もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2001年9月11日 アラスカ湾上空
夜明け前の空は、まだ暗かった。
高度五万五千フィートを巡航するパシフィック・スカイライン八〇七便は、東京発ニューヨーク行きの定期便だった。二百六十一人の乗客を乗せ、機体はマッハ二で北太平洋を抜け、アラスカ湾に差しかかっていた。
「パシフィック八〇七、アンカレッジ・センター。全米の民間機に、即時着陸が指示された。最寄りの空港へ降りろ」
機長のナタリー・ブレナンは、管制官の声が普段より低いことに気づいた。
「八〇七、了解。最寄りはアンカレッジでよろしいか」
「待て」
その「待て」は、思ったより長かった。副操縦士のラモン・デルガドが、横からナタリーの顔を見た。
「八〇七、アンカレッジは受け入れ不能だ。誘導路も駐機場も、すでに旅客機で埋まっている。次の候補を探す」
ナタリーは返事の代わりに、燃料計へ目をやった。
超音速旅客機は、高く速く飛んでいるあいだだけ、燃料を効率よく使える。音速を下回れば、大きな三角翼の機体は急に大食いになる。降下して減速すれば、残りの燃料は見る間に減っていく。
無線には、同じ空域にいる別の機体の声が流れ込んでくる。パシフィック八一二、パシフィック三〇三、そして日本の東亜航空の機体。四機とも超音速機で、四機とも降りる場所を失っていた。
「八一二、燃料は」
「アンカレッジまでの分は、ある。ただし、そこが使えないなら意味がない」
「三〇三も同じだ。待機に回せるのは、四十分がせいぜいだな」
東亜航空の機長、佐伯の声が割り込んだ。丁寧な英語だったが、語尾がわずかに硬かった。
「こちら東亜〇四。同じく、五十分を切る見込みです。各機、何か案はありますか」
誰も、すぐには答えなかった。無線は、短い雑音を挟んだだけで静まった。
超音速機を受け入れられる空港は、そもそも多くない。長い滑走路、補強された舗装、専用のブレーキ冷却設備、扱える整備員。その条件を満たす空港は、バンクーバーもホワイトホースも、世界中から降りてきた旅客機で、すでに満杯だった。
「八〇七、アイルソン空軍基地が、民間機に滑走路を開ける準備をしている。ただし、早くても二時間後だ」
「二時間」
ラモンが、小さく繰り返した。
「減速して待機すれば、残りの燃料は五十分もたない」
ナタリーがそう言うと、ラモンは黙って頷いた。
ナタリーは頭の中で、使える手を順に並べてみた。海上への不時着水は、乗客二百六十一人の命を賭けることになる。かといって、ほかの空港へ降りようにも、そこまで届く燃料が残らない。残る選択肢は、どれも賭けの形をしていた。
「ラモン。燃料が足りなくなるのは、降りる場所がないからじゃない。待つ時間が長すぎるからだ」
「つまり、時間を買えばいい、ということですか」
「そう。時間を買う方法があれば」
その言葉を口にしたとき、ナタリーはまだ、答えを持っていなかった。
地上で何が起きたかは、客室の乗客も含めて、全員がすでに知っていた。だから誰も、それを口に出さなかった。
そのとき、会社の運航管理者、ハロルド・ペインの声が衛星電話から響いた。
「ナタリー、聞こえるか。燃料を空中で受けられないか、メーカーに確認した」
「空中で、ですか」
「機首の上面に、受油口がある。開発当時、空軍の輸送機計画と設計を共有していた名残だ。民間型では蓋をして封印してあり、飛行規程には、使用禁止とだけ書いてある」
ナタリーは整備の資料で、その蓋の写真を一度見たことがあった。見たのはそれきりだった。
「使ったことは、あるんですか」
「一度もない」
ハロルドは、そう言い切った。
