もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2001年10月 ネバダ州ヘンダーソン 競技リーグ事務局
会議室の壁時計は、午後二時を回っていた。
キャシー・ロウは、膝の上に置いた書類の束を、何度も指で整えていた。三週間かけて書き直した提案書は、すでに七回目の改訂になっている。数字の列と、手書きの地図と、ラリーが集めた給油記録の写しが挟まっていた。
開会の三十分前、キャシーは事務局の廊下で、ラッチと立ち話をしていた。
「ここに来るまでに、何度も書き直したの。反対されるのは分かってる」
「反対されても、言うべきだ」
ラッチは、静かに答えた。
「俺は理事じゃないが、傍聴席にいる。何かあれば、立つ」
「ありがとう。でも、立たなくて済むようにする」
キャシーは、そう言って笑った。笑っているのに、指先の震えは止まらなかった。
「落ち着きなさい。大丈夫よ」
隣に座るエレノア・スティールが、小声で言った。リーグの理事の中では、数少ない味方の一人だった。
「分かってる。でも、手が冷たくて」
「それは緊張ね。悪いことじゃない」
エレノアは、少し笑った。
円卓の向こうには、残りの理事たちが座っていた。議長のウォーレン・ブラッドショーは、六十代の腕時計職人のような几帳面な男で、リーグ設立時からの理事だった。会計係のハーラン・グロスは、いつもの渋い顔で、電卓を手元に置いている。
その後ろの傍聴席には、作業着のままのラリー・ベンソンが座っていた。膝の上に帽子を載せ、背筋を伸ばしたまま動かない。その隣には、ラッチとダッチ、そして少し遅れて、杖をついたミッチが入ってきた。
「では、定刻になりました」
ウォーレンが木槌を軽く打った。
「議題は一つ。ロウ会員から提出された、遠征帰路における燃料備えの拡充案です。ロウさん、どうぞ」
キャシーは立ち上がり、深く息を吸った。
「ありがとうございます。先月十一日、私たち五機の民間戦闘機は、帰路で降りる場所を失いました。幸いにして、競技リーグが砂漠大会のために、旧飛行場に燃料車を並べてくれていたおかげで、全員が無事に降りられました」
ウォーレンが、静かに頷いた。
「私たちが救われたのは、偶然ではありません。ベンソン氏が三年前から、ひとりで続けてきた備えがあったからです。ただし、その備えは、砂漠大会の帰路一か所だけでした」
キャシーは、手元の地図を円卓の中央に広げた。
「リーグの遠征経路は、大きく六つあります。砂漠大会の帰路以外の五つには、どれも同じ備えがありません。もし今回と同じことが、別の経路で起きていたら」
「仮定の話では、議論が進みませんな」
ハーランが、鼻を鳴らした。
「ロウさん。九月十一日は、歴史に残る特別な日です。あのような事態が、二度起きるとは考えられません」
「その通りです。だからこそ、私が訴えたいのは、あの日だけの話ではありません」
キャシーは、ラリーの記録の写しを取り出した。
「三年前、ティム・オーウェンズ会員のF-16が、向かい風で燃料計の予想を外し、幹線道路に不時着しかけました。去年の夏には、A-4の別の会員が、十分足らずの燃料で、緊急に降りています。特別な日でなくても、私たちの機体は、日常的に降りる場所を失う寸前にいるんです」
ウォーレンが、書類をめくった。
「確かに、記録はそろっていますな」
「はい。ベンソンさんが、すべて整理してくれました。誰に頼まれたわけでもなく、三年間、毎回の遠征で記録を取り続けてくれていました」
ウォーレンは、眼鏡を押し上げ、傍聴席のラリーを一瞥した。ラリーは、背筋を伸ばしたまま、動かなかった。
会議室が、しばらく静かになった。時計の針の音だけが、やけに大きく響いた。ハーランが、電卓を叩きはじめた。
「それで、費用はいくらかかるのですか」
