もう少し上 作:自動車好き/飛行機も好き
2001年9月11日 カリフォルニア沖 民間空母フォーティチュード上空
フランク・ミューラーは、胃のあたりをさすりながら、操縦桿を握り直した。
五十八歳。元海軍のF-14パイロットで、いまは民間のF-14を一機所有している。その朝は、カマリロの飛行場からサンディエゴへ向かう途中だった。エアショーの打ち合わせを兼ねた、ごく普通の飛行のはずだった。
「ミューラー機、こちら南カリフォルニア・アプローチ。全米の民間機に着陸指示が出ている。最寄りの飛行場へ降りろ」
「アプローチ、こちらミューラー。最寄りは」
「待て」
管制官の声が、雑音の向こうで途切れた。数十秒の沈黙のあとで、返答が来た。
「ミューラー機。近隣の飛行場は、いずれも高性能機の受け入れを停止している。身元の確認が済むまで、着陸は認められない」
フランクは、舌打ちをこらえた。F-14は、元は海軍の戦闘機だ。民間機とはいえ、地上から見れば所属不明の機体に見えるのだろう。分かってはいるが、燃料計は容赦なく数字を減らしていく。
胃が、ずきりと痛んだ。
「ミューラー機。聞こえるか。こちら、ピットボス。民間空母フォーティチュードの艦載監視機だ」
別の周波数から、落ち着いた男の声が入ってきた。
「ピットボス。艦載の早期警戒機か」
「その通りだ。現在、貴機の北西六十マイルを飛行中。貴機の識別と位置は、レーダーで捉えている」
「助かる。こちらは燃料が少ない。降りる場所を探している」
「残燃料は」
「四千ポンドちょっと」
通信の向こうで、誰かが小さく息を吸う音がした。
「ミューラー機。貴機は、着艦フックを装備しているか」
「ああ。元海軍の機体だ。フックは生きている」
「では、一つ提案する。フォーティチュードの甲板が空いている。降りてこないか」
フランクは、思わず笑った。乾いた笑いだった。
「甲板に、か。俺が最後に空母に降りたのは、十二年前だぞ」
「十二年前ですか」
「退役の年だ。それ以来、一度も降りてない」
「それでも、貴機のフックは生きていると仰った」
声の主は、静かに続けた。
「当艦の着艦誘導士官は、元海軍で二十年以上の経験者です。風向と甲板の動揺は、当艦の側で管理します。貴機は、降りてくるだけでいい」
フランクは、一度だけ目を閉じた。妻のマーサの顔が浮かんだ。出がけに「無理はしないでね」と言った彼女の声を、彼は思い出した。
最後に空母に降りた日のことを、彼は覚えていた。退役の前日だった。艦の乗組員たちに見送られ、機体を甲板に停めたとき、これで終わりだと思った。それ以来、空母の夢を見ることはあっても、降りる日が来るとは考えていなかった。
操縦席の窓から、遠い海を見た。水平線の向こうに、小さな灰色の影が浮かんでいる。胃の痛みが、さらに強くなった。
「……降りるよ」
「了解。誘導を始めます」
ピットボスの機内では、機長のダリル・オコナーが、後席の管制員たちの動きを横目に見ていた。
この機体の本業は、競技の審判ではなく、洋上の航空交通管制だった。陸上のレーダーが届かない沖合を飛ぶ民間機に、位置情報と周辺交通を伝え続ける仕事だ。太平洋の広い空では、案外多くの機体が、頼る相手もなく飛んでいる。
その朝も、ピットボスは普段通りに空を見回していた。そして、全米への着陸指示が出たとき、最初にしたことは、洋上にいる全機の位置と燃料の確認だった。
艦載の早期警戒機。丸いレドームを背負った、地味な機体だ。民間空母フォーティチュードでは、競技の審判や、周辺海域の航空交通管制を請け負う目として使われている。コールサインを決めるとき、会社の若い社員が冗談半分に提案したのが、ピットボスだった。