「空軍には話をつけた。アラスカ空軍州兵のKC-135が三機、迎撃機の支援で、もう上がっている。そのうちの一機が、お前たちの横へ来る」
「民間機への給油は、許可が下りていないはずですが」
「今日一日だけの特例が出た。誰も、前例とは呼ばないだろうが」
ナタリーは、短く息を吐いた。
「やります」
同じ頃、空軍の給油機の機内でも、同じ相談が続いていた。機長のカレン・ウィットロック少佐は、防空司令部との回線に向かって、淡々と確認を重ねていた。
「民間機は、受油の訓練も装備の検査も受けていません。接触の事故が起きる確率は、決して低くないと考えます」
「分かっている。だが、あの四機を海に降ろすわけにはいかない」
司令部の声は、疲れていたが、迷っていなかった。
「少佐、君の判断で、危険と思えば中止していい。ただし、やる価値はある」
「了解しました。四機とも、受けます」
カレンは回線を切り、機内の乗員に告げた。
「民間機への給油だ。受ける機体は、大きい。全員、集中を切らすな」
八〇七便の客室では、チーフ・パーサーのミシェルが、通路を歩きながら、乗客の顔を一つずつ確かめていた。不安は誰の顔にもあった。それでも、騒ぐ者はいなかった。窓際の老いた男性が、静かに彼女へ尋ねた。
「機長さんは、大丈夫かね」
「大丈夫です。私たちの機長は、一番頼れる人ですから」
ミシェルは、そう答えた。自分でも、不思議なほどはっきりした声が出た。
八〇七便は、ゆっくりと高度を下げ始めた。マッハ二の加速に慣れた機体が、音速を割り、さらに速度を落としていく。燃料計の針が、はっきりと速く動くのが分かった。
高度二万五千フィート、速度三百ノット。燃料の消費は、計器の数字以上に重く感じられた。時間が惜しい。それでも、焦って近づけば、すべてが壊れる。ナタリーは、自分に何度も同じ言葉を言い聞かせた。
給油機のKC-135が、前方の雲の切れ間に現れた。
給油機の機内では、ブーム・オペレーターのダニー・オルテガが、腹ばいの姿勢で窓から後ろを見下ろしていた。
近づいてくるのは、見たこともない大きさの白い機体だった。三角翼の下で、四基のエンジンが低い音を立てている。機首の上面に、塗装と同じ色に塗られた小さな蓋があった。そこに、赤い文字で何か書いてあった。
「機長、民間機の受油口は、本当に開くんでしょうか」
「開かなければ、全員で別の方法を考える。それだけだ」
機長のカレン・ウィットロック少佐は、そう答えた。
八〇七便の操縦席では、ラモンが蓋の作動スイッチを覆うガードを持ち上げていた。ガードには、封印用の針金が通してあった。
「切ります」
ラモンの指は、わずかに震えていた。マニュアルのどこにも載っていない操作を、今から、世界で最初に行うのだ。
「やって」
針金が切れた。スイッチが入ると、機首の上で、油圧の作動音が小さく鳴った。
「蓋、開きました。受油口、見えるそうです」
ダニーの声が、無線に入った。
「八〇七、こちらブーム。受油口を確認した。ゆっくり前へ来い」
ナタリーには、受油口が見えなかった。機首の真上にあるそれは、操縦席からは死角になる。頼りになるのは、給油機の腹に並んだ灯火だけだった。上下と前後を示す緑と黄と赤の光が、彼女の操縦を導いていく。
「少し下。もう少し前。そのまま」
灯火が、静かに色を変えていく。大きな三角翼の機体は、低速では機首が持ち上がり、少しの操作でも姿勢が揺れた。
「八〇七、前へ出すぎだ。一度離れる」
「ブレイクアウェイ、了解」
ナタリーは機体を引き、給油機の下から離れた。手のひらが、汗でぬれていた。
「すみません。機首が、思ったより持ち上がります」
「それが普通だ。大きな三角翼は、低速だと、どうしても機首を上げる。逆らうな。受け入れて、その姿勢で合わせろ」
