら、相手の後方へ食い込んでいった。
「距離、縮まっています」
審判機の実況が入る。相手機は旋回を続けながら高度を保とうとしたが、ラッチの機体はそれよりも小さい半径で旋回し続けた。
「もう一度、ロック」
相手が叫ぶように告げたが、角度が合わず、判定は不成立だった。
「シミュレーション・ミサイル、不成立。シーカー再計算まで時間が必要」
審判の声が響く中、相手機は高度を下げて速度を稼ごうとした。だが、その選択こそがラッチの狙いだった。
「そこまで下げたら、もう逃げ場はないぞ」
ラッチが無線越しにそう告げたときには、相手機はすでに六千フィートを切っていた。ラッチはさらに旋回半径を詰め、相手の背後へ回り込む。
「ガンサイト、トラッキング成立」
ラッチの声に、相手は最後にもう一度急降下を試みたが、それが致命的だった。高度計の針は、もう後戻りのできない速さで五千フィートへ近づいていた。
「ハードデッキ、五千フィートを下回りました。自動キルを宣告します」
審判機の声に、相手パイロットは悔しさを隠さず無線に吐き出した。
「ミサイルで撃たれたなら、まだ納得できた。マニューバだけで、床を割らされるとは思わなかった」
「床を割らせるのも、腕の一部だ」
ラッチの短い答えに、相手は何も返さなかった。
午後の第二試合は、前年度のチャンピオンとの対戦だった。相手はラッチの戦い方を事前にすでに研究していたらしく、開始直後から高度を高く保ち、ハードデッキに追い込まれる展開を避けようとした。
「今日は、簡単に下げてはくれないようだな」
ラッチがそう呟くと、相手は無線で短く笑った。
「お前の手口は、もう映像で何度も見た」
「見ただけで、対策になるとは限らない」
ラッチの答えに、相手は何も言わず、旋回を続けた。二機は高度一万二千フィート付近で、互いに仕掛けを探る旋回戦に入った。
「シミュレーション・ミサイル、発射」
相手が早めにロックオンを試みたが、ラッチは機体をロールさせながら高度を変え、角度を崩した。
「不成立。シーカー再計算が必要」
審判の声が響く。ラッチはそのまま旋回を締め、相手の内側に入り込んでいった。高度を下げる誘いには乗らず、今度は横方向の距離だけを詰めていく。
「ハードデッキに逃げ場がないなら、横から詰めるだけだ」
ラッチがそう告げた直後、ガンサイトのトラッキングが成立した。
「ガンサイト、トラッキング成立。キルを宣告します」
審判の声に、相手は無線越しに小さく息を吐いた。
「ハードデッキを使わない殺し方もあるとは、思わなかった」
「使う必要がなかっただけだ」
ラッチの答えに、相手はそれ以上何も言わず、無線を切った。
試合後、審判を務めたベテランパイロットが、ラッチのピットに立ち寄った。
「今日もガンキルかマニューバキルか、どちらかだな。お前が実際にミサイルを撃つところを、誰も見たことがない」
「ミサイルは、持っているだけでいい。使う必要がなければ、それでいい」
ラッチの答えに、ベテランは笑った。
「強がりに聞こえるが、結果を見ると強がりでもない。ここ三年、審判をしてきた中で、お前にミサイルキルを取られた記憶がない」
「記憶力がいいな」
ラッチがそう混ぜっ返すと、ベテランは肩をすくめた。
「ちょっとした評判になっている。シミュレーション・ミサイルが使える時代に、ガンとマニューバだけで勝ち続ける男がいる、と」
「評判は、タイヤの代金の足しにはならない」
ラッチの言葉に、ベテランは一瞬黙ったが、すぐに笑いに変えた。
「お前は、いつもそういう言い方をする」
その言葉に、ベテランが笑ったところへ、航空雑誌の記者が割り込んできた。
「カルダー選手、今日の勝ち方について、一言いただけますか」
記者がそう尋ねると、ラッチは面倒そうな顔をしたが、答えには応じた。
