もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2001年9月11日 ネバダ州南部 旧民間飛行場
ラリー・ベンソンは、夜明け前の飛行場で、三台の燃料車を一列に並べ終えたところだった。
古い滑走路には、乾いた草が亀裂から伸びている。閉鎖されて十年以上になるこの飛行場は、普段は誰も来ない。だが、競技大会の遠征がある年だけは、リーグの手で、一日だけ息を吹き返す。
ラリーは、競技リーグの地上支援を長年担当してきたクルーチーフだった。五十四歳。若い頃は空軍の整備兵で、ドイツの基地で、毎日のように戦闘機の給油と点検をしていた。燃料は、機体の血液だ。そう教えてくれた上官の言葉が、今も耳に残っている。退役したあとは、民間の戦闘機乗りたちの裏方を続けている。
「リック、接地線の確認は」
「済んでます。三台とも、問題なしです」
助手のリックは、まだ十九歳だった。燃料車の脇で、真剣な顔で書類を確認している。
「水抜きは」
「それも終わってます」
「よし。じゃあ、コーヒーにしよう」
ラリーは、折りたたみ椅子に腰を下ろし、魔法瓶の蓋にコーヒーを注いだ。湯気が、冷たい朝の空気に溶けていく。
東の空が、少しずつ白んでいく。砂漠の朝は、遠くの山並みの輪郭から先に明るくなる。この時間が、ラリーは好きだった。誰も来ない飛行場で、燃料車の影が長く伸びていくのを眺めながら、一日の始まりを待つ。
大会の帰り道に、わざわざ燃料車を並べておく。そんな面倒なことを、リーグの誰もが最初は笑った。
発端は、三年前の夏だった。
大会帰りの初期型F-16が、帰路で燃料が足りなくなった。操縦士は、ティムという名のベテランだった。まだ十五分は飛べると思っていた燃料計が、向かい風のせいで予想より早く減った。
ティムは、エンジンが止まった機体を滑空させ、砂漠の幹線道路に降ろした。車の通りが少なかったことと、ティムの腕がすべてだった。機体も人も無事だったが、ラリーは、その知らせを聞いた夜、一睡もできなかった。
「次は、誰かが死ぬ」
ラリーは翌週、リーグの理事会でそう言った。
「帰路に、燃料を置いておくべきだ。大会の会場から、最寄りの飛行場までの間に」
理事の一人が、渋い顔で言い返した。
「燃料車を何台も遠征に出すのか。費用は誰が持つ。競技者は自己責任だろう」
「自己責任で死なれたら、リーグが続かない」
「燃料の備えがなくて死んだ操縦士は、これまでにも何人もいる」
ラリーは、机を軽く叩いた。
「俺は整備兵の頃から、それを見てきた。誰かが、その前に手を打つべきだ」
会議室は、しばらく静まり返った。
議論は長引いた。結局、予算の都合で、ラリーの案は一つだけ通った。砂漠の大会に限り、帰路にある一つの旧飛行場に、燃料車を並べておく。それが、この飛行場だった。
ほかの経路には、置けなかった。だからラリーは、それ以来、毎年この場所だけは、必ず自分で朝一番に来た。
使われない年のほうが多かった。それでも、毎回同じ手順で、並べて、水を抜いて、待った。
燃料は、置いておくだけでも傷む。使わなければ入れ替え、使えば補充する。その費用は、リーグの会計係から毎年のように嫌味を言われた。
「ラリー、今年も使わなかったのか。無駄になったな」
「無駄になった年が、一番いい年だ」
ラリーは、そう答えるのが常だった。会計係は肩をすくめるだけで、それ以上は言い返さなかった。
リックは、空を見上げながら言った。
「どうしてラリーさんは、毎年ここに来るんですか。使わない年のほうが多いのに」
「使わない年に来ないと、使う年に間に合わないからだ」
ラリーは、さらりと答えた。
「備えってのは、そういうもんだ。必要になってから用意しても遅い」
