もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2001年9月11日 ネバダ州南部 旧民間飛行場
夜になっても、飛行場は眠らなかった。
古い格納庫の中には簡易ベッドが並び、奥の事務所からは、ラジオの低い声が漏れていた。昼間は砂漠の熱気に満ちていた駐機場も、日が落ちると急に冷えた。
ミッチ・ハーグローヴは、ベッドには入らず、駐機場の端に置いた折りたたみ椅子に座っていた。
目の前には、自分のA-4が停まっている。機体の塗装は色褪せた灰色で、尾翼には、かつて所属していた部隊の名残が、わずかに残っていた。小さな機体だ。競技に出ているほかの戦闘機と並べると、まるで子どもの玩具のように見える。
だが、ミッチにとっては、四十年付き合ってきた相棒だった。
「眠れませんか」
背後から声がかかった。ラッチが、毛布を肩に掛けて立っていた。
「年寄りは、眠りが浅いんだ。それに、今朝のことを考えていた」
「燃料のことですか」
「ああ。着陸したあとで、エンジンが止まった」
ミッチは、機首の空気取り入れ口を、軽く叩いた。
「計算通りだった。ぎりぎりで止まった、という意味でな」
ラッチは、少し笑った。ミッチは笑わなかった。
「あれは、俺の腕じゃない。昔、体に叩き込まれたことが、今朝になって役に立っただけだ」
「空母、ですか」
「ああ」
ミッチの視線は、遠い砂漠の暗がりを見ていた。
一九六〇年代、ミッチは海軍の艦上攻撃機乗りだった。乗機はA-4スカイホーク。小型で、単純で、頑丈で、整備員たちからは親しみを込めて「スクーター」と呼ばれていた。
翼は小さく、機体は軽い。余計な装備は少なく、整備員が手で触れて直せる部分が多かった。大きな機体のような派手さはなかったが、空母の狭い甲板でも、荒い海の上でも、黙って役目を果たす。ミッチは、その飛行機の飾らない性格が好きだった。
最初に空母へ降りた日、教官は言った。「飛行機を信じろ。ただし、自分の数字はもっと信じろ」と。その言葉は、四十年経った今も、ミッチの中で生きている。
「空母の着艦は、普通の着陸とは違う」
ミッチは、ゆっくりと口を開いた。
「滑走路が動くんだ。波で揺れて、風に向かって走り、夜は真っ暗な海のど真ん中に、小さな灯りが浮かんでるだけだ。降りられなければ、もう一度回る。だが、回れる燃料には限りがある」
「ボルターして、やり直しですね」
「そうだ。だが、燃料が尽きかけていれば、やり直しはきかない。だから俺たちは、飛び立つ前から燃料の残りを数える癖がついた。あと何分で、どこまで降りられるか。降りられる場所がなくなる時間を、常に頭のどこかで計算してる」
ラッチは、黙って聞いていた。
「今朝、お前たちが無線で『最寄りの飛行場がない』と言ったとき、俺は不思議と、落ち着いてた。降りる場所がない状況なんて、空母乗りには日常だったからな」
ミッチは、苦笑した。
「若い頃、一番怖かったのは、真っ暗な海で、着艦灯が見えない夜だった。あの怖さに比べたら、今日の朝は、全然ましだ」
ミッチの頭に、その夜が浮かんでいた。
一九六七年。月のない夜の洋上だった。任務を終えたミッチのA-4は、母艦の上空に戻ってきた。残燃料は千五百ポンド。甲板の灯りは、遥か下で小さく揺れていた。
「着艦、一回目」
誘導士官の声が、無線に入った。ミッチは、操縦桿を静かに引き、機体を整えた。甲板が近づく。見えるのは、四本の灯りだけだ。
直前で、甲板が大きく持ち上がった。波に押された艦尾が、予測より高い位置にある。ミッチはとっさに推力を足した。
「ウェーブオフ」
「了解」
ミッチは、機体を引き起こし、もう一度周回に入った。残燃料は、一周ごとに確実に削られていく。千二百。千。
「あと一回だ。次で決めろ」
自分に言い聞かせながら、ミッチは、もう一度甲板に向かって降下した。灯りが重なる。一本の線が、揃った。
