もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2001年9月11日 ネバダ州南部上空
夜明けから一時間ほどの空は、冷たく澄んでいた。
高度二万フィート。スコット・"ラッチ"・カルダーのF-15は、五機の編隊の先頭で、アリゾナの自宅基地へ向かっていた。前夜まで開かれていた砂漠のジェット・アンリミテッドの大会を終え、暑さを避けて夜明けとともに発ったところだった。編隊には、F-14のダッチ、初期型F-16を飛ばすキャシー・ロウ、A-4を駆る老人のミッチ、もう一機のF-16が続いている。いずれも、競技の仲間だった。
競技場では敵同士だが、帰路だけは、こうして肩を並べて飛ぶのが習慣だった。戦闘機は、一機で長距離を飛ぶには燃料が足りない。誰かが道を知り、誰かが空きの出た飛行場を覚えている。そうやって、互いを頼りに帰るのが、民間の戦闘機乗りの流儀だった。
「今朝の空は、静かでいいな」
ダッチが、そんな軽口を叩いたのは、通達が入るほんの数分前のことだった。
「全機に通達。全米の民間機は、直ちに最寄りの飛行場へ着陸せよ」
ネバダの管制官の声は、これまで聞いたことのないほど硬かった。
「ネバダ、こちらラッチ。五機編隊、現在位置から最寄りは」
「待て、カルダー。確認する」
ラッチは、ダッチに無線を向けた。
「ダッチ、聞いたか」
「ああ。地上で何かあったらしいな。詳しいことは、まだ分からん」
その短い会話を最後に、無線は一度静かになった。
答えが返ってきたのは、数分後だった。
「ネバダ、五機編隊へ。最寄りの民間飛行場は、いずれも高性能機の受け入れを停止している。身元の確認が取れるまで、着陸を認めない」
「確認とは」
「防空司令部の許可だ。軍用機に似た機体は、確認が終わるまで降ろせないと」
ラッチは、思わず操縦桿を握る手に力を込めた。
自分たちは武装していない。ただの競技機だ。だが、地上から見れば、五機の戦闘機が、所属不明のまま空を飛んでいる。
「キャシー。燃料は」
「四千ポンドちょっと。二十分ぐらいなら待てる。でも、それ以上は」
「こちらミッチ。A-4は、もっと厳しい。三千ポンドを切ってる」
戦闘機は、待つことが苦手だ。
旅客機のように、広い翼と大きな燃料タンクを持っていない。推力を出せば出すほど、燃料は減っていく。高度を保って旋回するだけでも、残りは見る間に削られていく。F-15の機内燃料は、ラッチの計算では、あと四十分ほどしか残っていなかった。
「高度を上げよう。薄い空気のほうが、燃料の減りは遅い」
ラッチの提案に、全機が上昇に移った。二万フィートから三万フィートへ。推力を絞り、最も効率のいい速度に合わせて、大きな円を描く。燃料を節約するための、地味な旋回だった。
「もっと絞れないのか」
「これ以上絞れば、失速する。A-4は特にだ」
ミッチの返事に、ラッチは何も言えなかった。
大会の疲れが残る体で、五機は砂漠の上を、大きな円を描いて回り続けた。計器の数字だけが、時間の経過を確実に刻んでいく。
キャシーが、近くの小さな飛行場に直接問い合わせた。滑走路は短く、ジェット燃料の備えもない。返ってきたのは、短い拒否だった。もう一つの飛行場も、管制塔の声は同じだった。高性能機を降ろす余裕はない、確認が取れるまで空で待ってくれと。
「待てと言われても、こっちは待てない機体なんだがな」
ダッチが、乾いた声で笑った。誰も、一緒には笑わなかった。
「着陸許可がなければ、四十分後には全員が降りる場所を失う」
「軍の給油機は」
ダッチの問いに、管制官は即座に答えた。
「軍の機体は、すべて防空任務に回されている。民間の戦闘機に回す余裕はない」