無線の向こうで、カレンが言った。軍の飛行機を、民間の機長に教える。そんな日が来るとは、誰も思っていなかっただろう。
「もう一度、お願いします」
「いつでも来い」
ダニーの声は、落ち着いていた。
二度目の接近で、ナタリーは操縦輪を握り直した。機首の上で、ブームの先端が近づいてくるのを、乗客席の窓から見た乗客がいたと、後で聞いた。
「接触。コンタクト」
機体に、小さな衝撃が走った。
「燃料、流れています。毎分およそ三トン」
ラモンの声がした。燃料計の針が、止まり、そして、ゆっくりと逆に動き始めた。
客室では、チーフ・パーサーが乗客に静かに告げていた。
「この機は、空中で燃料を受け取っています。安全に着陸できる場所へ向かうための、必要な作業です」
悲鳴は上がらなかった。窓の外を見つめる乗客たちは、地上で起きたことを知っていたから、たいていのことは受け入れられる顔をしていた。
給油機の窓から見下ろすダニーの目に、二百八十席の旅客機が、翼を広げて静かに浮かんでいるのが映った。本来なら、東京とニューヨークを結ぶ乗客を乗せて飛ぶ機体だ。それが今、軍の給油機の腹の下で、燃料を受けている。
「ブーム、状態は」
「安定しています。揺れは、ほとんどありません」
カレンは、短く頷いた。
十分間で、機体は必要な燃料を受け取った。ブームが静かに離れる。
「八〇七、給油完了。幸運を」
「ありがとう。本当に」
ナタリーの声は、少しだけ震えていた。
給油機は三機いたが、受けるべき機体は四機いた。カレンは残燃料の少ない順に、待機中の機体を順番に呼んだ。最も燃料の乏しかった三〇三便は、二番目に呼ばれた。
三〇三便の機長は、受油口へ近づく途中で、わずかに機首を振れさせた。ダニーはブームの先端を細かく動かし、揺れる受油口を追い続けた。腹ばいの腰が痛んだが、彼は目を離さなかった。
「焦るな。こちらが合わせる」
その声に応えるように、三〇三便は姿勢を整え、静かに接触した。
続いて八一二、そして最後に東亜航空の機体が給油を受けた。その機長の佐伯は、無線でこう言った。
「お世話になります。必ず、この恩は」
ダニーは、少し間を置いて答えた。
「気にするな。これが俺たちの仕事だ」
四機は給油機に導かれ、アイルソン空軍基地へ向かった。滑走路が開いたのは、予定より少し早かった。
進入の最中、ナタリーはふと、さっきまで頭上にあった給油機の腹を思い出した。あの灯火が示してくれたのは、機体の位置だけではなかった。降りる場所がないと言われた空で、確かに自分を導いてくれる何かがあった。
接地の衝撃は、驚くほど小さかった。ラモンが小さく息を吐くのが聞こえた。
冷えた朝の空気の中で、四機の白い機体が次々と接地し、ブレーキの熱が白い蒸気になって立ちのぼった。
乗客が降りたあと、基地の格納庫は、臨時の宿泊所になった。毛布と温かいスープが並ぶ中で、あの老いた男性が、ナタリーの前に歩み寄った。
「機長さん。窓から、空の上で何かが機体につながるのを見たよ」
「はい。空軍の給油機です」
「そうか。ありがとう。今日は、誰かに礼を言いたい日でな」
それだけ言って、男性は頭を下げた。ナタリーは、何も言い返せなかった。
外へ出ると、タラップの下にダニーが立っていた。ダニーは機首の上を見上げ、小さく言った。
「あの蓋の下に、あんなものがついてたとは、民間の人は知らないでしょう」
ナタリーは、笑った。
「私も、今日まで知らなかった」
その翌週、民間機の空中給油は、この日一度きりの出来事として記録に残された。受油口の蓋は、再び封印された。飛行規程の「使用禁止」の一行は、以前よりもほんの少しだけ、重い意味を持つようになった。