「六か所に、燃料車と人員を配置する場合、一か所あたり年間約二万ドル。合計で十二万ドルです」
「十二万ドル」
ハーランは、数字を繰り返して、顔をしかめた。
「リーグの年間予算の三分の一ですぞ。どこから出すのか」
「参加機体は、現在約百五十機です。一機あたり年八百ドルの追加負担をお願いすれば、まかなえます」
その瞬間、傍聴席から、小さなどよめきが起きた。
「八百ドル」
誰かが、小声で呟いた。
ミッチが、杖を握る手に力を込めた。彼の年金で、A-4の維持費に上乗せできる額には、限りがあった。
キャシーは、その動きに気づいた。それでも、視線を円卓に戻した。
「負担の重さは、私も承知しています。個人の所有者には、決して小さくない額です。ですから、段階的な導入を提案します。最初の年は、三か所。燃料は使った分だけ実費を取り、使わなかった燃料の入れ替え費用だけを、全員で分担する形にします」
「それでも、年間六万ドル程度か」
ハーランは、電卓の数字を見つめていた。
「まだ高い。リーグにそこまでの責任はない。参加者は自己責任で飛んでいる」
その言葉に、ラリーが椅子から立ち上がりかけたが、隣のラッチが静かに腕を押さえた。
「自己責任、ですか」
理事のロイド・ケンプが、そこで口を挟んだ。
「燃料車を置くとなれば、責任の問題も生じる。給油中に事故が起きたら、リーグが訴えられる。保険料も上がる」
「その点は、ベンソンさんの記録を見てください」
キャシーは、給油記録の別の頁を開いた。
「三年間、一件の事故もありません。給油手順は、空軍整備兵だった頃の標準を、そのまま使っています。接地線、水抜き、流量確認、すべてです」
「だが、それは彼一人の力量だ」
「だからこそ、手順書を作ります。ベンソンさんには、各拠点の担当者への研修をお願いします」
ラリーが、傍聴席から小さく頷いた。ロイドは、それ以上は言い返さなかった。
キャシーは、改めて円卓を見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「ハーランさん。私たちは確かに、自己責任で飛んでいます。それは、私たち自身が一番よく分かっています。ただ、リーグは、ただの競技の場所ではありません。私たちが帰る場所でもあります」
「帰る場所、ですか」
「はい。競技場に来る前、私たちは必ず、帰る道を考えます。その道の途中に、降りる場所と、燃料があるかどうか。それがあるリーグと、ないリーグでは、飛ぶ人間の覚悟が違います」
会議室は、再び静まり返った。
そのとき、会議室のドアが静かに開いた。
事務局の職員が、封筒を手に入ってきた。
「議長。会議の途中ですが、審判機運用会社から、書簡が届いています。ロウ会員の提案に関連するものと思われます」
「読み上げてください」
ウォーレンが促した。職員は、封筒を開け、書面を読み上げた。
「競技リーグ理事会御中。当社は、先月十一日、貴リーグ所属の五機の民間戦闘機の識別と位置を、防空司令部に報告いたしました。その過程で、機体ごとの残燃料の把握に苦労いたしました。交戦判定ポッドの識別信号に、機体の残燃料情報を載せる仕組みを、当社が無償で技術協力いたします。これにより、リーグの運営側は、遠征中の各機の燃料状況を、リアルタイムで把握できるようになります」
キャシーは、思わず顔を上げた。
「差出人は」
「グレース・リンドクイスト。審判機の管制員です」
ラッチが、小さく息を呑んだ。
職員は続けて読み上げた。
「ただし、位置と燃料が分かっても、降りる場所と燃料が地上に用意されていなければ、情報は無力です。当社は、貴リーグが燃料備えの拡充を決定された場合、当該飛行場の空域監視を、通常の契約料金から割引して提供することを申し添えます」
書簡は、そこで終わっていた。
キャシーは、あの日の朝、無線の向こうで淡々と数字を読み上げていた声を思い出した。見えないところで、誰かがずっと見ていてくれたのだ。
