もう少し上   作:自動車好き/飛行機も好き

39 / 40
三番ワイヤー

2001年9月11日 カリフォルニア沖 民間空母フォーティチュード上空

 

フランク・ミューラーは、胃のあたりをさすりながら、操縦桿を握り直した。

 

五十八歳。元海軍のF-14パイロットで、いまは民間のF-14を一機所有している。その朝は、カマリロの飛行場からサンディエゴへ向かう途中だった。エアショーの打ち合わせを兼ねた、ごく普通の飛行のはずだった。

 

「ミューラー機、こちら南カリフォルニア・アプローチ。全米の民間機に着陸指示が出ている。最寄りの飛行場へ降りろ」

 

「アプローチ、こちらミューラー。最寄りは」

 

「待て」

 

管制官の声が、雑音の向こうで途切れた。数十秒の沈黙のあとで、返答が来た。

 

「ミューラー機。近隣の飛行場は、いずれも高性能機の受け入れを停止している。身元の確認が済むまで、着陸は認められない」

 

フランクは、舌打ちをこらえた。F-14は、元は海軍の戦闘機だ。民間機とはいえ、地上から見れば所属不明の機体に見えるのだろう。分かってはいるが、燃料計は容赦なく数字を減らしていく。

 

胃が、ずきりと痛んだ。

 

「ミューラー機。聞こえるか。こちら、ピットボス。民間空母フォーティチュードの艦載監視機だ」

 

別の周波数から、落ち着いた男の声が入ってきた。

 

「ピットボス。艦載の早期警戒機か」

 

「その通りだ。現在、貴機の北西六十マイルを飛行中。貴機の識別と位置は、レーダーで捉えている」

 

「助かる。こちらは燃料が少ない。降りる場所を探している」

 

「残燃料は」

 

「四千ポンドちょっと」

 

通信の向こうで、誰かが小さく息を吸う音がした。

 

「ミューラー機。貴機は、着艦フックを装備しているか」

 

「ああ。元海軍の機体だ。フックは生きている」

 

「では、一つ提案する。フォーティチュードの甲板が空いている。降りてこないか」

 

フランクは、思わず笑った。乾いた笑いだった。

 

「甲板に、か。俺が最後に空母に降りたのは、十二年前だぞ」

 

「十二年前ですか」

 

「退役の年だ。それ以来、一度も降りてない」

 

「それでも、貴機のフックは生きていると仰った」

 

声の主は、静かに続けた。

 

「当艦の着艦誘導士官は、元海軍で二十年以上の経験者です。風向と甲板の動揺は、当艦の側で管理します。貴機は、降りてくるだけでいい」

 

フランクは、一度だけ目を閉じた。妻のマーサの顔が浮かんだ。出がけに「無理はしないでね」と言った彼女の声を、彼は思い出した。

 

最後に空母に降りた日のことを、彼は覚えていた。退役の前日だった。艦の乗組員たちに見送られ、機体を甲板に停めたとき、これで終わりだと思った。それ以来、空母の夢を見ることはあっても、降りる日が来るとは考えていなかった。

 

操縦席の窓から、遠い海を見た。水平線の向こうに、小さな灰色の影が浮かんでいる。胃の痛みが、さらに強くなった。

 

「……降りるよ」

 

「了解。誘導を始めます」

 

ピットボスの機内では、機長のダリル・オコナーが、後席の管制員たちの動きを横目に見ていた。

 

この機体の本業は、競技の審判ではなく、洋上の航空交通管制だった。陸上のレーダーが届かない沖合を飛ぶ民間機に、位置情報と周辺交通を伝え続ける仕事だ。太平洋の広い空では、案外多くの機体が、頼る相手もなく飛んでいる。

 

その朝も、ピットボスは普段通りに空を見回していた。そして、全米への着陸指示が出たとき、最初にしたことは、洋上にいる全機の位置と燃料の確認だった。

 

艦載の早期警戒機。丸いレドームを背負った、地味な機体だ。民間空母フォーティチュードでは、競技の審判や、周辺海域の航空交通管制を請け負う目として使われている。コールサインを決めるとき、会社の若い社員が冗談半分に提案したのが、ピットボスだった。

 

「賭場の見張り役、という意味です。全体を見渡して、困っている客に声をかける係ですから」

 