「ミサイルを使わない理由を聞きたいんだろう」
「はい。シミュレーション・ミサイルの判定技術は、もう十分に成熟しています。それでも、あなたは毎回、ガンかマニューバで決める」
記者の言葉に、ラッチは少し考えてから答えた。
「ミサイルの判定は、機械がする。ガンとマニューバの判定は、最後まで俺の腕がする。どちらが性に合うかは、見ての通りだ」
「この記事を読んだ人には、危険な戦い方だと映るかもしれません」
「危険じゃない戦い方なんて、この競技にはない。ハードデッキを割らせるところまで持ち込むのも、割らせないよう自分を制御するのも、どちらも腕の問題だ」
ラッチの答えに、記者はメモを取りながら頷いた。
「もう一つ、伺います。この強さを、民間の機体一機で保つのは、簡単なことですか」
その質問に、ラッチは一瞬だけ表情を変えた。
「簡単だと答えたら、噓になる」
「どういう意味ですか」
「今日のところは、それだけにしておいてくれ」
ラッチはそう言って、記者との会話を切り上げた。
その夜、片付けの終わった格納庫で、クルーチーフがラッチに静かに切り出した。
「次のレース、スポンサーの件がまだ決まっていない」
「分かっている」
「分かっているだけで、どうにかなる額じゃない。優勝賞金だけじゃ、エンジンの整備費用にすら届かない」
クルーチーフの言葉に、ラッチは何も言わなかった。壁際に立てられたトロフィーの並びと、机の上に広げられた未払いの請求書の束を、しばらく交互に見つめていた。
「今日の勝ち方、見ていて惚れ惚れしたよ。だが、惚れ惚れさせるだけじゃ、機体は飛ばない」
クルーチーフがそう続けると、ラッチは短く頷いた。
「分かっている。分かっているから、困っている」
ラッチの短い答えに、クルーチーフはそれ以上何も追及しなかった。
「記者にも、同じようなことを聞かれていたな」
クルーチーフがそう言うと、ラッチは苦笑した。
「聞かれた。答えなかった」
「答えられなかった、の間違いじゃないか」
クルーチーフの指摘に、ラッチは何も言い返さなかった。
「エンジンの整備費用、どこかから借りるか」
クルーチーフがそう切り出すと、ラッチは首を振った。
「借りた金は、いつか返さなければならない。返せる見込みがないまま借りるのは、俺のやり方とは違う」
「それなら、どうするつもりだ」
「次のレースの賞金で、何とかする。今まで、そうやって乗り切ってきた」
ラッチの答えに、クルーチーフは小さく息を吐いた。
「毎回、賞金で何とかする、で乗り切っているが、それは仕組みじゃない。綱渡りだ」
クルーチーフの言葉に、ラッチは何も言い返さなかった。綱渡りだという指摘は、正しすぎて、否定する余地がなかった。
「乗り切れなかったときのことは、考えていないのか」
ラッチはしばらく黙り、格納庫の天井を見上げてから答えた。
「考えている。考えたくないだけだ」
ラッチの言葉に、クルーチーフは何も言わなかった。二人のあいだに、しばらく機体の軋む音だけが響いていた。
その夜、整備記録をつけ終えたラッチは、一人で格納庫に残った。壁際に立てられたトロフィーの並びと、机の上に広げられた未払いの請求書の束を、しばらく交互に見つめていた。
「今日の勝ち方、見ていて惚れ惚れしたよ。だが、惚れ惚れさせるだけじゃ、機体は飛ばない」
クルーチーフの言葉が、もう一度頭の中で繰り返された。ラッチはしばらく、その言葉の重みをそのまま持ったまま、トロフィーの一つに軽く触れた。
「お前らの出番は、今日も終わりだ。次がいつになるかは、正直、俺にも分からない」
ラッチがそう呟いた相手は、トロフィーでもあり、まだ見えない次の対戦相手でもあった。格納庫の明かりの下、トロフィーの輝きと、請求書の束の重さが、同じ一人の男の生活の中に、何の違和感もなく並んでいた。