もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2001年9月11日 ネバダ州中部 山岳地帯
ニック・バルガスは、十七歳だった。
自家用操縦士の免許を目指して、初めての単独長距離飛行に出た朝だった。教官から借りたセスナ172は、夜明けの谷間を静かに進んでいる。計画は単純で、ネバダの小さな町を出て、山脈の向こうの飛行場に降り、給油して戻る。それだけのことだ。
ニックの父は、町の小さな整備工場で働いている。幼い頃から、油の匂いのする作業場で、飛行機のエンジンを眺めて育った。操縦席に座るのは、今朝で二十七回目だった。
だが、地図を膝に広げたニックの視線は、さっきから落ち着かなかった。無線が、ずっと沈黙している。
「ネバダ・センター、こちら一七二。位置通報をお願いします」
何度呼んでも、返事は雑音だけだった。山脈の稜線が、地上の管制の電波を遮っている。谷の底を飛ぶ小さな機体には、そもそも届かない空だった。
教官は、出発前にこう言っていた。山岳部は、地上のレーダーも無線も弱い。迷ったら高度を取れ、と。だが、高度を取れば山の風に煽られる。低いままでは、谷が狭くなる。
そのとき、無線から声が入った。
「谷筋を飛ぶ小型機へ。こちら砂漠地帯の交通監視機。聞こえている機体は応答を」
低くて、落ち着いた女性の声だった。
「聞こえています。セスナ一七二、ニック・バルガスです」
「ニックか。現在の高度は」
「七千五百フィート。位置は、たぶんルビー山脈の南側の谷です」
「分かった。こちらのレーダーでも、あなたの輝点を捉えている」
ニックは、全身の力が少し抜けるのを感じた。誰かが自分を見てくれている。それだけで、狭い操縦席が広くなった気がした。
「こちらは交通監視機、グレース。重要な連絡がある。全米の民間機に、直ちに最寄りの飛行場へ着陸する指示が出ている。あなたも降りなさい」
「全米、ですか。どうして」
「理由は、降りてから聞きなさい。今は、降りることだけ考えて」
ニックは、操縦桿を握る手に汗がにじむのを感じた。教官の声が、頭の中によみがえる。パニックになったら、一つずつ処理しろ。
「最寄りの飛行場は、どこですか」
「待って。あなたの南東十二マイルに、小さな町営飛行場がある。滑走路は千メートル弱。舗装は荒れているが、使える」
「千メートル」
ニックは、息を呑んだ。普段の訓練では、倍の長さの滑走路しか使ったことがない。
「大丈夫。セスナ172なら降りられる。私が着陸まで見ているから」
グレースの声は、変わらず落ち着いていた。
その頃、同じ谷筋の別の空で、ルース・ハーモンも同じ呼びかけを聞いていた。
六十二歳。夫の見舞いに病院へ行くため、小さなセスナ182を飛ばしていた。教員を退職して以来、週に一度、この谷を飛ぶのが習慣になっていた。
「こちらルース。交通監視機、聞こえています」
「ルースさんですね。あなたも、最寄りの飛行場へ降りてください」
「何があったんですか」
「降りてから、ご自身で確認してください。それより、あなたの前方四マイルに、別の小型機がいます。若い操縦士です。初めての単独長距離だそうです」
ルースは、すぐに状況を理解した。教員として三十年、生徒の不安な顔を何百と見てきた。無線の向こうの少年の声が、まさにそれだと分かった。
「私が後ろについて、一緒に降りましょうか」
「お願いできますか」
「ええ。教え子を見守るのは、昔からの仕事ですから」
ルースはそう言って、機体を少しだけ傾け、ニックの前へ出る位置を取った。
審判機の機内では、機長のトム・マーシュが、窓の外の稜線を見ていた。夜明けの光が、山肌を金色に染めはじめている。
「南の戦闘機の五機は、無事に旧飛行場へ入ったな」