「客にされる側は、たまらんな」

 

ダリルは、そのときそう笑った。だが、不思議と皆に気に入られ、そのまま定着した。

 

「ダリル、ミューラー機の針路を固めました。艦の風下側から接近させます」

 

管制員のケヴィンが言った。

 

「燃料が気になる。降りられなかった場合の代替は」

 

「ありません。陸に降りる選択肢が、今のところゼロですので」

 

ケヴィンの声は、少し硬かった。

 

「だから、ここで一回で決めてもらうしかない」

 

ダリルは、短く息を吐いた。

 

フォーティチュードの飛行甲板では、着艦誘導士官のビル・ハドソンが、白いヘルメットを被り直していた。ビルは、海軍で二十五年、着艦誘導士官を務めた男だった。退役したあと、民間空母に誘われ、この甲板に戻ってきた。降りてくる機体を見守るのが、彼の仕事であり、誇りだった。

 

甲板の端には、ワイヤーを巻き取る装置が、静かに待っている。

 

「ビル。F-14が一機、降りてくる。元海軍のパイロットだ」

 

甲板長が告げた。

 

「十二年ぶりの着艦らしい」

 

「それは、緊張するな」

 

ビルは、わずかに眉を寄せた。着艦の勘は、体が覚えているものだ。だが、十二年は長い。

 

「甲板の準備は」

 

「整っています」

 

「よし。風は右三十度、十八ノット。甲板の動揺も小さい。条件は悪くない」

 

ビルは、無線機を手に取った。

 

「ミューラー。こちら着艦誘導士官のハドソンだ。聞こえるか」

 

「聞こえる」

 

フランクの声は、わずかに震えていた。

 

「落ち着け。俺が全部見ている。お前は、いつも通りに降りればいい」

 

「いつも通り、か」

 

「そうだ。海軍で何百回も降りただろう。同じだ」

 

フランクは、操縦席で小さく頷いた。額に汗がにじんでいる。胃のあたりを手で押さえながら、彼は、手順を一つずつ思い出していった。

 

進入の最終段階。高度は六百フィートまで下がった。艦影は、すでに目の前に大きく広がっている。

 

「ミューラー、レンズが見えるか」

 

「見える。ボールを確認」

 

「トムキャット、ボール」

 

フランクは、慣れた口調でコールを返した。機体の識別と、残燃料を伝える、昔ながらの合図だ。

 

「トムキャット、ボール、三・一」

 

「了解、ボール。そのまま」

 

ビルの声が、ヘッドホンの中で響いた。

 

灯りの位置が、わずかに下がり始める。フランクは、スロットルを微かに押し込んだ。機体が持ち直す。二十年以上体に染みついた動きが、まるで昨日のことのように指先に戻ってくる。

 

艦尾が近づく。甲板の端の白い線が、視界の中心に迫ってくる。

 

「パワー」

 

ビルの声が、短く響いた。

 

フランクは、スロットルを押し込んだ。そして、次の瞬間。

 

主脚が、甲板を叩いた。

 

衝撃。急減速。体が前に引っ張られ、肩のベルトに食い込む。尾部のフックが、ワイヤーを捕らえたのだ。

 

機体は、あっという間に止まった。

 

エンジンの音が、静かになる。フランクは、しばらく動けなかった。心臓の音だけが、耳の奥で鳴っている。

 

「ミューラー、聞こえるか」

 

「……聞こえる」

 

「見事な着艦だ。三番ワイヤー。完璧だ。十二年のブランクなんて、どこにもなかった」

 

三番ワイヤー。空母の着艦で、最も安全とされる狙いどころだった。フランクは、操縦席で、ゆっくりと息を吐いた。

 

笑いが、込み上げてきた。涙が出そうだった。

 

「ビル。俺は、まだ降りられるんだな」

 

「ああ。降りられたよ」

 

甲板員たちが、機体の周りに駆け寄ってくる。黄色いシャツ、緑のシャツ、赤いシャツ。色とりどりのジャケットが、F-14を取り囲んだ。誰かが、キャノピーを開けるのを手伝ってくれた。

 

フランクは、よろよろと梯子を降りた。膝が笑っていた。それでも、顔だけは緩んでいた。甲板の上に立つと、足元がわずかに揺れた。海軍時代の懐かしい揺れだった。

 