リックは、何も言わず、燃料車の車輪にチョークを噛ませた。
「ラリーさん、今日も何も起きなければいいですね」
「ああ。そのほうがいい」
ラリーは、そう言って笑った。何も起きない朝が、彼にとっては一番の成功だった。
午前七時五分。
事務所代わりの小屋の中で、携帯無線機が、突然雑音を立てた。
無線機の向こうで、事務局の若い職員の声が、いつもより硬かった。
「ラリー、聞こえるか。リーグの事務局だ」
「聞こえてる」
「全米の民間機に、着陸指示が出ている。そっちに、帰路の競技機が降りる可能性がある」
「何だって」
ラリーは、思わず立ち上がった。事務局の声が、いつもより早口になっていた。
「詳しいことは、あとで話す。五機の戦闘機が、そちらに向かう可能性が高い。準備を頼む」
通信が切れた。ラリーは、しばらく無線機を握ったまま動けなかった。何かが起きた。それだけは、声の調子で分かった。
「リック。給油の準備だ。今すぐ」
「何があったんですか」
「分からん。だが、降りてくる連中は、燃料を必要としてる」
ラリーは、小屋の隅にあったラジオを入れた。流れてきた声に、彼は一度だけ目を閉じた。そして、すぐに目を開けた。
「手を動かせ。今は、動くことだけ考えろ」
自分に言い聞かせるように、ラリーは言った。
整備兵だった頃、基地が緊急態勢に入った日のことを、ラリーは思い出していた。あのときも、上官は声を荒げなかった。ただ、淡々と指示を出し、全員の手を動かさせた。恐怖は、手を動かしているあいだだけ、少し遠くなる。ラリーは、それを身をもって知っていた。
リックが、ホースを握ったまま、小さな声で尋ねた。
「ラリーさん。これ、いつ終わるんでしょうか」
「分からん」
ラリーは、正直に答えた。
「だが、降りてくる連中は、俺たちが終わらせてやれる。それだけは確かだ」
小屋の無線機からは、ネバダの管制官と、空にいる誰かの短い交信が、途切れ途切れに流れてきた。声の調子から、状況が簡単でないことは分かった。それでも、二人は手を休めなかった。
燃料車のホースを引き出し、ノズルの状態を確かめた。戦闘機は、機体ごとに燃料の種類も給油口の位置も違う。F-14とA-4は海軍系の規格、F-15とF-16は空軍系の規格だ。ラリーは、リックに指示を出しながら、順番に札を貼っていった。
「A-4が来たら、ここ。F-14はその隣。ホースの長さが足りない機体は、燃料車を動かして寄せる」
「分かりました」
リックの声は、少し震えていた。それでも、手は止まらなかった。
八時過ぎ。遠くの空に、小さな点が現れた。
「来たぞ」
最初に見えたのは、州空軍のF-16だった。続いて、その後ろに、小さな機体が一つ。A-4だった。
ラリーは、滑走路の脇に立ち、手を挙げた。ミッチの機体は、慎重に高度を落とし、傷んだ路面に接地した。そして、滑走路の途中で、エンジンの音が途切れた。
「止まった!」
リックが叫んだ。
「牽引車を出せ!」
ラリーは、牽引車に飛び乗った。ミッチの機体は、滑走路上で静かに止まっていた。風防が開き、老いたパイロットが、右手を軽く挙げた。
「大丈夫だ。止まっただけだ」
ミッチは、そう言って笑った。
次々と、機体が降りてくる。キャシーのF-16。もう一機のF-16。ダッチのF-14。そして最後に、ラッチのF-15。
ラリーは、一機ごとに手を挙げて誘導し、駐機位置を示した。どの機体も、燃料が少ないのは見て分かった。それでも、パイロットたちは冷静に降りてきた。
「ラッチ。全機に給油の準備はできてる。まず、一番少ない機体からだ」
「A-4は、もう給油待ちだ。次に俺のを頼む」
「分かった。……まったく、こんな日に飛ぶ羽目になるとはな」