「はい。次は谷筋です」
グレースはそう答え、休む間もなく、次の画面へ視線を移した。
「谷筋の機体は、あと何機だ」
「ニックとルースのほかに、牧場主のウォルトさんのカブがいます。三機とも、上空に出れば管制と直接話せるはずですが、谷の底からでは届きません」
「俺たちが中継するしかないな」
「ええ」
グレースは、画面に映る三つの輝点を、一つずつ見つめた。
地上のレーダーは、山岳地帯の谷間までは届かない。航空管制の通信も、稜線で途切れる。普段なら、小型機同士が声をかけあいながら飛ぶ空だ。だが今朝は、全員が一斉に降りなければならない。誰かが、全員の位置を把握し、順番をつける必要があった。
その役目を担えるのは、高い空から谷を見下ろす審判機しかなかった。
「ニック。次の方位は一四〇度。そのまま谷を南東へ抜けて」
「一四〇度、了解」
ニックの声は、少しずつ落ち着いてきた。
別の周波数では、牧場主のウォルトが、のんびりした声で応えていた。
「こちらカブのウォルト。そりゃ驚いたな。うちの牧場の草地に降りてもいいか」
「ウォルトさん。牧場の滑走路は、舗装されていますか」
「いや、草と土だ。三十年、そこで離着陸してる」
「問題ありません。最寄りの飛行場として扱います。ただし、降りたら必ず無線で知らせてください」
「分かった。ついでに、牛にも言っとくよ。今日は滑走路を空けとけってな」
グレースは、かすかに笑った。笑うのは、この朝、初めてだった。
ウォルトの輝点は、ゆっくりと高度を下げ、自分の牧場の上で消えた。「着陸した」という声が、間もなく無線に入った。
「グレースさん。無事に降りたよ。ただ、牛が一頭、滑走路の真ん中で寝てやがる。起こして、やっと止まれた」
「それは、運のいい牛ですね」
「ああ。今日はそいつに、ステーキは出せんな」
ウォルトの声には、わずかに笑いが混じっていた。グレースは、無線のスイッチを切りながら、肩の力が抜けるのを感じた。
こんな朝にも、牧場の牛は眠っている。それが、少しだけ、救いのように思えた。
「今、後ろから、白いセスナが近づいている。ルースさん。彼女がそばについてくれる」
「分かりました」
ニックが首を回して後ろを見ると、少し離れた場所に、確かに白い機体が見えた。同じ谷を、同じ速度で飛んでいる。それだけで、不思議なほど心強かった。
そのとき、頭上の空に、細く白い筋が走った。
超音速旅客機が、遥か高い空から降下している。普段なら谷の上空を音もなく通り過ぎていく巨大な機影が、今朝は、いつもより低く、いつもより多く見えた。
「あれは」
「ニック。今は見るな。計器と、前だけを見て」
「はい」
グレースの声は、厳しいというより、静かだった。ニックは、言われた通りに視線を前へ戻した。見ないほうがいいものが、今朝の空にはある。理由は分からなくても、その声の調子だけで、彼にはそれが伝わった。
谷が開けた。山肌の間に、町の屋根と、小さな滑走路が見えてきた。
そのとき、稜線を越えた風が、機体を突き上げた。
「下降気流よ。機首を下げすぎないで。パワーを少し足して」
ルースの声が、後ろから届いた。ニックは、反射的にスロットルを押し込んだ。機体は一瞬沈み、すぐに持ち直した。
ニックは、操縦席で小さく深呼吸をした。計器の針は、すべて正常な範囲を指している。それでも、手の汗だけは止まらなかった。教官が言っていた。恐怖は消さなくていい。ただ、操縦の邪魔をさせるな、と。
「飛行場、視認しました」
「いい。風は北西、八ノット。滑走路は三六。進入してください」
ニックは、教官に叩き込まれた手順を、頭の中で一つずつ追った。高度を下げ、フラップを下ろし、速度を落とす。舗装の継ぎ目が荒れているのが、近づくにつれてはっきりと見えた。
