もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2001年9月18日 ロサンゼルス国際空港 パシフィック・スカイライン整備格納庫
ヘクター・ルイスは、二十八年間、同じ会社で飛行機を見てきた整備士だった。
六十歳。白髪まじりの短い髪と、油の染みついた太い指。超音速旅客機が導入された六年前から、彼はその機体の機首周りを専門に任されていた。
その朝、格納庫の中央には、一機の白い機体が静かに置かれていた。八〇七便だった。
アラスカから戻ってきたその機体を、ヘクターは前の晩から、ずっと眺めていた。
九月十一日。ヘクターは、この格納庫にいた。朝の整備の最中、事務所から駆け込んできた同僚が、青い顔でテレビをつけてほしいと言った。格納庫の誰もが、作業の手を止めた。長い沈黙のあと、整備主任が静かに言った。「自分の機体のことを考えよう。いま、私たちにできるのは、それだけだ」と。
その日の夕方、運航部から電話が入った。八〇七便が、空中で燃料を受け取り、アラスカの空軍基地に降りたという。ヘクターは、受話器を握ったまま、しばらく言葉が出なかった。
「蓋が、開いたんですか」
「ああ。針金を切って、スイッチを入れたそうだ」
「そうですか」
電話を切ったあと、ヘクターは、六年間の点検の記録を、棚から全部取り出した。一枚ずつ、署名を眺めた。全部、自分の字だった。
「ヘクターさん。検査官の方が、いらっしゃいました」
後ろから声をかけたのは、見習いのアンジェラだった。二十四歳。去年の春に入社したばかりで、まだ指先に新しい傷の跡が多い。
「分かった。道具を出しておいてくれ」
「はい」
検査官は、連邦航空局のダイアン・ホルトという名の、背の高い女性だった。灰色のスーツの上から作業用の上着を羽織り、手には厚い書類の束を持っていた。
「ルイスさん。今日は、機首の受油口の点検と、再封印の立ち会いです」
「承知しています」
「この機体が、先週、空中給油を受けたというのは」
「本当です。うちの機長から、運航記録を見せてもらいました」
ホルトは、小さく頷いた。
「民間機の空中給油は、今回が初めてです。想定された手順書が、存在しません。ですから、点検項目は私たちも、今日ここで確認しながら決めていくことになります」
「分かりました。できる範囲で、すべてお見せします」
ヘクターは、作業台の上に、手書きの点検メモを広げた。
それは、六年間、毎回の整備のたびに少しずつ書き足してきたものだった。
超音速旅客機の機首上面には、受油口がある。民間型では、薄い金属の蓋で覆われ、作動スイッチは操縦席の天井近くにあるガードの下に隠されている。ガードには、細い針金が通され、鉛の封印がかけられていた。
その封印を確認することが、ヘクターの定例の仕事の一つだった。
毎回の整備のたびに、機首の蓋の周囲を点検し、シールの劣化を見る。操縦席のガードに針金が通っていることを確認し、鉛の封印の刻印を読み、記録簿に署名する。
何も起きない。何も壊れていない。使われたこともない部品を、毎回同じ手順で確認する。
アンジェラが、最初にそれを見たとき、素直に言った。
「これ、誰も使わないんですよね。どうして毎回見るんですか」
「使わないからだ」
ヘクターは、そう答えた。
「使わないのに、使えるかどうかを毎回確かめる。それが、封印の意味だ」
アンジェラは、よく分からないという顔をした。ヘクター自身も、若い頃は同じように思っていた。
この機種を初めて任された日、ヘクターは、メーカーの技術者からこう言われた。「この蓋は、開けない前提で作られています。でも、開けられる状態を保つことが、あなたの仕事です」と。その言葉の意味が分かったのは、ずっとあとのことだった。
その蓋が、先週、開いた。
「機首の足場を組みます」
ヘクターが言うと、アンジェラが慣れた手つきで梯子を運んだ。二人は、白い機首の上面に取りついた。
蓋は、着陸後に操縦席のスイッチで閉じられていた。ヘクターは、慎重に留め具を外し、蓋をゆっくりと持ち上げた。蝶番と作動筒の動きを、指先で確かめる。油圧の作動筒は、一度も錆びていなかった。六年間、使われないまま、毎回の点検で油を差され続けてきた部品だった。
そこには、受油口の円筒が、静かに露出していた。
「ヘクターさん、これ」
アンジェラが、息を呑んだ。
受油口の縁には、ごく細い擦り傷が、幾筋か走っていた。給油機のブームの先端が、何度も接触した跡だった。
「四機分の跡、ではないですよね」
「いや、これは八〇七便の分だ。一度は失敗して、二度目で成功したと聞いている。それなら、跡は二回分だ」
ヘクターは、ライトを当てて確かめた。二回分の擦り傷は、浅く、きれいに残っていた。
蓋の周囲の塗装にも、わずかな剥がれが見つかった。給油中の風圧と、ブームの接近で生じた細かな擦れだった。ヘクターは、剥がれた範囲を測り、記録簿に寸法を書き込んだ。
「損傷は、軽微ですね」
後ろから、ホルトが覗き込んだ。
「はい。ブームの先端との接触による表面の擦過傷だけです。密閉部や配管の損傷は、見当たりません」
「漏れの検査は」
「これから行います。加圧して、継手を一つずつ確認します」
ヘクターは、淡々と手順を進めた。携帯型の圧力計をつなぎ、数値の変化を見守る。何分待っても、針は動かなかった。
「問題ありません」
「よかった」
ホルトは、メモに何かを書き込んだ。
ホルトは、記録簿の端に、小さく何かを書き足した。
「ルイスさん。一つ、個人的に伺っていいですか」
「何でしょう」