「賭場の見張り役、という意味です。全体を見渡して、困っている客に声をかける係ですから」
「客にされる側は、たまらんな」
ダリルは、そのときそう笑った。だが、不思議と皆に気に入られ、そのまま定着した。
「ダリル、ミューラー機の針路を固めました。艦の風下側から接近させます」
管制員のケヴィンが言った。
「燃料が気になる。降りられなかった場合の代替は」
「ありません。陸に降りる選択肢が、今のところゼロですので」
ケヴィンの声は、少し硬かった。
「だから、ここで一回で決めてもらうしかない」
ダリルは、短く息を吐いた。
フォーティチュードの飛行甲板では、着艦誘導士官のビル・ハドソンが、白いヘルメットを被り直していた。ビルは、海軍で二十五年、着艦誘導士官を務めた男だった。退役したあと、民間空母に誘われ、この甲板に戻ってきた。降りてくる機体を見守るのが、彼の仕事であり、誇りだった。
甲板の端には、ワイヤーを巻き取る装置が、静かに待っている。
「ビル。F-14が一機、降りてくる。元海軍のパイロットだ」
甲板長が告げた。
「十二年ぶりの着艦らしい」
「それは、緊張するな」
ビルは、わずかに眉を寄せた。着艦の勘は、体が覚えているものだ。だが、十二年は長い。
「甲板の準備は」
「整っています」
「よし。風は右三十度、十八ノット。甲板の動揺も小さい。条件は悪くない」
ビルは、無線機を手に取った。
「ミューラー。こちら着艦誘導士官のハドソンだ。聞こえるか」
「聞こえる」
フランクの声は、わずかに震えていた。
「落ち着け。俺が全部見ている。お前は、いつも通りに降りればいい」
「いつも通り、か」
「そうだ。海軍で何百回も降りただろう。同じだ」
フランクは、操縦席で小さく頷いた。額に汗がにじんでいる。胃のあたりを手で押さえながら、彼は、手順を一つずつ思い出していった。
進入の最終段階。高度は六百フィートまで下がった。艦影は、すでに目の前に大きく広がっている。
「ミューラー、レンズが見えるか」
「見える。ボールを確認」
「トムキャット、ボール」
フランクは、慣れた口調でコールを返した。機体の識別と、残燃料を伝える、昔ながらの合図だ。
「トムキャット、ボール、三・一」
「了解、ボール。そのまま」
ビルの声が、ヘッドホンの中で響いた。
灯りの位置が、わずかに下がり始める。フランクは、スロットルを微かに押し込んだ。機体が持ち直す。二十年以上体に染みついた動きが、まるで昨日のことのように指先に戻ってくる。
艦尾が近づく。甲板の端の白い線が、視界の中心に迫ってくる。
「パワー」
ビルの声が、短く響いた。
フランクは、スロットルを押し込んだ。そして、次の瞬間。
主脚が、甲板を叩いた。
衝撃。急減速。体が前に引っ張られ、肩のベルトに食い込む。尾部のフックが、ワイヤーを捕らえたのだ。
機体は、あっという間に止まった。
エンジンの音が、静かになる。フランクは、しばらく動けなかった。心臓の音だけが、耳の奥で鳴っている。
「ミューラー、聞こえるか」
「……聞こえる」
「見事な着艦だ。三番ワイヤー。完璧だ。十二年のブランクなんて、どこにもなかった」
三番ワイヤー。空母の着艦で、最も安全とされる狙いどころだった。フランクは、操縦席で、ゆっくりと息を吐いた。
笑いが、込み上げてきた。涙が出そうだった。
「ビル。俺は、まだ降りられるんだな」
「ああ。降りられたよ」
甲板員たちが、機体の周りに駆け寄ってくる。黄色いシャツ、緑のシャツ、赤いシャツ。色とりどりのジャケットが、F-14を取り囲んだ。誰かが、キャノピーを開けるのを手伝ってくれた。
フランクは、よろよろと梯子を降りた。膝が笑っていた。それでも、顔だけは緩んでいた。甲板の上に立つと、足元がわずかに揺れた。海軍時代の懐かしい揺れだった。