「ミューラー」

 

声をかけたのは、ビルだった。短く刈り込んだ髪に、日焼けした顔。二十年以上、空母の甲板で働いてきた男の目をしていた。

 

「十二年ぶりの着艦、お見事でした」

 

「お世辞はいい。胃が痛くて死にそうだ」

 

フランクが言うと、ビルは、声を出して笑った。

 

「俺も、あんたが降りてくるのを待ってる間、胃が痛かった」

 

その日の夕方、フォーティチュードの艦内食堂は、予定外の客で賑わっていた。

 

近海で降りる場所を失った機体が、ほかにも何機か、フックを頼りに降りてきた。A-4。F-4。S-2トラッカー級の対潜哨戒機。元海軍の操縦士たちが、懐かしい制服姿の甲板員たちに迎えられ、湯気の立つスープを前に、黙って座っていた。

 

フランクの隣の席では、F-4を操縦していた老人が、無言でパンをちぎっていた。向かいには、A-4で降りてきた若い男が、紙コップを両手で包むように持っている。

 

「あんたも、久しぶりか」

 

F-4の老人が、ぽつりと言った。

 

「十二年ぶりだ」

 

「俺は十九年ぶりだ。降りた瞬間、ワイヤーの感触で泣きそうになった」

 

「分かる」

 

フランクは、短く答えた。それ以上は、誰も何も言わなかった。同じ空母の甲板に降りた者同士にしか通じない沈黙が、食堂に流れていた。

 

フランクは、隅の席で、薬を飲んでいた。

 

「胃薬ですか」

 

向かいに座ったのは、ピットボスの機長、ダリルだった。

 

「ああ。医者から止められてるんだが、今日は特別だ」

 

「お気持ちは分かります」

 

ダリルは、スープを一口すすった。

 

「うちのコールサインは、縁起でもないと言われたんですけどね」

 

「ピットボスか」

 

「はい。賭場の見張り役の名前ですが、今日は、客を一人、無事に見送れたと思います」

 

フランクは、ダリルの顔を見た。四十代半ば。穏やかな目をしていた。

 

「あんたの声で、降りる気になった。ありがとう」

 

「いえ。私は、見つけて、呼んだだけです。降りたのは、あなたです」

 

フランクは、黙って頷いた。

 

ダリルは、食事を終えると、静かに立ち上がった。

 

「そろそろ、夜の当番に交代の時間です」

 

「ピットボスは、まだ飛ぶのか」

 

「別の機体が上がります。うちは、休む番です」

 

ダリルは、笑って敬礼した。丸いレドームを背負った相棒は、昼のうちに最後の民間機を見届けて、すでに格納庫で羽を休めていた。代わりに上がった別の機体が、夜の洋上で、迷子になった機体がいないか、目を光らせている。

 

夜になり、デッキの照明が点いた。波の音が、艦の腹を静かに叩いていた。甲板の上では、整備員たちが、F-14のチェックをしている。海は静かだった。遠い水平線の向こうに、陸地の灯りが、小さく瞬いていた。

 

フランクは、甲板の端に立ち、夜の海を見ていた。

 

十二年ぶりに降りた空母は、昔と同じ匂いがした。燃料と、潮と、鉄の匂い。

 

胃の痛みは、いつの間にか消えていた。

 

艦内電話を借りて、フランクは自宅に電話をかけた。マーサは、三度目の呼び出し音で出た。

 

「無事なのね」

 

「ああ。降りた」

 

「どこに」

 

「空母だ。久しぶりに、ワイヤーを掴んだ」

 

電話の向こうで、マーサは短く笑った。笑いながら、声が震えていた。

 

「あなたの胃は、また文句を言うでしょうね」

 

「言うかもしれん。でも、今夜は静かだ」

 

フランクは、受話器を握ったまま、夜の海を見た。

 

三日後、民間機の飛行が再開された朝、フランクはサンディエゴの陸の飛行場へ向かうため、フォーティチュードからF-14をカタパルトで発進させてもらった。民間のF-14のために、空母の蒸気カタパルトが使われた。

 

打ち出される直前、ビルが手を挙げた。フランクは、短く敬礼を返した。

 

機体は、轟音とともに甲板を駆け、青い空へ飛び出した。胃の痛みは、もう戻ってこなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。