もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2020年8月9日 アリゾナ州ツーソン近郊 High Frontier Aviation
機首を下げたまま、機体は静かに、しかし確実に降下を続けていた。高度計の数字は着実に減っていく。窓の外の青は、もう地表の輪郭がはっきり見えるところまで戻ってきている。だが色が戻ったことと、エンジンが戻ることは別だ。
角運動は減衰し、姿勢はすでに安定方向へ収まっていた。座席を通じて伝わる振動も、さっきまでの荒れた周期からは遠ざかっている。与圧服越しの呼吸だけが、変わらず規則正しい音を立て続けていた。ケンはその音の一定さに、自分の状態を確かめる材料の一つを見出していた。
回復専用シュートを切り離してから、まだそう時間は経っていない。だが機体はすでに、次の課題へ向き合っていた。姿勢を取り戻すことと、飛び続けることは、また別の問題だ。
「残存高度、降下率、確認」
「高度、余裕あり。降下率、安定」
エリヤの声は平坦だった。姿勢は回復方向のまま安定し、角運動もほとんど収まっている。残る問題は一つだけだった。主エンジンが、まだ目を覚まさない。
「再始動条件、確認」
「姿勢、良好。回転、風車回転域。流入空気、改善中も未達。速度、増加中。燃料、点火系統、油圧、電源、いずれも正常。高度余裕、十分」
エリヤは一つずつ項目を読み上げながら、頭の中でそれぞれの意味を確かめていた。回転が風車回転域にあるのは、降下による気流がタービンを回し続けているからで、エンジン自体が生きている証拠ではない。それでも、この回転があるからこそ、条件さえ整えば再始動の芽が残る。
条件は一つずつ揃いつつある。だが「流入空気」の項目だけが、まだ足りない。高高度で乱れた気流が落ち着き、エンジンが必要とする密度と流量を取り戻すまで、あと少しかかる。J79は地上に近い密度の高い空気を前提に設計された系統だ。姿勢や回転数がどれだけ整っても、この一項目が揃わない限り、再始動を試みる意味はない。
「ケベック・タンゴ、地上。回復専用シュート切離しを確認。降下継続を認める」
マギーの声は、これまでと変わらず簡潔だった。地上の全員が、同じ数字を見つめ続けている。
「地上、プリヤ。テレメトリー、機上表示と一致。記録、途切れなし」
プリヤの報告が短く挟まる。彼女にとって、今この瞬間に一番大事なのは、何が起きるにせよその全てを取りこぼさず残すことだった。マギーは自分の画面とプリヤの画面を交互に見ながら、二つの数字がまだ同じ方向を指していることを確かめ続けている。
数千フィートを、二人は無言でやり過ごした。エリヤは残存高度と降下率から、条件が整うまでの時間をおおまかに見積もっていたが、それを声には出さなかった。今伝えるべきは推測ではなく、確認できた事実だけだ。
「流入空気、条件域に接近」
「もう少しだ」
ケンは短く応じた。もう少し。今日、何度目かの同じ言葉だった。
「流入空気、条件成立」
エリヤの声に、わずかな張りが混じった。それでも報告の形は崩れない。
「全条件成立。再始動、試みる」
ケンの指令に、エリヤは即座に応じた。
「再始動、開始」
点火系統が作動し、燃料が送り込まれる。回転計の針がわずかに持ち上がった。だが、それだけだった。
「着火、確認。燃焼、安定せず」
エリヤの声に迷いはない。回転数は一瞬持ち上がったものの、すぐに落ちていく。排気温度も、安定した燃焼を示す形にはならなかった。機体を通じて、かすかな鼓動のような振動が一度伝わり、すぐに消えた。
「打ち切る」
ケンは短く告げた。無理に押し通しても、悪化させるだけだ。二人がこれまでの訓練と経験から知っているのは、一度で決めつけないことだった。焦って手順を飛ばすことの危険は、エリヤが整備兵時代から誰よりもよく知っている。
「再始動、中断。降下継続」
「ケベック・タンゴ、地上。再始動試行を確認。次の機会を待て」