「もう少し右。そのまま」
後ろから、ルースの声が無線に入った。
「ニック。力を抜いて。いつも通りでいいのよ」
「はい」
主脚が接地した。小さな衝撃が、座席を伝わって背中に響いた。ニックは、ブレーキを慎重に踏み込んだ。機体は、長くない滑走路の途中で、ゆっくりと止まった。
「着陸、完了です」
「よくやった」
グレースの声が、わずかに緩んだ。
続いて、ルースのセスナ182が、静かに接地した。二機は、滑走路の脇のエプロンに並んで止まった。
エンジンを止めると、周囲が急に静かになった。ニックは、風防を開けて外に降りた。膝が、小刻みに震えているのに気づいた。
谷の風は冷たく、乾いた草の匂いがした。さっきまで耳を満たしていたエンジンの音がなくなると、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。ニックは、機体の主翼に手を置いた。教官の機体は、今朝も、彼を無事に連れ帰ってくれた。
「大丈夫?」
ルースが、機体から降りて近づいてきた。白髪まじりの短い髪が、朝の風に揺れていた。
「はい。ありがとうございます」
「いい着陸だったわ。教官は、きっと誇りに思う」
ニックは、小さく頷いた。
しばらくして、飛行場の隣の食堂から、店主の女性が出てきた。
「あんたたち、飛んでたのかい。コーヒーを淹れるから、入りな」
その手には、小さなラジオが握られていた。
食堂の中では、数人の町の人が、無言でテレビの前に集まっていた。ニックは、画面を見るのをためらった。ルースがそっと彼の肩に手を置き、カウンターの席へ促した。
温かいコーヒーが、カップの縁まで注がれた。ニックは両手で包むように持った。指の震えが、少しずつ収まっていく。
「お父さんに、電話しなさい」
ルースが言った。
「はい」
食堂の黒電話は、何度かつながらなかった。ようやくつながった受話器の向こうで、父の声が震えていた。
「ニックか。無事なのか」
「うん。町営飛行場に降りた。……ずっと、見ててくれた人がいたんだ」
「そうか。そうか」
父は、それ以上言わなかった。ニックも、それ以上言えなかった。
ルースは、食堂の電話を借りて病院に連絡を入れた。夫は大丈夫だった。看護師が、窓際で空を見上げていると教えてくれた。
「今日は、お見舞いはお休みね」
ルースはそう呟いて、窓の外を見た。谷の上空に、まだいくつもの白い機影が、ゆっくりと北へ流れていた。
そこで初めて、ニックは、今朝何が起きたのかを聞いた。
言葉を失ったまま、彼は空を見上げた。谷の空には、遠くにまだ、白い機影がいくつも浮かんでいた。そのさらに高いところで、細い輪郭の機体が、ゆっくりと旋回している。
あれが、さっき自分を見ていてくれた機体なのだろう、とニックは思った。
「グレースさん。ありがとうございました」
無線機はもう手元になかった。それでも、彼は空に向かって、小さく頭を下げた。
審判機の機内では、グレースが無線を切り替えていた。
「次は、東側の谷です。まだ二機、位置が分かっていません」
トムは、機体を傾けながら、ぽつりと言った。
「ニックって坊やは、声が震えてたな」
「震えていました。でも、最後の進入は、落ち着いていました」
「ああ。いい操縦士になる」
「そうなるといいですね」
グレースは、スコープから目を離さずに答えた。その一言には、いつもよりほんの少しだけ、温度があった。
「了解。針路を変える」
トムが、機体を傾けた。
グレースは、画面の三つの輝点が、それぞれの滑走路の上で消えていくのを確かめてから、次の谷へ目を移した。
彼女にとって、これは特別な朝ではなかった。いつもの仕事の延長だった。ただ、いつもよりも、見落とせないものが多かった。それだけのことだった。