「いい。そのまま」
誘導士官の声が、遠くから届いた。主脚が甲板を叩き、尾部のフックが制動索を捉えた。機体が、一瞬で急減速した。
そのとき燃料計は、四百ポンドを指していた。
甲板の上で、ミッチは長い間、風防を開けられなかった。ただ座ったまま、手の震えが収まるのを待っていた。
「それでも、止まったじゃないですか」
「ああ。止まった。降りたあとでな」
ミッチは、小さく息を吐いた。
「無線であんなに静かだったのは、お前たちを不安にさせたくなかったからでもある。年を取ると、そういうところだけは上手くなる」
「ずっと、そうやって飛んでこられたんですね」
「そうだ。それから、キャシーにも言われたよ。あんなに余裕がないのに、なぜ黙っていたのかって」
「なんと答えたんですか」
「三千ポンドを切ってるのは、本当だった。でも、騒いだところで燃料は増えない。だから、黙って飛んだ」
ミッチの声には、静かな誇りがあった。老いた操縦士の、自分の仕事を知っている人間の声だった。
夜風が、駐機場の端を静かに通り抜けた。遠くで、燃料車のポンプが小さく唸っている。
ラッチは、毛布を掛け直しながら、問いかけた。
「ミッチさんは、どうしてA-4をまだ飛ばしてるんですか」
「どうして、か」
ミッチは、しばらく考えてから言った。
「ベトナムのあと、俺は教官になった。海軍の敵役部隊で、若い戦闘機乗りを相手に、わざと敵の戦い方で飛ぶ役だ。小さくて曲がるA-4は、その仕事に向いていた」
ミッチは、尾翼の部隊記号を指差した。
「この機体は、そのとき俺が飛ばしていた一機なんだ。何百人もの若造が、この機体の後ろにつこうとして、ことごとく振り切られた。何百人もの若造が、そのたびに悔しがって、次に来るときは少しだけ上手くなっていた」
ラッチは、尾翼を見上げた。そこには、小さく擦れた数字が残っていた。
「五十二歳で退役したとき、機体は引退して、払い下げの競売に出されることになった。俺は、迷わず入札した」
「家を売ったと聞きました」
「聞いてたのか。そうだ。家を売って、貯金も全部入れた。妻には、呆れられた」
ミッチは、かすかに笑った。
「でも妻は、最後は何も言わなかった。『あなたの顔を見れば、分かるわ』ってな」
売却した家の玄関で、妻は小さな鞄を一つ持って待っていた。引っ越し先は、飛行場の近くの小さな借家だった。ミッチは、何度も謝った。妻は一度だけ首を振り、こう言った。
「飛行機がなくなったら、あなたは、あなたでなくなる気がするの」
その言葉を、ミッチは今でも覚えていた。
「それで、競技に」
「民間リーグができたと聞いて、すぐに参加した。勝つためじゃない。若い連中に、昔の自分が伝えたかったことを、もう一度伝えられる場所だと思ったからだ」
その言葉に、ラッチは胸を突かれた。彼自身も、民間リーグに入ったばかりの頃、ミッチに何度も負かされた一人だった。
元空軍のF-15乗りだったラッチは、速度とパワーで押す戦い方しか知らなかった。ところがミッチの小さなA-4は、低い速度域で、まるで空中に止まるように曲がり、何度でもラッチの後ろに回り込んだ。悔しくて、大会のたびにミッチのところへ行き、どうやったのかと尋ねた。
「海軍は、低い速度で、小さく曲がる飛び方を叩き込まれる。空軍とは、そもそも空の使い方が違うんだ」
ミッチはそう言って、笑いながら何度も説明してくれた。
「ミッチさんに教わった低速の使い方。今でも、競技で使ってます」
「知ってる。お前の旋回を見れば、俺の話をどこまで聞いたか、すぐ分かる」
「すみません」
「謝るな。教えたことが誰かの飛び方に残る。それが教えるということだ」
ミッチは、苦笑して続けた。
「俺が敵役部隊にいた頃も、そうだった。ジェイクという若いのがいてな。何度やっても俺の後ろを取れなくて、毎回、悔しそうな顔で降りてきた」