「この受油口を、六年間点検してきて、使われると思ったことはありましたか」
ヘクターは、すぐには答えなかった。
格納庫の天井に、高い窓から光が差し込んでいる。遠くで、誰かが工具を落とす音がした。
「正直に言えば、一度も思いませんでした」
ヘクターは、ゆっくりと答えた。
「でも、使えない状態にしておくわけにもいかなかった。使われないことと、使えないことは違います」
「違う、というと」
「使われなくていい。ただ、もし使われる日が来たら、そのときに使えなければ意味がない。それが、封印を守るということだと、私は思っています」
ホルトは、少し間を置いてから、静かに言った。
「その考え方は、今回、証明されました」
「そうですね」
ヘクターは、小さく頷いた。
「ただ、できることなら、証明されなくてよかったとも思います」
その言葉に、ホルトは何も返さなかった。ただ、深く一礼した。
点検は、午後まで続いた。
受油口の内部を清掃し、機体側の配管の接続部を一つずつ確認した。作動油の圧力を見て、蓋の開閉機構を何度も動かした。すべての項目が、基準を満たしていた。
最後の項目は、再封印だった。
「ルイスさん。連邦航空局としては、封印の復旧を確認します。民間機による空中給油の許可は、現時点で、出ていません」
「分かっています」
「今回は、緊急時の例外としての実施です。今後も、許可の予定はありません」
ホルトの声は事務的だったが、目には、わずかな迷いがあった。
ヘクターは、新しい封印用の針金と、鉛の封印具を取り出した。針金を、機首の蓋の留め具に通し、ゆっくりと撚っていく。手の動きは、六年間変わらなかった。
鉛を挟み、封印具を握る。小さな金属音が、格納庫の静けさに溶けた。
刻印は、ヘクターの整備士番号だった。
次に、操縦席へ移った。天井の作動スイッチのガードには、先週ラモン副操縦士が切った針金の、短い切れ端が残っていた。
ヘクターは、それをそっと取り外し、手のひらに載せた。細い針金は、ほんの一センチほどしかなかった。それでも、確かに切断の痕が残っていた。
「それ、捨てるんですか」
アンジェラが、後ろから聞いた。
「いや」
ヘクターは、少し考えてから、針金を小さな封筒に入れた。
「これは、記録として保管する。それと、俺の工具箱にも、一本取っておく」
「どうしてですか」
「今日の日付を、忘れたくないからだ」
ヘクターは、新しい針金をガードに通した。鉛を挟み、封印具を握る。もう一度、小さな金属音が響いた。
ガードの下には、「使用禁止」と書かれた古い札が、変わらず貼られていた。それは、以前とまったく同じ文字だった。だが、ヘクターには、その四文字がまったく違って見えた。
作業を終えたとき、ホルトは、記録簿に署名をした。
「ルイスさん。今日は、ありがとうございました」
「いえ。私の仕事ですから」
「いい仕事でした」
その一言が、六年間の点検記録の最後の一行に、静かに重なった。
ホルトは、そう言って、格納庫を出ていった。
アンジェラは、道具を一つずつ拭きながら、黙っていた。若い彼女にとって、今日の作業は、教科書に載っていない一日だった。
アンジェラが、片付けをしながら、ぽつりと言った。
「ヘクターさん。また、誰も使わない蓋に戻すんですね」
「ああ」
「なんだか、もったいない気もします」
「そうだな」
ヘクターは、笑った。
「だが、それでいい。使わなくていい蓋を、使える状態で守る。それが俺たちの仕事だ」
アンジェラは、少しだけ考えてから、頷いた。
「分かりました。次の点検から、私にも見せてください」
「ああ。丁寧に教えてやる」
ヘクターは、あの日から彼女にだけは、点検簿の署名欄の隣に、自分の字で小さな補足を書いて見せようと決めた。何を見て、何を見ないのか。使われない部品に、どれだけの時間を費やすのか。教えられることは、まだたくさんあった。
アンジェラは、その背中を、黙って見つめていた。
その日の夕方、ヘクターは、格納庫の隅で、一人機体を見上げていた。後ろから足音が近づいてきた。整備主任だった。
「ヘクター。今日の仕事は、これで終わりだ」
「はい」
「お前の六年間の記録、会社が正式に保管することにした。後輩への教材にする」
「そうですか」
ヘクターは、照れくさそうに頭を掻いた。主任は、それ以上は何も言わず、肩を軽く叩いて去っていった。
白い機首の上で、蓋は静かに閉じられていた。封印の鉛が、夕日にわずかに光っている。
あの小さな蓋の下に、二百六十一人の命が通っていったのだ。そう思うと、胸の奥が静かに熱くなった。
格納庫の高い窓から、夕日が斜めに差し込み、機体の白い胴体を橙色に染めていた。その光の中で、封印の鉛だけが、小さく、鈍く光っている。
ヘクターは、工具箱から針金の切れ端を取り出し、掌で包んだ。軽い、小さな金属だった。それでも、それは確かに、あの日の空とつながっていた。
その夜、ヘクターは家に帰り、夕食のテーブルについた。妻のマリアが、黙って皿を並べた。
「今日は、遅かったのね」
「ああ。検査官が来て、封印をやり直してきた」
「あの蓋のこと」
「ああ」
マリアは、何も聞かなかった。ただ、ヘクターのコップに、冷たい水を注いだ。
「あなたが毎回見ていたものが、人を助けたのね」
「俺が助けたわけじゃない。壊れていなくて、よかっただけだ」
ヘクターは、水を一口飲んだ。マリアは、小さく笑った。
食事のあと、ヘクターは工具箱の底に、小さな針金の切れ端を一本そっとしまった。明日からも、また同じ仕事が続く。何も起きない日々の点検が、また始まる。それでいい、とヘクターは思った。