もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2002年4月 アラスカ州 アイルソン空軍基地
雪解けの季節の滑走路は、水を含んだ黒い路面が朝日を跳ね返していた。
東亜航空の佐伯浩二は、基地のゲート前で、三度、襟を正した。四十八歳。紺色の制服に、機長の四本線。隣には副操縦士の水谷と、チーフ・パーサーの小林が立っている。三人とも、手に小さな風呂敷包みを提げていた。
「佐伯機長、緊張されていますか」
水谷が、小声で言った。
「していないと言えば、嘘になる」
佐伯は、短く答えた。
「あの日から、半年以上経った。ようやく、ここへ来られたんだ」
あの朝のことは、今も毎晩のように思い出した。
帰国してからの半年、佐伯の会社は、あの日の乗客全員に手紙を出した。お詫びとお礼の文面だった。返事が、驚くほど多く届いた。多くの乗客が、折り紙の鶴を一羽ずつ添えて送ってくれた。やがて、社員たちが残りを折り足し、気づけば千羽に届いた。その束を、佐伯は風呂敷に包んで、ここまで運んできた。
アラスカ湾上空でのことは、あの日の混乱の中で、大きくは報道されなかった。民間機の空中給油は、公式には、緊急時の例外として静かに処理されたからだ。だからこそ、感謝を伝える場所は、自分たちで探すしかなかった。アラスカ湾上空で降りる場所を失い、残燃料を数えながら、旋回を続けた。乗客二百四十一人の命が、小さな針の動きにかかっていた。
そして、白い給油機が現れた。
「お待ちしておりました」
ゲートの内側から、一人の女性将校が歩み寄ってきた。濃い緑の制服。胸の名札には「ウィットロック」とあった。
「カレン・ウィットロックです。当日、あなたがたの機体に給油した機体の機長を務めました」
「佐伯です。東亜航空の〇四便の機長を務めました。このたびは、貴重なお時間を頂きまして」
佐伯は、習い覚えた英語は、わざとゆっくり話した。それでも、言葉が足りないのが自分でも分かった。
カレンは、短く笑った。
「無理に難しい言葉を探さなくて大丈夫です。分かりますから」
「ありがとうございます」
佐伯は、深く頭を下げた。そのまま、しばらく顔を上げなかった。
カレンは、少し戸惑った表情で、その姿を見ていた。軍の将校として、民間人にこれほど深く頭を下げられたことは、一度もなかった。
基地の格納庫は、冷たい空気と、燃料と油の匂いで満ちていた。奥に、灰色の巨大な給油機が、翼を休めている。
「この機体です」
カレンが、手のひらで機体の腹を示した。
「あの日の四機のうち、この機体が、八〇七便と三〇三便、そしてあなたの機体に給油しました。八一二便は、同型の別の機体です。あなたの機体は、最後でした」
佐伯は、機体を見上げた。かつて、航空自衛隊の戦闘機乗りとして、何度も空中給油を受けた経験があった。だが、旅客機の機長として、給油機の腹を見上げるのは、初めてだった。
大きかった。空の上で、窓越しに見たよりも、ずっと大きかった。
「あのときの、ブームの方に、お会いできますか」
「ええ。今、呼びます」
しばらくして、格納庫の奥から、作業服姿の若い曹長が現れた。浅黒い肌に、短く刈り込んだ髪。ダニー・オルテガだった。
「オルテガ曹長です。あの日、あなたの機体を担当しました」
「佐伯です。……あなたが」
佐伯は、言葉を飲み込んだ。目の前の男は、思っていたよりも若く、そして、驚くほど普通の青年に見えた。
「あの日、窓から後ろを見下ろして、私の機体を見ていたのですね」
「はい。腹ばいの姿勢で、ずっと」
ダニーは、少し照れたように答えた。
「あなたの機体は、最後でした。それまでに二機続けて給油していて、腕は少し疲れていたんです。でも、あなたの機体が一番静かでした」
「静か、ですか」