仮に余裕があったとしても、民間機が空中で燃料を受ける許可は、誰にも下りていなかった。ラッチの機体の背中にも受油口は付いているが、その蓋を開けたことは、一度もない。
そのとき、別の周波数が割り込んだ。
「ジェット・アンリミテッドの出走機へ。こちら砂漠地帯の交通監視機。応答できる機体はいるか」
聞き覚えのある声だった。大会の審判機のクルーだ。
「こちらラッチ。そちらの声は聞こえている」
「ラッチか。こちらマーシュ機長。後ろにいるのは、グレースだ」
審判機の機長、トム・マーシュの声のあとに、管制員のグレース・リンドクイストの声が続いた。
「五機のうち、全員が昨夜の大会のエントリー機ですね。交戦判定ポッドの識別信号が、こちらのレーダーに映っています。機体ごとの登録番号と所有者も、競技名簿と照合できます」
ラッチは、息を吐いた。
「それを、防空司令部に伝えられるか」
「もう伝え始めています。五機とも、民間の競技機です。所属不明ではありません」
グレースの声は、淡々としていた。感情を抑えた、仕事をする人間の声だった。
「ただし、確認が済むまでに時間がかかります。五機とも、燃料の残量を教えてください。優先順位をつけます」
「ミッチのA-4が、一番少ない。三千ポンドを切っている」
「了解。A-4を最初に降ろせるよう、順番を調整します」
グレースは、画面に映る五つの輝点に、一つずつ数字を書き込んでいった。それは、地上のレーダー網が届かない空で、彼女たちが最も得意とする仕事だった。
審判機の機内では、グレースが無線を二つ使い分けていた。片方では、五機の識別番号を防空司令部の担当官に一つずつ読み上げていく。もう片方では、地上のレーダーが届きにくい谷筋を飛ぶ小型機に、交通情報を伝え続けていた。
「五機の識別、確認しました」
防空司令部の担当官は、そう言った。
「州空軍の戦闘機を一組、近くに回します。民間機はそれに従い、指定の飛行場へ降りてください」
「指定の飛行場は」
「ネバダ南部の旧民間飛行場です。閉鎖されていますが、滑走路は使えます」
「そこに、燃料はありますか」
トムが尋ねると、担当官は少し間を置いた。
「民間リーグの燃料車が、すでに待機しているそうです」
大会の運営側は、競技機が帰路で燃料を使い切ることを想定し、その飛行場に燃料車を並べていた。いつもは保険のための配置だった。それが、今日は命綱になった。
十分ほどして、ラッチの機体の左右に、グレーの戦闘機が二機並んだ。州空軍のF-16だった。武装を搭載した機体のパイロットは、ラッチたちの機体を一瞥し、無線で短く告げた。
「五機の民間機、確認した。我々の後ろへ続け。順番に降ろす」
「ラッチ、了解」
燃料の少ないA-4を先頭に、五機は縦一列に並んだ。ミッチの機体は、燃料警告灯をすでに点灯させていた。
「こちらミッチ。まだ大丈夫だ。ただ、風が少し強い」
「落ち着け。滑走路は長い」
ラッチは、老いたパイロットを励ました。
旧飛行場の滑走路は、長く、傷んでいた。亀裂の間から、乾いた草が伸びている。ミッチのA-4は、慎重に進入し、短い接地の音を立てて止まった。その直後、エンジンが小さく咳き込み、止まった。
「ミッチ、大丈夫か」
「ああ。止まっただけだ。ありがとう」
地上のスタッフが走り寄り、機体を牽引車につないだ。
続いて、キャシーのF-16、もう一機のF-16、ダッチのF-14が、順に降りていく。誰も、無駄口を叩かなかった。
最後にラッチのF-15が、傷んだ滑走路へ接地した。燃料計は、わずかに残量を示していた。もう十分も待てば、確実に足りなくなっていた。
エンジンを止め、風防を開けると、乾いた砂の匂いが機内に流れ込んだ。駐機場の端で、競技リーグのスタッフたちが燃料車の前に並び、手を振っていた。