ラリーは、そう言いながら、ホースを握った。手が震えているのに、自分でも気づいていた。それでも、手順は一つも飛ばさなかった。給油口にノズルを差し込み、接地線を確認し、流量を見守る。ポンプの音が、静かな飛行場に響いた。
「ラリーさん、ミッチさんのA-4、ほとんど空っぽでした」
「そうか」
「入ったのは、五千ポンド近くです」
「ほとんど満タンだな。あれで飛んでたのか」
ラリーは、小さく息を吐いた。
三年前、ティムの機体が砂漠の道路に降りた夜を、彼は思い出していた。あのとき、自分が理事会で言ったことは、間違っていなかったのだ。それが今日、証明された。だが、証明されてほしくなかった、という思いのほうが強かった。
午前中の給油が終わる頃、ラッチがラリーの隣に立った。
「ラリー。朝からずっと、これを用意してくれてたんだな」
「俺は並べただけだ。今日来るなんて、知らなかった」
「それでも、置いてあった」
ラッチは、少し間を置いて続けた。
「去年、リーグの会合で、あんたの提案に反対した奴がいたと聞いた。俺も、その場にいたら、何も言えなかったと思う」
「気にするな。反対する側の気持ちも、分かる」
ラリーは、ホースを巻きながら言った。
「ただ、俺が言いたかったのは、一つだけだ。空に上がる奴が、降りる場所を持てるようにしたい。それだけだ」
ラッチは、黙って頷いた。そして、胸のワッペンを一つ外し、ラリーの手に握らせた。
「これ、受け取ってくれ」
「何だ」
「リーグ戦で勝った年のワッペンだ。今日の礼にならないかもしれないが」
ラリーは、しばらくそれを見つめたあと、作業服の胸ポケットに、静かにしまった。
少し遅れて、キャシーがラリーに近づいてきた。
「ラリー。今日は、本当にありがとう」
「礼なら、リーグに言え。俺は、並べただけだ」
「並べておいてくれたから、降りられた」
キャシーは、真剣な目をしていた。
「これを、全部の帰路に置けるように、リーグへ提案してみる」
「無理だぞ。金がかかる」
「分かってる。でも、やってみる」
ラリーは、少し黙ったあと、答えた。
「そのときは、俺も一緒に理事会に行く」
昼過ぎ、近くの町から、食堂の店主が大きな鍋を抱えてやってきた。
「みんな、腹が減ってるでしょう。温かいスープよ」
「助かります」
ラリーは、帽子を取って頭を下げた。リックは、無言で鍋を運んだ。パイロットたちも、整備士たちも、同じ鍋から、同じ皿でスープを分け合った。
夜になって、ラリーの妻から電話が入った。
「あなた、大丈夫なの」
「ああ。無事だ。誰も怪我はしてない」
「よかった」
妻の声は、震えていた。ラリーは、受話器を握りしめたまま、窓の外の燃料車を見ていた。
リックは、その夜、小屋の隅で膝を抱えて座っていた。
「どうした」
「今日、初めて分かりました。ラリーさんが毎年、何をしてきたのか」
「大げさだな」
「大げさじゃないです」
リックは、真剣な顔で言った。ラリーは、それ以上返さず、湯気の立つコーヒーを、黙ってリックに差し出した。
その夜、ラリーは、小屋の机に向かい、給油の記録をつけた。機体名、給油量、時刻、パイロット名。一機ずつ、正確に書き込んだ。記録を残すのは、整備兵時代からの習慣だった。
最後の行に、ラリーは、少し迷ってから、こう書き足した。
燃料の量は、数字で残る。だが、その日に起きたことは、数字にはできなかった。それでも、書かずにはいられなかった。
「全機、無事に着陸。九月十一日」
それ以上は、何も書けなかった。ラリーは、ペンを置き、窓の外を見た。夜の飛行場には、三台の燃料車が静かに並んでいた。
誰かが、今日と同じように降りてくる日が、また来るかもしれない。そのときのために、明日の朝も、ラリーはここに来る。