マギーの声には、落胆も焦りもなかった。想定された手順の一つが、想定どおりに機能しなかっただけだ。それ以上でも以下でもない。
「了解。条件改善を待つ」
ケンはそれだけ答え、姿勢の維持に意識を戻した。高度はまだ十分残っている。焦る理由はどこにもない。十年かけて積み上げてきたのは、こういう瞬間に慌てないための時間でもあった。
後席で、エリヤは一度だけ目を閉じた。祈りではなく、ただの一呼吸だった。開いた目はすぐに、いつもの計器の並びへ戻っている。今はまだ、それ以上のことを考える局面ではない。
さらに高度が失われ、空気はさらに濃くなっていく。エリヤは計器を追いながら、さっきより速く条件が整っていくのを感じ取った。密度が増せば、流入空気の条件はより早く、より確実に満たされる。窓の外の色は、もう完全に見慣れた青へ戻っていた。
「流入空気、再び条件成立。回転、風車回転域安定」
「再始動、試みる」
ケンの指令は、さっきと変わらない短さだった。だが今度は、違う感触があった。
「着火、確認」
回転計の針が上がっていく。今度は落ちない。
「燃焼、安定。EGT、上昇中。回転数、上昇中」
エリヤの声が、初めて報告以上の響きを帯びた。だがそれも一瞬だけだ。すぐにいつもの口調へ戻る。機体を通じて、低い駆動音がゆっくりと戻ってくるのを、ケンは全身で感じ取っていた。長い間途絶えていた音だった。
「主エンジン、再始動を確認。推力、安定へ移行中」
ケンはスロットルへ、ごくわずかに指を添えた。まだ大きくは動かさない。推力が本当に安定するまで、確かめるべきことはまだ残っている。喜びを表に出す前に、事実を積み重ねる。それが今日、二人が守り続けてきた順番だった。
「ケベック・タンゴ、地上。主エンジン再始動を確認」
マギーの声に、初めてわずかな緩みが混じった。管制卓の周りで、誰かが小さく息を吐く気配があった。プリヤは記録装置の表示から目を離さず、この瞬間の数字も一秒たりとも取りこぼさないよう、画面を見つめ続けている。
「推力、安定を確認」
エリヤの報告に、ケンは短くうなずいた。ようやく、機体は自分の力で飛んでいる。
「エリヤ、その他系統は」
「燃料圧力、正常範囲。電圧、油圧とも正常。火災表示なし」
いつもと変わらない報告だった。数字の並びだけを見れば、今日一日、何ら特別なことは起きていないようにさえ見える。だがその平常さの裏で何が起きていたのかは、まだ誰にも分からない。それを確かめるのは、今この瞬間の仕事ではなかった。
「Center, Quebec Tango, engine restart confirmed, returning to field」
ケンは、必要な事実だけを告げた。管制官の応答は短く、優先進入を維持する旨だけを伝えてきた。
機首を水平へ戻し、降下率を落ち着けながら、機体はゆっくりと通常の飛行姿勢へ移っていく。窓の外の青は、もう完全に地上の色を取り戻していた。速度が増すにつれ、空力操縦面が受け持つ割合が徐々に戻り、RCSノズルの補正噴射はまた小刻みなものへと落ち着いていった。エンジンとRCSの両方が効く領域へ、機体はようやく帰ってきている。
「エリヤ、燃料残量と分布」
「全タンクとも減少は想定範囲内。飛行場までの所要量、十分」
いつもの確認だった。だが今日という日を経た後では、この一言の一つひとつが、これまでとは少し違う重みを持って響いた。
「ケベック・タンゴ、Lightning。再合流する」
ライアンの声が、久しぶりに無線へ戻ってきた。テレメトリーの画面越しに二人を追い続けていた男は、ようやく声を出すべき局面が来たと判断していた。待機空域で、彼にできることは何もなかった。ただ画面の数字を追い、必要になった瞬間にすぐ動けるよう備えることだけが、彼の役目だった。
「了解。外観確認を頼む」
ケンの応答に、ライアンは短く「了解」とだけ返し、ベアメタルの機体を右後方から寄せてくる。距離を詰めながら、丹念に機体各部へ視線を這わせていく。
「前脚、左右主脚、脚扉。見た目に変形なし」
「翼端ユニット、両側とも外見に異常なし。焼損痕はあるが、想定の範囲」