燃料車の脇から、クルーチーフの男が走ってきた。
「ラッチ。全機に給油の準備はできてる。まず、一番少ない機体からだ」
「A-4は、もう給油待ちだ。次に俺のを頼む」
「分かった。……まったく、こんな日に飛ぶ羽目になるとはな」
クルーチーフの手は、ホースを握る前から、わずかに震えていた。それでも彼は、手順を一つも飛ばさず、燃料車のポンプを動かした。給油口に流れ込む音が、静かな飛行場に響いた。
「全員、無事か」
「無事だ」
ダッチが、A-4の翼にもたれかかり、座り込んでいた。キャシーは、ヘルメットを抱えたまま、空を見上げていた。スタッフが運んできた水と、潰れかけたサンドイッチの包みが、駐機場の端に並んだ。誰もそれに手をつけず、しばらく全員が黙ったまま、静まり返った空を見ていた。
ミッチが、ようやく口を開いた。
「四十年飛んでるが、降りる場所がなくて困った日は、今日が初めてだ」
「俺もだ」
ダッチが、短く答えた。
ラッチは、機体の脇に立ち、遠くの空を見た。州空軍のF-16が、旋回を終えて、遠ざかっていった。
しばらくして、無線を持ったスタッフが駆け寄ってきた。
「審判機の人たちが、お礼はいらないと言ってます。ただ、仕事を続けると」
審判機は、まだ上空にいた。谷筋のどこかで、降りる場所を探している機体が、ほかにもいるのだろう。
審判機の機内では、トムが操縦桿を握ったまま、小さく息を吐いていた。
「五機、全部降りたな」
「はい。次は、谷筋の小型機です。まだ三機、位置が掴めていません」
グレースは、画面から目を離さなかった。降りられた五機のことを、いつまでも考えている余裕はなかった。空にはまだ、降りる場所を探している機体がいる。それが、彼女の仕事だった。
ラッチは、空に向かって軽く手を上げた。見えているわけではない。それでも、そうしたかった。
キャシーが、ラッチの隣に並んで言った。
「今日みたいな日のために、帰路の飛行場にも燃料を置いておくべきね。リーグに提案してみる」
「いい考えだ。今日、あの燃料車がなかったら、誰かは海に降りてたかもしれない」
「保険なんて、使わないほうがいいものだと思ってた」
キャシーは、そう言って苦笑した。
ダッチが、燃料車の列を見て言った。
「ここの連中は、俺たちが降りてくると信じて、朝からずっと待っててくれたんだな」
「信じていたというより、備えていただけだ」
ラッチは、そう答えた。備えることが、信じることの形なのかもしれない、とも思った。
そのあと、ラッチは格納庫の隅の電話から、アリゾナへ電話をかけた。何度かつながらなかったあと、ようやく整備士のハビエルの声が聞こえた。
「ラッチさんですか。今どこです」
「ネバダの古い飛行場だ。機体は無事だ。燃料も入れてもらった」
「そうですか。よかった」
ハビエルは、それ以上何も聞かなかった。聞かないでくれていることが、ラッチにはありがたかった。
「帰ったら、機体を見てくれ。ずっと高度を絞って回ったから、エンジンの様子が気になる」
「ええ。待ってます」
「戦闘機は、待てないんだな」
ラッチが呟くと、ダッチが答えた。
「待てない俺たちのために、先に待ってくれる誰かがいた。そういう日もあるってことだ」
その夜、飛行場の格納庫には、簡易ベッドが並べられた。ラッチは機体の脇に座り、F-15の機首を見上げた。
燃料計の針は、今は満タンを指している。だが、今朝の四十分は、数字以上に重く心に残っていた。どれほど腕があっても、戦闘機は、空で待つことだけはできない。降りる場所と、そこに燃料が用意されていることが、この機体にとっての翼なのだ。
ラッチは、機体の装甲板に手を当てた。まだ、わずかに熱が残っていた。
空は、変わらず澄んでいた。