「揺れが少なかった。機長の操縦が、丁寧だったんだと思います」
佐伯は、胸の奥で何かが静かに震えるのを感じた。
あのとき、必死に操縦桿を握っていた自分の手が、遠くの誰かに見られていた。それを丁寧だと言ってもらえる日が来るとは、思わなかった。
「ありがとうございます」
佐伯は、風呂敷包みを両手で差し出した。
「日本には、恩という言葉があります。受けた恩は、必ず返さなければならない、という考え方です。あの日、あなたがたに受けた恩は、とても返しきれません」
「そんな、大げさです。仕事ですから」
ダニーは、慌てて手を振った。
「分かっています。でも、受け取っていただきたいのです」
佐伯は、包みをほどいた。中から現れたのは、色とりどりの折り紙で作られた千羽鶴の束だった。一羽ずつ、違う色で、違う大きさで、丁寧に折られている。
「あの便の乗客の皆さんが、一羽ずつ、折ってくださいました。全部で二百四十一羽です。残りは、私たちの会社の社員が折りました」
「千羽鶴」
カレンが、静かに繰り返した。
「長生きと、回復の願いを込めて、日本では折ります。今回は、感謝の気持ちを込めました」
ダニーは、鶴の束を両手で受け取り、しばらく何も言えなかった。指先が、わずかに震えていた。
「これは、受け取れません」
「どうしてですか」
「俺は、ただ、自分の仕事をしただけです。こんなに大切なものは」
「あなたの仕事が、二百四十一人の命を支えたんです。受け取ってください」
ダニーは、助けを求めるように、カレンを見た。カレンは、短く頷いた。
「受け取りなさい、オルテガ。あなたにはその資格があるわ」
佐伯は、それ以上は何も言わなかった。ただ、まっすぐにダニーの目を見ていた。
ダニーは、やがて、小さく頷いた。
「分かりました。大事に飾ります」
格納庫の隅で、小林が、持参した手紙の束を取り出した。
「こちらは、乗客の皆さまから、あの日のお礼のお手紙です。英語に訳したものを添えています」
カレンが、一通を手に取り、目で追った。
「あの日、窓の外で給油機を見たとき、怖いとは思いませんでした。むしろ、誰かが私たちを守ってくれていると感じました。……ありがとうございます」
最後の一文を読み上げるカレンの声が、わずかに揺れた。
「他の手紙も、読ませていただきます」
「どうぞ」
小林は、静かに頷いた。
ダニーは、手紙の束を受け取りながら、ふと、佐伯に尋ねた。
「あの機体の蓋は、どうなりましたか」
「受油口の蓋ですか」
「はい。ブームを差し込んだあと、あの蓋が」
「封印されました。一週間後、整備士が来て、針金と鉛で」
佐伯は、少し寂しそうに笑った。
「民間機の空中給油は、あの日限りだと、規制当局から言われました。もう二度と、使われることはないそうです」
「そうですか」
ダニーは、少し間を置いた。
「それでも、あの蓋の下に、俺たちのブームが入っていった。それは、本当にあったことです」
「はい。本当にあったことです」
佐伯は、強く頷いた。
昼になると、一行は基地の食堂へ案内された。長いテーブルに、給油機の乗員たちが並んでいた。パイロット、航空機関士、ブーム・オペレーター。あの日、空の上で三機の民間機を支えた顔ぶれだった。
「紹介します。この人たちが、あの日の乗員です」
カレンが言うと、乗員たちは、一斉に立ち上がった。ぎこちない敬礼のような動きに、佐伯は、また深く頭を下げ返した。
皿に盛られた冷凍野菜のシチューと固いパンは、決して美味しいとは言えなかった。それでも、佐伯には、それがこれまで食べたどんな食事よりも温かく感じられた。
「機長。あの日の通信、覚えています」
副操縦士席にいたという若い大尉が、パンをちぎりながら言った。
「あなたが『お世話になります』と言ったでしょう。意味が分からなくて、あとでダニーに聞いたんです」