「ミューラー」
声をかけたのは、ビルだった。短く刈り込んだ髪に、日焼けした顔。二十年以上、空母の甲板で働いてきた男の目をしていた。
「十二年ぶりの着艦、お見事でした」
「お世辞はいい。胃が痛くて死にそうだ」
フランクが言うと、ビルは、声を出して笑った。
「俺も、あんたが降りてくるのを待ってる間、胃が痛かった」
その日の夕方、フォーティチュードの艦内食堂は、予定外の客で賑わっていた。
近海で降りる場所を失った機体が、ほかにも何機か、フックを頼りに降りてきた。A-4。F-4。S-2トラッカー級の対潜哨戒機。元海軍の操縦士たちが、懐かしい制服姿の甲板員たちに迎えられ、湯気の立つスープを前に、黙って座っていた。
フランクの隣の席では、F-4を操縦していた老人が、無言でパンをちぎっていた。向かいには、A-4で降りてきた若い男が、紙コップを両手で包むように持っている。
「あんたも、久しぶりか」
F-4の老人が、ぽつりと言った。
「十二年ぶりだ」
「俺は十九年ぶりだ。降りた瞬間、ワイヤーの感触で泣きそうになった」
「分かる」
フランクは、短く答えた。それ以上は、誰も何も言わなかった。同じ空母の甲板に降りた者同士にしか通じない沈黙が、食堂に流れていた。
フランクは、隅の席で、薬を飲んでいた。
「胃薬ですか」
向かいに座ったのは、ピットボスの機長、ダリルだった。
「ああ。医者から止められてるんだが、今日は特別だ」
「お気持ちは分かります」
ダリルは、スープを一口すすった。
「うちのコールサインは、縁起でもないと言われたんですけどね」
「ピットボスか」
「はい。賭場の見張り役の名前ですが、今日は、客を一人、無事に見送れたと思います」
フランクは、ダリルの顔を見た。四十代半ば。穏やかな目をしていた。
「あんたの声で、降りる気になった。ありがとう」
「いえ。私は、見つけて、呼んだだけです。降りたのは、あなたです」
フランクは、黙って頷いた。
ダリルは、食事を終えると、静かに立ち上がった。
「そろそろ、夜の当番に交代の時間です」
「ピットボスは、まだ飛ぶのか」
「別の機体が上がります。うちは、休む番です」
ダリルは、笑って敬礼した。丸いレドームを背負った相棒は、昼のうちに最後の民間機を見届けて、すでに格納庫で羽を休めていた。代わりに上がった別の機体が、夜の洋上で、迷子になった機体がいないか、目を光らせている。
夜になり、デッキの照明が点いた。波の音が、艦の腹を静かに叩いていた。甲板の上では、整備員たちが、F-14のチェックをしている。海は静かだった。遠い水平線の向こうに、陸地の灯りが、小さく瞬いていた。
フランクは、甲板の端に立ち、夜の海を見ていた。
十二年ぶりに降りた空母は、昔と同じ匂いがした。燃料と、潮と、鉄の匂い。
胃の痛みは、いつの間にか消えていた。
艦内電話を借りて、フランクは自宅に電話をかけた。マーサは、三度目の呼び出し音で出た。
「無事なのね」
「ああ。降りた」
「どこに」
「空母だ。久しぶりに、ワイヤーを掴んだ」
電話の向こうで、マーサは短く笑った。笑いながら、声が震えていた。
「あなたの胃は、また文句を言うでしょうね」
「言うかもしれん。でも、今夜は静かだ」
フランクは、受話器を握ったまま、夜の海を見た。
三日後、民間機の飛行が再開された朝、フランクはサンディエゴの陸の飛行場へ向かうため、フォーティチュードからF-14をカタパルトで発進させてもらった。民間のF-14のために、空母の蒸気カタパルトが使われた。
打ち出される直前、ビルが手を挙げた。フランクは、短く敬礼を返した。
機体は、轟音とともに甲板を駆け、青い空へ飛び出した。胃の痛みは、もう戻ってこなかった。