ウォーレンは、書面をしばらく見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「これで、燃料の把握と、備えが、一つにつながるわけですな」
「はい」
キャシーは、小さく頷いた。
エレノアが、手を挙げた。
「議長。この書簡を踏まえて、私は修正案を出します。初年度は三か所。参加費の追加負担は一機あたり五百ドル。残りは、審判機運用会社の割引と、実費徴収で補う形にします」
「五百ドルなら、私も受け入れられる」
意外なことに、ハーランが、ぼそりと言った。
全員が、驚いて彼を見た。ハーランは、電卓を静かに閉じた。
「正直に言えば、あの日、私の息子もアリゾナで飛んでいたのだ。無事に帰ってきたが」
会議室に、短い沈黙が流れた。
「数字の話ばかりしてすまなかった。だが、数字がなければ、備えは続かない。だから、三か所から始めよう」
ウォーレンが、木槌を手に取った。
「採決を取ります。エレノア・スティール理事の修正案に賛成の方は」
手が、一つずつ挙がった。エレノア、ハーラン、ウォーレン。そして残りの理事たち。
「全会一致です」
木槌が、静かに鳴った。
隣でエレノアが、キャシーの膝を軽く叩いた。
「ほら、大丈夫だったでしょう」
「全然、大丈夫じゃなかったわ。心臓が止まりそうだった」
キャシーが小声で返すと、エレノアは声を殺して笑った。笑いながら、目の端が少し赤くなっていた。
傍聴席で、ラリーが帽子を握りしめたまま、うつむいていた。ミッチが、杖の先で床を軽く叩いた。
老いたパイロットは、誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。「これで、次に降りる奴が一人でも楽になる」と。
「五百ドルなら、俺にも払える」
「ミッチさん」
ラッチが、小さく笑った。
閉会を告げる声と同時に、傍聴席が一斉にほぐれた。ダッチが椅子の背にもたれて、大きく息を吐いた。
「寿命が縮んだ」
「お前は座ってただけだろ」
ラッチが苦笑した。ダッチは肩をすくめた。
「座ってるだけでも疲れるんだよ。こういう場は」
ミッチは、杖をつきながら立ち上がり、円卓の方へゆっくり歩いていった。ハーランに近づき、静かに手を差し出した。
「ありがとう。息子さんが無事でよかった」
ハーランは、少し驚いた顔をしたあと、無言で握手を返した。
会議が終わったあと、キャシーは廊下で、ラリーに声をかけられた。
「ロウ会員。いや、キャシー」
「はい」
「ありがとう」
ラリーは、不器用に帽子を持ち替え、ほんの少しだけ、目を伏せた。
「ラリーが三年、一人でやってくれたからよ。私は、それを少し広げただけ」
ラリーは、首を横に振った。
「いや。広げてくれる人がいなければ、俺の三年は、一か所のままだった」
キャシーは、返事をしなかった。ただ、廊下の窓の外に目をやった。ヘンダーソンの空は、薄い雲が流れていた。砂漠の向こうでは、これから燃料車が走る道が、見えない線になって伸びているような気がした。
あの朝、降りる場所のなかった空が、今は少しだけ、近くなったような気がした。
翌年の春、リーグの遠征経路には、三か所の新しい給油拠点が加わった。
ラリーは、研修を受けた若い担当者たちを前に、燃料車の水抜きの手順を、一つずつ実演してみせた。リックも、その隣で真剣な顔でメモを取っていた。
「備えってのは、使わないのが一番いい。だが、使う日のために、毎回同じ手順を、同じ丁寧さで繰り返す。それだけだ」
担当者の一人が、手を挙げた。
「使わない年が続いたら、どうすればいいですか」
「そのときは、使わなかったことを喜べ」
ラリーは、笑ってそう答えた。
キャシーは、遠くからその様子を見ていた。誰にも気づかれないように、そっと帽子のつばを持ち上げた。