「どう答えましたか」
「『よろしくお願いします、みたいな意味じゃないか』と」
ダニーが、苦笑した。
「それで、合ってます」
佐伯も、笑った。食堂に、小さな笑い声が広がった。
その日の午後、カレンの案内で、佐伯たちは基地の滑走路を歩いた。あの日、四機が降りた滑走路だった。
「ここに、最初に着陸したのは、八〇七便でしたね」
「はい。次に八一二、三〇三。最後が、私の機体です」
佐伯は、滑走路の端に立ち、遠くの山並みを見た。雪をかぶった稜線が、青い空に鋭く浮かんでいる。
「あの日、降りた瞬間のことを、よく思い出します。ブレーキの熱で、白い蒸気が立ちのぼっていました。乗客の皆さんは、拍手をしていました」
「拍手を」
「はい。機内は、長い間、静かでした。降りた瞬間に、誰かが手を叩き始めたんです。それが、機内中に広がりました」
カレンは、黙って佐伯の話を聞いていた。
「機長、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「あの日、あなたは怖かったですか」
佐伯は、しばらく考えてから、答えた。
「怖かったです。ただ、操縦桿を握っているあいだは、怖さが遠くなりました。あなたがたの給油機の灯りを見たとき、怖さは、静かな決意に変わりました」
「決意」
「はい。必ず、この機体と乗客を、無事に降ろす。そう決めました」
カレンは、ゆっくりと頷いた。
「私も、同じでした」
「ウィットロック少佐。もし、また同じことが起きたら」
「そのときは、また上がります」
カレンは、即答した。
「命令があれば、いつでも。それが、私たちの仕事ですから」
佐伯は、その言葉を胸にしまった。
二人は、並んで滑走路の先を見つめた。
夕方、格納庫に戻ると、ダニーが待っていた。手には、佐伯が渡した千羽鶴の束が握られていた。
「機長。一羽だけ、お返ししてもいいですか」
「え?」
「この鶴を、あなたの機体のコクピットに、飾ってください。俺たちが給油した機体が、これからも飛び続けるように」
佐伯は、言葉を失った。ダニーが差し出したのは、赤い折り紙の鶴だった。小さな翼の先に、几帳面な折り目がついていた。不器用な指で、何度も折り直した跡があった。
「ありがとうございます。必ず、飾ります。この鶴を見るたびに、あの日の灯りを思い出します」
佐伯は、両手でそれを受け取った。
別れ際、ダニーは、作業服の肩から部隊章を外し、佐伯の手に握らせた。
「これは、俺たちの部隊の記章です。あなたの機体にも、少しだけ俺たちの運が乗っていることになります」
「運、ですか」
「はい。給油が成功した日の、運です」
佐伯は、記章を両手で包んだ。それは、思ったよりも軽かった。だが、手のひらにはっきりと温度が残った。
ゲートの外で、カレンとダニーは、一行が見えなくなるまで敬礼を続けていた。
帰りの機内、窓際の席で、佐伯は、しばらく無言で眼下の雪原を見ていた。水谷が、隣から小さな声で尋ねた。
「機長。恩は、返せたのでしょうか」
「返せたとは思わない。恩は、一度で返せるものじゃない」
佐伯は、窓から目を離さずに答えた。
「ただ、伝えることはできた。それが、第一歩だ」
翌週、東京を発つ最初の便の出発前、佐伯は、乗務前の点検を終えた操縦席で、天井のスイッチガードの隣に、小さな赤い鶴をそっと貼りつけた。水谷は、何も言わずに、その手元を見ていた。封印の鉛が、鈍く光っている。その隣で、鶴の赤が、ひときわ鮮やかに見えた。
使われなくていい蓋の隣に、使われた日の記憶が、静かに居場所を見つけた。
管制塔から離陸許可が出た。佐伯は、操縦桿を握り、滑走路の先を見つめた。千羽鶴の一羽は、その日から、毎日の空を、一緒に飛び続けることになった。