「シュート切離し部、確認。破断面、想定どおり。周辺外板に変形なし」
「主翼、尾部、胴体下面。漏洩の痕跡なし。煙、火災の兆候なし」
ライアンは一つずつ、見えたままを言葉にしていく。「正常」とひとことで片づけず、確認できた範囲を具体的に積み上げていくのが、彼のやり方だった。距離を保ちながら機体の周りを丁寧になぞるように飛ぶその動きに、ケンは今さらながら、この男の腕前を思い出していた。
「エリヤ、脚とフラップを」
「脚、展開開始」
コンソールからの指令に応じ、脚が下がっていく。表示灯が順に切り替わり、三点とも固定を示す。
「前脚、左右主脚、いずれも展開・固定を確認」
「フラップ、展開」
フラップが所定の位置まで下がり、左右の位置が一致していることを、表示が示す。
「フラップ、左右対称、位置正常」
「ケベック・タンゴ、Lightning。脚扉、脚柱角度、いずれも表示と一致。フラップ、左右対称、確認」
ライアンの報告が、機上の表示と一致する。地上のテレメトリーも同じ数字を追っている。三つの情報源が、同じことを告げていた。
「進入を継続する」
ケンは短く告げた。PICとしての判断だった。地上からの推奨をなぞるのではなく、確認できた事実の全てを踏まえた上での結論だ。
「了解。進入を認める」
マギーの声に、これ以上の指示は続かなかった。判断はすでにケンの手にある。
滑走路までの経路を、ケンは頭の中で一度なぞった。速度、高度、進入角。特別なことは何もない。今日という日の異常さと、これから先に必要な操作の平凡さとの落差に、ケンは奇妙な感覚を覚えたが、それを口には出さなかった。今はまだ、感慨に浸る局面ではない。
滑走路が視界の中で少しずつ大きくなっていく。速度、高度、降下率。エリヤは最後まで数字を読み上げ続けた。滑走路脇には、救難消防の車両がすでに待機していたが、出動する局面にはならなかった。接地の瞬間、衝撃が座席を通じて伝わる。
「接地」
「着陸用シュート、展開」
回復用とは別系統のシュートが尾部から広がり、速度を落としにかかる。減速は穏やかだった。今日、機体が経験してきた荷重のどれとも違う、何百回と繰り返してきた見慣れた種類の減速だった。
機体が停止する。しばらくの間、二人は何も言わなかった。エンジンの低い作動音と、APUの一定した唸りだけが、コックピットを満たしている。窓の外では、朝の光がいつもと変わらない角度で滑走路を照らしていた。今日という日が特別だったことを、その光だけは知らない。
「ケベック・タンゴ、地上。停止を確認。お疲れさま」
マギーの声は、いつもと変わらない抑揚のなさに戻っていた。だがその一言に、ケンは今日という日の重さを感じ取った。
「エリヤ、系統状態」
「APU、運転継続。電圧、油圧とも正常。異常表示、なし」
いつもの報告だった。だが今日という日の後では、そのいつもの響きが、何よりも安堵できるものに聞こえた。
窓の外では、格納庫からの車両がすでに近づいてきている。整備班が、いつもどおりの手順で機体を迎えようとしていた。テオが先頭に立ち、無線で聞いていた内容を頭の中で並べ直しながら、必要な点検の順番をすでに組み立てているのが見て取れた。ケンはヘルメットの中で一度だけ、大きく息を吐いた。
「エリヤ、記録装置は」
「最後まで途切れず記録。データ、無傷」
エリヤの声には、安堵とも達成感ともつかない、ただ事実だけを告げる響きがあった。今日起きたことの全ては、この先の解析で少しずつ明らかになっていく。今この場で分かるのは、それを確かめる材料が、一つも欠けずに残っているということだけだった。
もう少し上へ、届いたのかどうかは、まだ誰にも分からない。だが今日、二人は確かに帰ってきた。翼端ロケットとJ79が与えた高さを、APUが支え続けた電力と油圧が、RCSとFBWが、そして回復専用のシュートが、最後まで見捨てなかった。人を育て、部品と工具と記録を積み重ねてきた十年がなければ、今この瞬間はなかった。二人は、空気のあるところへ帰ってきた。