「どうなったんですか」
「ある日、突然、俺の死角に入ってきた。見ていなかったよ。あの瞬間、俺は思った。教えたことが、この若造の中で、俺の知らない形になって育ったんだとな」
ミッチの声には、静かな喜びがあった。
ミッチは、椅子から立ち上がり、機体の主翼の下に回った。膝に手を当て、ゆっくりと屈みこんで、燃料の排出口を確かめた。
「今朝は、あと何ポンド残っていたんでしょう」
「十ポンドもなかったはずだ。ほんの一口だ」
ミッチは、排出口の蓋を閉め直した。
「ラッチ。一つだけ言っておく」
「はい」
「戦闘機は、待てない。降りる場所がなくなる時間を、いつも数えておけ。それは臆病ということじゃない。次の日も飛ぶために、昨日までの自分が積み上げてきた知恵だ」
ラッチは、深く頷いた。その言葉を、自分の機体の整備士にも、いつか誰かに伝える日が来るのだろうか、と考えた。
「覚えておきます」
「ああ。覚えておけ。俺が教えられるのは、そういう地味なことだけだ」
ミッチは、少し照れたように鼻を鳴らした。
ミッチは、そう言って、もう一度、A-4の機首を軽く叩いた。
その夜遅く、ミッチは事務所の古い電話を借りて、妻に電話をかけた。何度か話し中の音が続いたあと、ようやくつながった。
「ミッチ。今、どこ」
「ネバダの古い飛行場だ。機体も俺も無事だ」
「そう。よかった」
妻の声は、小さく震えていた。ミッチは、受話器を握ったまま、何も言えなかった。長い沈黙のあと、妻が静かに言った。
「あなたが飛んでいる間、私はずっと、ラジオを聞いていたの」
「ああ」
「帰ってきたら、お茶を淹れるわ。いつもの、濃いやつを」
「ありがとう。帰る」
それだけの会話だった。だが、受話器を置いたミッチの顔には、長い間見せなかった柔らかさが戻っていた。
それからの三日間、飛行場の五人は、不思議な日々を過ごした。
民間機はすべて飛べなかった。それでも誰かが、毎朝、燃料車の点検を済ませ、機体の洗浄を手伝い、食堂の鍋をかき混ぜた。ダッチは持ち前の明るさで、地元の子どもたちにF-14の話を聞かせた。キャシーは、リーグへの手紙を、何度も書き直していた。
ミッチは、そのあいだ、一度もA-4の傍を離れなかった。エンジンを開け、ホースを一本ずつ確かめ、小さなクリップの一つひとつまで、指でなぞった。
「機体は、よく黙って待つんだ」
ある晩、ミッチはラッチにそう言った。
「飛べない日が続いても、何も文句を言わない。だからこそ、飛べる日に、ちゃんと応えてやらないといけない」
ラッチは、その言葉を胸に刻んだ。
三日後、民間機の飛行が再開された朝、飛行場は、明るくなる前から動き出した。
ミッチは早起きして、機体の点検を済ませていた。燃料は、前日の夕方に補給されている。エンジンの状態も確認した。何事もなかったように、機体は静かに待っていた。
「ミッチ。順番に離陸だそうだ」
ダッチが声をかけた。
「ああ。先に行け。俺は最後でいい」
「どうして」
「老人は、最後に飛ぶものだ。みんなが無事に上がったのを、見届けてからでいい」
ミッチは、そう言って笑った。
五機の戦闘機が、順に滑走路へ向かった。最後に、A-4のエンジンが、細く鋭い音で目を覚ました。
滑走路の脇には、燃料車のクルーチーフや、食堂の店主や、見送りに来た町の人たちが並んでいた。誰も大声は出さなかった。ただ、帽子を持った手を、静かに振っていた。
ミッチは、風防を閉める前に、一度だけ空を見上げた。夜明けの空は、昨日と同じように澄んでいた。昨日より少しだけ、静かだった。
「スクーター。今日も頼む」
小さく、そう呟いた。
帰ったら、濃いお茶が待っている。それだけで、今日の空は十分だった。
機体は、滑走路を走り出した。短い距離で、軽やかに浮き上がった。ミッチは、翼を一度だけ傾け、待っている地上のスタッフに応えた。それから、静かに高度を上げていった。